愛媛県松山市梅津寺町に「秋山好古・真之兄弟銅像」があります。
当地は、伊予鉄道・高浜線沿いに位置する通称『見晴山』に置かれています。
共に軍人として活躍した秋山好古・真之兄弟の銅像です。
「秋山 好古」(あきやま よしふる)
好古氏は、安政6年(1859年)2月9日、松山藩士・秋山久敬の三男として生誕。
明治10年(1877年)、陸軍士官学校へ入校し、騎兵将校として任官。
日露戦争に従軍し、当時最強の騎兵隊と言われていたロシア軍コサック騎兵の退路を抑えるなどの勝利に貢献。
その後『日本騎兵の父』と呼ばれています。
「秋山 真之」(あきやま さねゆき)
真之氏は、慶応4年(1868年)3月20日、松山藩士・秋山久敬の五男として生誕。
明治19年(1886年)、海軍兵学校へ入校し、海軍将校として任官
日露戦争では連合艦隊・作戦主任参謀として各種迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節にて後に名文と評された『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』や『聯合艦隊解散之辞』の起草者としても知られています。
同じ兄弟と言えども陸軍と海軍での戦場が異なり、好古(兄/右側)氏は満州国、真之(弟/左側)は対馬海域と銅像の向きが異なっています。
小高い丘の上から瀬戸内海を望んでいる場所において、改めて史実が認識できました。
当地での出会いに感謝します。
゚・:,。★\(^-^ )♪ありがと♪( ^-^)/★,。・
この後も当地から周辺を探索します。・・・・・つづく(^_^v
当地は、伊予鉄道・高浜線沿いに位置する通称『見晴山』に置かれています。
共に軍人として活躍した秋山好古・真之兄弟の銅像です。
「秋山 好古」(あきやま よしふる)
好古氏は、安政6年(1859年)2月9日、松山藩士・秋山久敬の三男として生誕。
明治10年(1877年)、陸軍士官学校へ入校し、騎兵将校として任官。
日露戦争に従軍し、当時最強の騎兵隊と言われていたロシア軍コサック騎兵の退路を抑えるなどの勝利に貢献。
その後『日本騎兵の父』と呼ばれています。
「秋山 真之」(あきやま さねゆき)
真之氏は、慶応4年(1868年)3月20日、松山藩士・秋山久敬の五男として生誕。
明治19年(1886年)、海軍兵学校へ入校し、海軍将校として任官
日露戦争では連合艦隊・作戦主任参謀として各種迎撃作戦を立案し、日本海海戦の勝利に貢献。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節にて後に名文と評された『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』や『聯合艦隊解散之辞』の起草者としても知られています。
同じ兄弟と言えども陸軍と海軍での戦場が異なり、好古(兄/右側)氏は満州国、真之(弟/左側)は対馬海域と銅像の向きが異なっています。
小高い丘の上から瀬戸内海を望んでいる場所において、改めて史実が認識できました。
当地での出会いに感謝します。
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この後も当地から周辺を探索します。・・・・・つづく(^_^v
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