『将棋世界』12月号 ~竜王戦展望対談……森下九段×中村太六段~
『将棋世界』12月号 ~竜王戦展望対談……森下九段×中村太六段~ その2
の続きです。
(それにしても、決着して20日以上も経った竜王戦“展望”対談の記事に、未だに噛みついている私って……)
「その1」では、森下九段の世代交代観についての検証と反論、
「その2」では、森下九段の過去の言動についての考察
をしてきましたが、今回はこの記事を書く動機となった『将棋世界』の対談記事での氏の発言について述べます。
「自分自身を鑑みても、もって生まれた才能と運は厳然と存在します。私の弟子である増田(康宏四段)を見ても、才能と環境に恵まれた運は大きいと思いますね。ただ恵まれたすべての人間がトップに立てるかどうかは別の話です。
中村さんも言いましたが、情熱を持ち続けるのことが難しいんです。自分も嫌というほどわかります。情熱が薄れたときは自分がいちばん敏感に感じるんです。それなりに頑張ってはいますが、やはり違っています。
振り返ると私は24歳くらいのときに情熱が薄れました。27歳になるとはっきりダメだとわかっていました」
(--森下九段の20台半ばというと、当時の谷川竜王へ挑戦(1991年)した頃ですよね)
「そうなんですよ。こんなことではダメだとわかっていても、一度情熱が薄れてしまうとそれは前の自分とは別の存在になってしまうんです。
ただ自分は奨励会入会からそのときまでずっと将棋一筋で打ち込んできたという下地がありました。この20年間はその貯金でごまかしてきました。
もし情熱が薄れたのが37歳だったらもっと強かっただろうし、逆にもっと前に薄れていればどうなっていたか」
(横道に逸れますが、記事の文章そのまま引用していますが、「とき」「いちばん」は平仮名が一般的なのでしょうか?)
いやぁ~、びっくり!
森下氏の情熱の希薄さについては感じることはあった(解説の中で洩らしていた気がする)が、将棋連盟が発行する『将棋世界』誌の対談で語ってしまうとは……
対談での言葉というのは、基本的にすべて記事(文章)になると考えられる。それなのに、堂々と≪私は20年以上前からやる気がなくなってしまい、その後は惰性で将棋を指してきました(仕事をしてきました)。でも、若い時の精進と才能で何とかごまかしてきました≫と公言してしまったのである。しかも、森下氏は連盟の元理事である。
いきなり言いたいことを言ってしまおう。(書き連ねていくと、感情が高まって何を書いてしまうか分からない)
情熱を失ったのなら、さっさと棋士などやめてしまえ!
法を犯していないし、人にも迷惑をかけていないし、私の氏を糾弾する資格も権利もないのは承知しているが、この『将棋世界』の記事を見て、頭に血が上ってしまった。かなり、間を於いて記事を書いているのだが、それでも興奮してしまう。
もちろん、他人に言えない苦労や葛藤はあったと思うが、現役棋士が「情熱がなくなった」と口が裂けても言ってはいけない。しかも、こともあろうか、機関誌の記事になることをが前提の対談で。
先の電王戦では、リップサービスかもしれないが「ぜひ私を七冠王にするプログラムを作ってください」という『“将棋連盟の命運を懸ける”とは掛け離れた』コメントを発していたが、情熱を失った人ゆえのコメントだったのだ。情熱を失った人が、将棋連盟の看板を懸けて将棋ソフトと戦ってはいけない。
また、電王戦において「情熱を取り戻すために竜王戦に名乗りを上げた」とも述べているが、そういう個人的気持ちで戦って欲しくはなかった。
ここで、少し冷静になって、氏の言葉を分析してみよう。
「情熱が薄れたときは自分がいちばん敏感に感じるんです」
「一度情熱が薄れてしまうとそれは前の自分とは別の存在になってしまうんです」
不思議な言い回しである。
引用した全文を解釈すると、「20代半ばで情熱を失い、その後は惰性ですませた」はずなのだが、上記の2文は、「今までに何度か情熱を失ったことがあり、それを敏感に感じた。また、そういう時は、自分と違う存在になってしまっていた」というような印象を受ける。
あるいは、これまでの前世の記憶をいくつも持っており、その経験を踏まえての言葉とも解釈できる。
まあ、こんな分析はともかく、氏の言葉(この対談だけでなく)は、どこか他人任せのように感じることが多い。奨励会やC級2組時代を“地獄の苦しみ”と述懐したと、「その2」でも述べたが、森下氏にとっては将棋を心底好きではなく、自分のために将棋を指していないように思えてしまう。
「もし情熱が薄れたのが37歳だったらもっと強かっただろう」
これも他人事の言い方である。
