鯉のぼり 跳ね上がりたり 普賢岳
梅士 Baishi
たかだか博多・長崎間なのに、往復9時間、地べた道
をごろごろと転がして連休のツアーを終えた。
結局平凡に34号線を走った。
途中余程道草しようかと迷ったのが吉野ヶ里公園だっ
たが、通り過ぎた。
さらには、鹿島を過ぎた頃、ガタリンピック会場とい
うのが目に止まったが、通り過ぎてしまった。
三時間余走って、多良町の道の駅に立ち止まった。
琉球太鼓の演奏が終わったところだった。
アゴ(とびうお)の干物と檜のまな板とお茶石鹸そし
て、茄子と胡瓜の苗を買った。
お茶石鹸は350円だったが、お茶の香りがとてもよく、
評判のよい石鹸である。
まな板は銀杏ではないが、分厚い檜板で1300円とはず
いぶんと安い。
屈辱の憲法記念の日、数十年ぶりに仁田峠に上った。
その途中に普賢岳をまじかに仰ぐ展望所がある。
もうそれだけで怖いもの見たさを満足した。
仁田峠の駐車場にたどり着くのに30分以上待たされた
が、雲仙春蝉にも、馬にも出会えなかった。
死火山かと思われていた普賢岳が噴火し始めたのは19
90年11月、95年に活動を停止してからも15年が過ぎる。
マスコミや政治による国土の荒廃を見るようでもある。
神の怒りにも思える轟々とした火山の地肌が圧巻だった。
惑星ニビルが接近するという2013年、さて、何が起こ
るのだろうか。
島原で百姓をしている父の親戚を数十年ぶりに訪ねた。
父が最後の旅行のときに行きたがっていた妹の家であ
る。
そのときに、何としてでも訪ねるべきだった。
レンゲ畑がきれいな畑の近くにその家があった。
えんどう豆や餅やらゴクラクチョウ花など山ほどもら
った。
父の生家は息子の代になっているが、豪邸の隣に島原
手延べ素麺の工場を経営している。
子供の頃、馬に乗ったり、畑で遊んだり、蛇におっか
なびっくりしたりした懐かしい田舎であるが、道路は舗
装され、すっかり変わっていた。
製麺工場を見学させてもらった。
床は中国産の桜の木でフローリングされ、清潔だった。
他の木材は自分の山から木を切り出して使ったという。
素麺を乾燥している風景が滝のようできれいだった。
素麺と干し柿をもらった。
島原という土地は、雲仙の山の圧迫感があって好きで
はない。
歴史的にも島原の乱が足かせのように感じられる。
あるいはカルマというべきものかもしれない。
島原は、地理的にも文化的にも熊本の一部といってよ
い。
言葉も、熊本弁に相通じる。
自分にとって島原は異文化であり、異星人の住む地域
のようにさえ感じられるところである。
やっぱり博多が一番ばい。
政治嫌いという公式もあるが、宗教嫌いという公式が
まかり通るのが堕落した日本の特徴だといえる。
これがさらに政治と宗教が重なると、その嫌悪感は悪
を憎むほどの確信をもった公式となる。
そのしたり顔の「公式」な日本人の何とおぞましいこ
とか。
宗教を持たない、信仰心が無いということが、なんで
フォーマルなのか。
宗教無学の愚かさがいったいどれほどの高貴さを生ん
でいるというのか。
宗教無学であることが、いったいどれほど善良だとい
うのか。
宗教の無知、無学を恥じよ。
信仰が無いというその傲慢を恥よ。
信仰心が無いということは、傲慢で自己中心であると
いうことを意味しているのである。
信仰心を汚らしく思うならば、宗教文化との一切の縁
を断ち、批判するべきである。
寺社に参拝することもしてはならない。
神仏に手を合わせてはいけない。
葬式などはもってのほかである。
宗教への無知無学が偽宗教をはびこらせてもいる。
比較宗教学の基礎があれば、良い宗教、悪い宗教、選
りすぐれた宗教の選別ができる。
まして、殺人、詐欺、恐喝、好色の無法がまかり通っ
ている「宗教」が宗教であるはずがない。
宗教とは、発展と調和のバランスをとりながら、永遠
の魂の向上を目指す心の教えである。
そこには、愛がなければならない。
異質を排他せず、思いやりと理解と協力の努力をする
のが愛である。
愛とは何かを問えば、その宗教の真偽がわかるだろう。
愛とは何かを教えてきたのが宗教である。
政治に愛がなければどうなるか。
すなわち、人による支配、力による支配、排他的な支
配が行われるのである。
神々の意見を聞きながら国を統べるということが、心
豊かな国づくりには欠かせない。
税金を10%に抑え、消費税も特別税もなくしてゆけ
ば、企業にも余裕が生まれるであろう。
そこで得られた利益の10%なりを、大切だと思う宗
教団体に植福すると良い。
幸福の科学に寺院を喜捨すれば、多くの人が救われる
ことであろう。
幸福の科学は奇跡の仏陀が設立した世界宗教である。
仏陀が降臨した名誉な国でありながら、その太陽の化
身ともいうべきエルカンターレを侮辱する日本人やマス
コミの罪は末代までの恥となるであろうのに、おろかな
ことである。
キリストを殺したユダヤの民と同じようなことを言い、
同じような侮辱を与えているとはなんとおぞましいこと
か。
まして、キリスト教徒の愚かしいことよ。
キリスト殺しの罪を再現しようとでも言うのか。
別のところから現れた救世主を信じないという同じ過
ちを繰り返しているのである。
日本人よ、救世主に反逆する愚か者とはなるな。
宗教は大嫌いという恥さらしなことを言うな。
それが分からないというなら、やはり、生死を分ける
試練をくぐらなければならないだろう。
それが、道理だからである。
幸福の科学に学ぶべし。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi