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+ 雨読の小説・・・ 志賀直哉「和解」の余韻   縁なき衆生は度し難し 

2011年06月19日 17時59分52秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  


 小説の  雨音遠く  眠りたり
 

    梅士 Baishi

 

 

 

 なぜか思い立って、書名だけに親しんだ近代文学作品を

読み始めた。

 今更のようだが、懐かしさと言うものもある。

 

 志賀直哉の「和解」を読んだ。

 導入の長いトンネルはぐっすりと眠ってしまった。

 目が覚めるころ、頑固者の苦しい情景から一気に和解に

至る場面には、やはり涙を禁じえない感動がある。

 作品の電車から降りると、背伸びをして、さてビールを一杯

というかろやかな気分である。

 

 「麻布の屋敷」は、貴族か実業家かという雰囲気だったが、

志賀直哉の父は、総武鉄道創建に関わった実業家であっ

らしい。

 父子の諍いの原因のひとつに、足尾銅山鉱毒事件が関

わっていたと言うのも興味深い。

 

 頑固と言うのは、手短でなければ不幸である。

 こだわりすぎてはいけない見栄である。

 つっぱるのはいいが、いい加減にしなければならない。

 そう思いつつ、自分の頑固にも困ったものだ。

 

 

 

 

 

 今週水曜日は夏至である。

 梅雨が明ければ夏本番、いよいよ博多祇園山笠が始まる。

 しかし、博多を駆けているばかりでは納まらない国難を

なんとするか。

 今年の飾り山のテーマは決まっているのだろうが、願わ

くば元寇撃滅・敵国退散を掲げて欲しいものだ。

 

 

  

 

 

 戦艦を  櫛田に構え  山笠Yama 立てむ

   梅士 Baishi

 

 

  

  縁なき衆生は度し難し 


 「縁なき衆生は度し難し」という言葉は、いわば最後通牒、

僧侶もさじを投げたという地獄行きの通帳である。

 度するとは救うという意味である。

 縁とは、信仰をさすであろう。

 すなわち、信仰なき者は救いがたいという意味になる。

 

 奇跡の法門、幸福の科学立宗25年を経てもなお、幸福

の科学を誹謗中傷し、総裁を中傷し、その弟子たちを誹謗

中傷する心無いネット上での軽口、悪口が後を絶たない

が、ここに至ってなお、エル・カンターレをあざ笑うとは、

まさに度しがたい人間たちである。

 

 彼らの魂の構造が理解しがたい。

 唯物論という五感オンリーの軽薄が空しくさえある。

 唯物論ならずといえども、神仏の権威を人間レベルに貶

める者たちもまた、哀れである。

 

 それでも、仏は人間を育て続ける。

 数十億年の三次元宇宙とは、ずいぶんと長い目である

ことよ。

 

 度し難い人々は、一端は地獄でのいわば懲役の監獄を

住処として悪夢を洗うことになるのであろう。

 それも、頑固というものなのだろうか。

 神仏の愛は、常に心を開いているものを・・・。

 

 しかし、自分もまた、幸福の科学信徒団体への頑固を和

解しなければなるまい。

 言い分はある。

 支部長という立場を在家に委ねるべきではないのでは

ないか。 

 出家にもまた、「小さな政府」の理念が当てはまるもの

ではあろうが、支部長の働きは、在家兼用で済まされるも

のではあるまい。

 それなりの人材を登用すべきは正論であると思う。

 

 しかし、信徒間の軋轢を信仰の弱体化にしてもなるまい。

 自分もまた、和解の関門をくぐらなければなるまいと思う。

 こだわりを捨ててくれと言い残して他界した法友のこと

を思う。

 今年の課題になりそうだ。 

   

         立憲女王国・神聖九州やまとの国

          梅士 Baishi 
       

         

  

  

  

  

  

  

    

  

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+ 水たまりのけんぱた・・・ 子供を育てる環境と国家事業としての幹線交通インフラ  許しとは何か

2011年06月19日 10時06分19秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

  

 

 水たまり  赤や黄色が  けんぱたし 

    梅士 Baishi

 

 

 

 

 梅雨空である。

 憂鬱ではない。

 ショパンの雨だれを楽しめる季節である。

 

 水たまりは子供の頃の思い出である。

 水たまりは子供の遊び場だった。

 黄色や赤や、黒の小さな長靴が飛び跳ねていた。

 舗装されていない道が沢山あって、雨が降ると水たまり

ができた。

 大きな水たまりの浮き瀬を、けんぱたをするように渡る

のも楽しかった。

 