ダメな人のひとつの言い訳として「自分がやる気になったらすごいよ」という負け犬の遠吠えがあるが、それに近いものを感じる。
この森下氏が大晦日にひと騒動。
「電王戦 リベンジマッチ」
ニコニコ動画の特設サイトには
「『将棋電王戦リベンジマッチ 森下卓九段 vs ツツカナ』は、「第3回将棋電王戦 第4局」小田原城で戦った、森下卓九段とコンピュータ将棋ソフト“ツツカナ”の再戦イベント。第3回将棋電王戦では森下卓九段が自分の将棋を貫き、相矢倉で真っ向勝負を挑んだが、苦戦の局面で大悪手を指し惜しくも敗れた。
その後行われた記者会見で継盤を使っての対局を提案し、再戦のチャンスが与えられた。森下九段が自ら考えたルールでツツカナに勝利することができるのか…」
とある。
森下式対局ルール
持ち時間
3時間(チェスクロック方式)、秒読み10分。継盤使用可
対局時間
番組開場 10:00 対局開始 10:15 終局予定 22:00
(休憩 13:00~14:00、17:00~18:00、21:00~21:30)
プライドをかなぐり捨てた森下氏。
確かに、≪氏の言う“ヒューマンエラー”をなくせば、コンピュータ将棋と互角以上に戦える≫ような気がする。
“ヒューマンエラー”とは、肉体的精神的疲労や時間切迫によって生じるミスと解しているが、休憩を充分に取り疲労を軽減させ、終盤に時間に追われないような対局システムであれば、ヒューマンエラーをかなり防げるはずである。
また、コンピュータ将棋は盤駒を使用しているのと同じであるので、人間が継盤を使用できないのは不公平のような気もする。
「人間の頭脳対コンピュータ」の勝負ならそれで良いが、「棋士」として戦うと考えた場合はどうなのだろう?
“秒読み”と言うが、これでは“分読み”である。継盤使用する図は、棋士としては格好悪いぞ。
そんな格好悪い画で負けたら、本当に格好悪い。
そんな格好悪さが、将棋界に及ぼす影響を考えたのだろうか。
情熱云々は置いていても、「負けたら引退」ぐらいの覚悟を持って勝負に臨んでほしい。(あっ、そうすると、ヒューマンエラーが生じてしまうか)
【蛇足】
ところで、本当に22時に終局するのだろうか?
持ち時間がチェスクロック使用の3時間なので、両者が同じような時間の使い方をすれば、実際の対局経過時間が6時間で秒読みに突入する。その時刻が18:15。その時点での局面が中盤か終盤か寄せの段階かは予測できないが、仮に終盤戦に入った辺りと仮定しよう。
昨日の順位戦B級1組10回戦において、6対局のうち3番目と4番目に終局した豊島七段-松尾七段、畠山七段-木村八段を見ると、終盤に入ったと思われた局面から終局までに30手ほど指されている。
1手平均8分費やすとして、8分×30=240分=6時間で、リベンジマッチの対局システムに当てはめると、24:45となる。
まあ、これは両者のペース配分によって大きく変わるが……
『将棋世界』12月号 ~竜王戦展望対談……森下九段×中村太六段~ その2
の続きです。
(それにしても、決着して20日以上も経った竜王戦“展望”対談の記事に、未だに噛みついている私って……)
「その1」では、森下九段の世代交代観についての検証と反論、
「その2」では、森下九段の過去の言動についての考察
をしてきましたが、今回はこの記事を書く動機となった『将棋世界』の対談記事での氏の発言について述べます。
「自分自身を鑑みても、もって生まれた才能と運は厳然と存在します。私の弟子である増田(康宏四段)を見ても、才能と環境に恵まれた運は大きいと思いますね。ただ恵まれたすべての人間がトップに立てるかどうかは別の話です。
中村さんも言いましたが、情熱を持ち続けるのことが難しいんです。自分も嫌というほどわかります。情熱が薄れたときは自分がいちばん敏感に感じるんです。それなりに頑張ってはいますが、やはり違っています。
振り返ると私は24歳くらいのときに情熱が薄れました。27歳になるとはっきりダメだとわかっていました」
(--森下九段の20台半ばというと、当時の谷川竜王へ挑戦(1991年)した頃ですよね)
「そうなんですよ。こんなことではダメだとわかっていても、一度情熱が薄れてしまうとそれは前の自分とは別の存在になってしまうんです。
ただ自分は奨励会入会からそのときまでずっと将棋一筋で打ち込んできたという下地がありました。この20年間はその貯金でごまかしてきました。
もし情熱が薄れたのが37歳だったらもっと強かっただろうし、逆にもっと前に薄れていればどうなっていたか」
(横道に逸れますが、記事の文章そのまま引用していますが、「とき」「いちばん」は平仮名が一般的なのでしょうか?)
いやぁ~、びっくり!
森下氏の情熱の希薄さについては感じることはあった(解説の中で洩らしていた気がする)が、将棋連盟が発行する『将棋世界』誌の対談で語ってしまうとは……
対談での言葉というのは、基本的にすべて記事(文章)になると考えられる。それなのに、堂々と≪私は20年以上前からやる気がなくなってしまい、その後は惰性で将棋を指してきました(仕事をしてきました)。でも、若い時の精進と才能で何とかごまかしてきました≫と公言してしまったのである。しかも、森下氏は連盟の元理事である。
いきなり言いたいことを言ってしまおう。(書き連ねていくと、感情が高まって何を書いてしまうか分からない)
情熱を失ったのなら、さっさと棋士などやめてしまえ!
法を犯していないし、人にも迷惑をかけていないし、私の氏を糾弾する資格も権利もないのは承知しているが、この『将棋世界』の記事を見て、頭に血が上ってしまった。かなり、間を於いて記事を書いているのだが、それでも興奮してしまう。
もちろん、他人に言えない苦労や葛藤はあったと思うが、現役棋士が「情熱がなくなった」と口が裂けても言ってはいけない。しかも、こともあろうか、機関誌の記事になることをが前提の対談で。
先の電王戦では、リップサービスかもしれないが「ぜひ私を七冠王にするプログラムを作ってください」という『“将棋連盟の命運を懸ける”とは掛け離れた』コメントを発していたが、情熱を失った人ゆえのコメントだったのだ。情熱を失った人が、将棋連盟の看板を懸けて将棋ソフトと戦ってはいけない。
また、電王戦において「情熱を取り戻すために竜王戦に名乗りを上げた」とも述べているが、そういう個人的気持ちで戦って欲しくはなかった。
ここで、少し冷静になって、氏の言葉を分析してみよう。
「情熱が薄れたときは自分がいちばん敏感に感じるんです」
「一度情熱が薄れてしまうとそれは前の自分とは別の存在になってしまうんです」
不思議な言い回しである。
引用した全文を解釈すると、「20代半ばで情熱を失い、その後は惰性ですませた」はずなのだが、上記の2文は、「今までに何度か情熱を失ったことがあり、それを敏感に感じた。また、そういう時は、自分と違う存在になってしまっていた」というような印象を受ける。
あるいは、これまでの前世の記憶をいくつも持っており、その経験を踏まえての言葉とも解釈できる。
まあ、こんな分析はともかく、氏の言葉(この対談だけでなく)は、どこか他人任せのように感じることが多い。奨励会やC級2組時代を“地獄の苦しみ”と述懐したと、「その2」でも述べたが、森下氏にとっては将棋を心底好きではなく、自分のために将棋を指していないように思えてしまう。
「もし情熱が薄れたのが37歳だったらもっと強かっただろう」
これも他人事の言い方である。
ダメな人のひとつの言い訳として「自分がやる気になったらすごいよ」という負け犬の遠吠えがあるが、それに近いものを感じる。
この森下氏が大晦日にひと騒動。
「電王戦 リベンジマッチ」
ニコニコ動画の特設サイトには
「『将棋電王戦リベンジマッチ 森下卓九段 vs ツツカナ』は、「第3回将棋電王戦 第4局」小田原城で戦った、森下卓九段とコンピュータ将棋ソフト“ツツカナ”の再戦イベント。第3回将棋電王戦では森下卓九段が自分の将棋を貫き、相矢倉で真っ向勝負を挑んだが、苦戦の局面で大悪手を指し惜しくも敗れた。
その後行われた記者会見で継盤を使っての対局を提案し、再戦のチャンスが与えられた。森下九段が自ら考えたルールでツツカナに勝利することができるのか…」
とある。
森下式対局ルール
持ち時間
3時間(チェスクロック方式)、秒読み10分。継盤使用可
対局時間
番組開場 10:00 対局開始 10:15 終局予定 22:00
(休憩 13:00~14:00、17:00~18:00、21:00~21:30)
プライドをかなぐり捨てた森下氏。
確かに、≪氏の言う“ヒューマンエラー”をなくせば、コンピュータ将棋と互角以上に戦える≫ような気がする。
“ヒューマンエラー”とは、肉体的精神的疲労や時間切迫によって生じるミスと解しているが、休憩を充分に取り疲労を軽減させ、終盤に時間に追われないような対局システムであれば、ヒューマンエラーをかなり防げるはずである。
また、コンピュータ将棋は盤駒を使用しているのと同じであるので、人間が継盤を使用できないのは不公平のような気もする。
「人間の頭脳対コンピュータ」の勝負ならそれで良いが、「棋士」として戦うと考えた場合はどうなのだろう?
