としごとに はなしにほへば かぞへつつ きみがちよまで をらむとぞおもふ
年ごとに 花しにほへば かぞへつつ 君が千代まで 折らむとぞ思ふ
毎年美しく咲く花を、今年も、また今年もと数えながら、あなたさまのご長寿を祈って千代まで折り続けようと思います。
こちらもストレートな祝賀の表現ですね。ただ、以前にも書きましたが綺麗に咲いた花を「折る」というのが、どうしても現代の感覚では違和感を感じてしまいますね。^^;;
としごとに はなしにほへば かぞへつつ きみがちよまで をらむとぞおもふ
年ごとに 花しにほへば かぞへつつ 君が千代まで 折らむとぞ思ふ
毎年美しく咲く花を、今年も、また今年もと数えながら、あなたさまのご長寿を祈って千代まで折り続けようと思います。
こちらもストレートな祝賀の表現ですね。ただ、以前にも書きましたが綺麗に咲いた花を「折る」というのが、どうしても現代の感覚では違和感を感じてしまいますね。^^;;
延喜十九年、東宮の御息所の、右大臣殿の御賀奉りたまふとて、御かざしの料、保忠の右大弁のよませたまふ
こころありて うゑたるやどの はななれば ちとせうつらぬ いろにざりける
心ありて 植ゑたる宿の 花なれば 千歳うつらぬ 色にざりける
延喜十九年(919年)、東宮の御息所が右大臣殿の誕生日の祝賀の宴を催された際に、右大弁藤原保忠公の仰せにより、冠の花飾りを題材に詠んだ歌
思いを込めて植えた家の花ですから、千年の時を経ても色あせることなどありません。
「東宮の御息所」は藤原穏子(ふじわら の おんし/やすこ)、「右大臣」は藤原忠平(ふじわら の ただひら)のこと。穏子は第60代醍醐天皇の中宮で、第61代朱雀天皇、第62代村上天皇の生母。忠平は、朱雀・村上両帝の摂政、関白として長く権勢を揮いましたので、二人は大変親密な関係にあったのでしょう。
この歌は玉葉和歌集(巻第七「賀」 第1054番)に入集しています。
すみのえの まつのけぶりは よとともに なみのなかにぞ かよふべらなる
すみのえの 松の煙は 世とともに 波のなかにぞ 通ふべらなる
住吉の松が遠く煙のようにかすんで、世を越えて絶えることなく寄せ返す波の中に佇んでいるかのようであるよ。
変わらないものの象徴である松と波が遠く霞んで一体となった幻想的な情景を詠んでいます。祝意を抒情的に表現したということと思いますが、ここ一連の歌は祝賀の歌としては正直ちょっとピンと来ないですね。当時と現代の感覚の差なのかもしれません。
としのうちに はるたつことを かすがのの わかなさへにも しりにけるかな
年のうちに 春立つことを 春日野の 若菜さへにも 知りにけるかな
年内に立春になったことを、春日野に若菜が伸びていることでも知ったことだよ。
年内立春を察して芽吹きを早めたかのような野の若菜に準えて、誕生日の祝意を表現しています。
としをのみ おもひつめつつ いままでに こころをあける ことのなきかな
年をのみ 思ひつめつつ いままでに 心をあける ことのなきかな
年のことばかりを思いつめてきて、いままでは心を祝意で満たすことができませんでした。
第四句「あける」は「飽ける」だと思いますが、あるいは「開ける(心を開く意)」とも解釈できるでしょうか。いずれにしても、祝賀の歌としては非常に間接的な表現です。こうした表し方もよしとされていたのかな?