 素朴な環境の中に子供の創造性は育つ。

 子供時代は、郊外型の住環境がよい。

 若い家庭は、郊外に住んで、リニア通勤できるように高速

都市アクセス交通網を整備するとよい。

 しかし、交通費は安くなければならない。

 それが、国家サービスでよいのだ。

 公設民営化である。

 

 軍事、幹線交通、投資型研究開発は、国家の事業でよい。

 その報酬は、国家的な経済繁栄と国民の幸福である。

 増税論議は、公務員の国民に対するゆすり集りに他な

らない。

 そこには、智慧も正義もないと知らなければならない。

 

 ばら撒き型福祉から、投資型福祉に考え方を大転換し

なければならない。

 経済が発展すれば、福祉の名目で無用の施設を造って

公務員の天下り先を作ったり、税金ばら撒きをしたりする

不正が抑えられるのである。

 

 子供が素直に育つ国でありたいものだ。 

 

 

 

 

  

  超・絶対健康法~ 「許し」とは何か 


 大川隆法著 幸福の科学出版刊『超・絶対健康法~ 

心を治せば病気の七割は治る』を読み返しながら、結局、

心の問題が難しいと思う。

 

 その究極は、自分の愛する人を殺した犯人を許せるか、

というほどの、許しの問題にぶつかるのである。

 あるいは、自分を障害者にした犯人を許せるかという、許

しがたい感情の問題である。

 

 レプティリアンは、弱肉強食の論理で共食いまですると

いう。

 いかに爬虫類型人類とはいえ、高度の知性を備えた者

が、共食いをするとは、いったいどういう本能なのだろう

かと疑う。

 

 この世の犯罪も、結局は、レプティリアンからすれば、弱肉

強食の論理で正当化されるのであろうか。

 だからこそ、自らの危機を招き、法を求めて、地球に転生

している者たちが沢山いるという。

 

 弱肉強食文明のレプティリアンにも許しはあるのではな

いか。

 弱肉強食だから、それが本能だからということで許すの

だろうか。

 食われたほうは恐怖を感じているし、食われて悔しいと

いう気持ちを拭えないのではないか。

 

 強くなろうとすることは発展的であるが、弱肉強食の論

理ではやがて自滅する。

 愛がない強食主義では戦国時代と同じである。

 面白いかもしれないが、理不尽である。

 理不尽と思うならば、自ら強くなれというのだろうか。

 

 発展がある限り、戦いの論理はなくなるまい。

 だからと言って、発展をとめるべきではない。

 問題は、愛による調和的発展を競い合うべきだというこ

とだ。

 

 結局は、調和的発展の勢力が、弱肉強食の戦いに臨ん

でも勝つのである。

 しかし、勝っても、相手を滅亡させないだけの智慧と許

しの力を持っている。

 

 レプティリアンが生きているのは、そこにも使命と愛があ

るからであろう。

 使命を見失ったとき、強さは邪悪な暴力になる。

 共食いの悲惨な弱肉強食になる。

 

 強い者は、守護神ないしプロテクターとして、その強さを

死に物狂いで生かすべき使命があるはずなのだ。

 

 

 

 

 で、被害者は犯罪者を許せるのか。

 

 原因結果の法則が過去世での因縁として働いていること

も少なくないと言う。

 長い転生の過程を考えれば、許しということがなんとなく

分からないこともない。

 

 『人間は完全な存在ではないので、あまり突っ張らない

ほうが良いのです。「自分は絶対に正しい、あなたが間違っ

ている」と突っ張って十年でも言い続ける人は数多くいます

が、「しつこい」と言うこと自体が悪であると考えなければ

いけません』

 

 『・・・なかなか治らない病気を持っている人は、たいてい

の場合、「許せない」という感情を持ち続けています。それ

は、たとえ、「法律的に見て、自分のほうが正しい」と言う

場合であっても、当てはまることです。』

 

 

 病気が治りにくい原因は、許すことの難しさにあるので

あろう。

 愛とは、子供に対する教育のようなものなのかもしれない。

 悪い子を、このやろうと報復すると、児童虐待になる。

 

 自分と言う星を、晴れやかな愛の星にしたいものだ。

 

 心の平安をとりもどすこと、それが許しという愛なのだろう。

 悪い因縁は許さなければ、長く祟るであろう。

 それを思うと、不幸な因縁をばさっと切ることが快いこと

である。

 憎しみや裁き心は、いわば感情フォルダーに入り込むPC

ウィルスのようなものであろう。

 駆除すべし。

 

 自分もまた、完全な人間ではない。

 許されて今日あるということを、日々の反省としたい。 

 

   立憲女王国・神聖九州やまとの国

     梅士 Baishi

 

          

  

  

  

  

  

  

    

  

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