“秒読み”と言うが、これでは“分読み”である。継盤使用する図は、棋士としては格好悪いぞ。
そんな格好悪い画で負けたら、本当に格好悪い。
そんな格好悪さが、将棋界に及ぼす影響を考えたのだろうか。
情熱云々は置いていても、「負けたら引退」ぐらいの覚悟を持って勝負に臨んでほしい。(あっ、そうすると、ヒューマンエラーが生じてしまうか)
【蛇足】
ところで、本当に22時に終局するのだろうか?
持ち時間がチェスクロック使用の3時間なので、両者が同じような時間の使い方をすれば、実際の対局経過時間が6時間で秒読みに突入する。その時刻が18:15。その時点での局面が中盤か終盤か寄せの段階かは予測できないが、仮に終盤戦に入った辺りと仮定しよう。
昨日の順位戦B級1組10回戦において、6対局のうち3番目と4番目に終局した豊島七段-松尾七段、畠山七段-木村八段を見ると、終盤に入ったと思われた局面から終局までに30手ほど指されている。
1手平均8分費やすとして、8分×30=240分=6時間で、リベンジマッチの対局システムに当てはめると、24:45となる。
まあ、これは両者のペース配分によって大きく変わるが……
あ、あれっ??
確か、森下先生と言えば
「生涯目標は通算1500勝」だったはずでは
・・・・・。
あっ、時間だ。仕事に
行ってきま~す。(笑)
>確か、森下先生と言えば
>「生涯目標は通算1500勝」だったはずでは・・・・・。
無理ですね。
今回のは棋士とプログラムの勝負ではなく、
「人間の頭脳対コンピュータ」
なのだし、運営側の都合(スタッフの体力が持たないと判断したとか)で急遽指しかけにしても今回の意義は損なわれないでしょう。
ヒューマンエラーを極力排する形だと、今でも人間がいけそうだ、というのは、結構凄いことだと思います。
計算力に於いて話にならない程有利なコンピューターが、未だに及ばない。
それはメタ化できない人間の能力の深さ、でもあり、人間の言語化能力の低さでもある。
計算能力まで人間と同等にしてプログラムが上回るには、プログラムによる自己学習しかないでしょうが、その時そのプログラムは人間には理解できないと思います。少なくとも翻訳にして人間の言語にすることは無理でしょう。
年末のせわしさと大雪で、忘れていました。
そうですか、入玉模様の勝勢で指し掛けでしたか。
>ヒューマンエラーを極力排する形だと、今でも人間がいけそうだ、というのは、結構凄いことだと思います。
ということは、ヒューマンエラーが少なく、読みのレベルが森下氏より2段階ほど上の羽生名人だと、通常の電王戦の対局システムでも行けそうですね。
>計算能力まで人間と同等にしてプログラムが上回るには、プログラムによる自己学習しかないでしょうが、その時そのプログラムは人間には理解できないと思います
人間がプログラムに介入するのでは、突き抜けられないということですね。そして、突き抜けたプログラム
は人間には理解できない……興味深く、面白い考察ですね。
大晦日の夜は暇なので、思わず「リベンジマッチ」をニコ動(一般会員)で見てしまいました。
そしたら、これが意外に面白くて、一緒に年を越してしまいました(苦笑)。
しかしなかなか終局せず、さすがにぼくもダウンしてしまいました。
一夜(一朝?)明けて、モバイルで確認してみると「指し掛け」だってさ、なんだかなあ(嘆)。
もう、これ以上やってもしょうがないから、やめちまえよと言いたいです。
構図がね。
どうしても、強いコンピュータソフトにプロ棋士がどの程度通用するかという構図になってしまっているのが、なんとも。
それでも、ミスやポカをしないように配慮すれば、森下レベルでも通用するということが証明されたのだから、もういいじゃないか。
あれを見ていて、羽生さん全然大丈夫じゃんと思ったりして。
このまま双方入玉して持将棋ならば点数差で森下さん勝利なので、現局面は確かに投了級の局面です。
しかし、見方を変えれば、森下さんがコンピューターにビビって、寄せに行けずに、寄せ損なっただけです。
コンピューターがもっと前から持将棋を意識していたら、大駒をあんなに簡単にとられなかったでしょうし、結局は持将棋に弱いCOMの弱点を突いただけです。
ツツカナの決め手を与えない粘り強い指し回しはトッププロ級ですし、それに対してビビりまくって寄せきれない森下さんは、いつもの森下さんだなあという印象です。
さて、話を本題に(長い前置きだなあ)。
その将棋世界の対談は読んでいないのですが、森下さんの「情熱を失った」発言は、英さんの記事だけでは、真意が全く掴めません。いや、将棋世界を読んでもおそらくその印象は変わらないでしょう。
24歳にして情熱が薄れ始めて、27歳ではっきりダメって、一体「何に対しての情熱」なのかがハッキリしません。
だって、この当時、森下さんはまだA級八段でしたよね。
順位戦で羽生さんに勝ったこともありますし。
もしかして、羽生さんと互角近くで対峙できるようなトッププロとして活躍していくことに対する情熱を意味しているのでしょうか?
自分はあのトップ集団には追いつけない、良くて二番手集団でいるしかないという意味なのでしょうか?
おそらくそういう意味だと、ぼくは善意に解釈します。
「情熱を失った」という言葉を公式発言することに対する意味を考えなさすぎなんですよね。
以前英さんが取り上げられた、田丸九段もそうですが、
どうも発言が軽いのですよね。そのことをオフィシャルで発表してしまう意味をほとんど考えずに思ったことを口にしてしまう。
まあ、正直って言えば正直なんでしょうけど、その発言を聞かされる側(すなわち将棋ファン)はどう捉えていいものやら、困ります。
(しかし、森下さんも田丸さんも八段の頃の方が強かったという・・・九段って何なのでしょうね?)
英さんの、こうした将棋ネタや糸谷くん嫌い発言(笑)などを拝見して、ぼくの方にもまたいろんなアイデアが湧いてくるんですよね(笑)。
これも、困ったもの・・・いや、うれしいことです。
具体的には、また世代間のことについて書いてみたくなりました。
将棋に純粋に取り組む羽生世代に対して、渡辺明さんや糸谷君のどこか妙に客観的な発言内容。
でも、ぼくはこれはこれで一定の評価はしているのです。
ただ、ぼくもどちらかといえば羽生世代(ちょうど羽生さんと森下さんの間)に近いので、彼らの発言には一種のカルチャーショックを受けているのですけどね。
それと、情熱と技術と体力を失ったロートル棋士がいつまでも現役でいられる弊害をそろそろ考えてほしいというもの。
ジャンボ尾崎が永久シード権を使って今だレギュラーツアーに出場している件と合わせて考えてみたいです。
(もちろん、それとこれとは別の意味があるという認識です。)
そんなこんなで、今年もよろしくお願いします<(_ _)>
リベンジマッチですが……
>しかしなかなか終局せず、さすがにぼくもダウンしてしまいました。
リベンジマッチについては、完全に失念していて、謹賀新年の記事で、将棋界について振り返ったのですが、まったく頭に浮かびませんでした(電王戦は頭に浮かびました)。
何時までやっていたのでしょうか?
>強いコンピュータソフトにプロ棋士がどの程度通用するかという構図になってしまっているのが、なんとも。
それでも、ミスやポカをしないように配慮すれば、森下レベルでも通用するということが証明されたのだから、もういいじゃないか。
なるほど。
個人的には、世間一般に、森下氏の紹介に「とうの昔に情熱を失った二線級の棋士」という一文を付けてほしいです。
>森下さんの「情熱を失った」発言は、英さんの記事だけでは、真意が全く掴めません。いや、将棋世界を読んでもおそらくその印象は変わらないでしょう。
24歳にして情熱が薄れ始めて、27歳ではっきりダメって、一体「何に対しての情熱」なのかがハッキリしません。
個の月言については、以前の「地獄の苦しみ」の表現と合わせて考えると、「棋士としての情熱」ではなく、「将棋が好きではなくなった」という意味だと解釈しています。
「地獄の苦しみ」と感じること自体、将棋が好きではないのです、森下氏は。私は、この発言から、ずっと氏のことを注視しており、「森下ウオッチャー」なのです。
>どうも発言が軽いのですよね。そのことをオフィシャルで発表してしまう意味をほとんど考えずに思ったことを口にしてしまう。
棋士である自覚が足りず、浅慮なのでしょう。
>情熱と技術と体力を失ったロートル棋士がいつまでも現役でいられる弊害をそろそろ考えてほしいというもの
全く同感です。
というか、森下九段に関しては、発言の重さを考えて、さっさと引退していただきたいです。
と、新年早々、過激なレスをしてしまいましたが、今年もよろしくお願いします。
記事を読んで気になったのですが、情熱が無いと棋士として駄目だというのは間違っていませんか?
情熱が無いから棋士として半端だった、その自覚があるなら棋士を辞めるべき。
そのような考えのようですが、情熱が誰よりも強ければ将棋で負けなくなるんですか?
情熱と将棋は別に直結していないと思うのですが。
他にも自身の精神的な弱さに自覚があり不勉強や不覚悟を恥じるような言葉を残した棋士はいますが、みな棋士を辞めるべきなのでしょうか?
自分に弱いところがあるのは普通のことですし、自身の至らなさを自覚しながら将棋を指したことを他人が貶すことはないと思うのですが。
日常でも仕事でも常に最善を尽くせないのは普通のことですし、自分の弱さと上手く折り合いをつけようとするのは誰でもやってることじゃないですか?
確かに、私の考えは極端ですし、偏ったモノだと思います。反論に対して、きっぱり反論できる根拠はありません。私自身、自分の仕事に情熱を持っていないので、仕事を辞めなくてはならなくなります。
なので、こういう意見もあるとお考え頂けると、ありがたいです。ただ、こういう答えだと、書きっぱなしで無責任になってしまいますし、こうして書き込んでくれたUnknownさんにも失礼なので、可能なだけお答えします。
まず、具体的なところから
>情熱が誰よりも強ければ将棋で負けなくなるんですか?情熱と将棋は別に直結していないと思うのですが。
直結はしていませんが、関係はしていると考えます。
情熱がないと、事前の研究もおろそかになりますし、長時間の将棋の場合は、やはり精神的な要素が強いと考えます。
それでも、「辞めてしまえ」と言う行為は、“余計なお世話”だよなあと思っています。あなたが述べた“自分に弱いところがあるのは普通のことですし、自身の至らなさを自覚しながら将棋を指したことを他人が貶すことはないと思う”はその通りだと思います。
ただ、スポーツなどのプレイヤーは、ファンの憧れを背負っており、ある種の責任があると考えます。
本文でも書きましたが、森下九段は将棋ファンが読む『将棋世界』(将棋連盟発行)が、「情熱を失くしてしまった(しかもその状態で長年も)」と言い切ってしまっては、がっかりするでしょう。
それに、棋士は、“棋士になる夢が破れて機会を去ってしまった人たちの思い”を背負っているのです。(私の勝手な思いですが。ちなみに、私は元奨励会ではありません)
森下九段はこの『将棋世界』記事以前も、そのようなことを漏らしたことがあり、不満を抱いていましたが、それが、『将棋世界』誌でページを割いて載っていたので、感情的に書いてしまいました。
行き過ぎた書き方だったと思いますが、ご理解ください。
今回、真正面から意見を書き込んでくださり、ありがとうございました。一点だけ「Unknown」と名無しだったのが残念でした。普段のハンドルネームでなくても良いので、書いてくださると、何となくですがコメント者をイメージできるので、返答しやすいです。それと、他のUnknownさんと区別もできますし。