小説の 雨音遠く 眠りたり
梅士 Baishi
なぜか思い立って、書名だけに親しんだ近代文学作品を
読み始めた。
今更のようだが、懐かしさと言うものもある。
志賀直哉の「和解」を読んだ。
導入の長いトンネルはぐっすりと眠ってしまった。
目が覚めるころ、頑固者の苦しい情景から一気に和解に
至る場面には、やはり涙を禁じえない感動がある。
作品の電車から降りると、背伸びをして、さてビールを一杯
というかろやかな気分である。
「麻布の屋敷」は、貴族か実業家かという雰囲気だったが、
志賀直哉の父は、総武鉄道創建に関わった実業家であっ
たらしい。
父子の諍いの原因のひとつに、足尾銅山鉱毒事件が関
わっていたと言うのも興味深い。
頑固と言うのは、手短でなければ不幸である。
こだわりすぎてはいけない見栄である。
つっぱるのはいいが、いい加減にしなければならない。
そう思いつつ、自分の頑固にも困ったものだ。
今週水曜日は夏至である。
梅雨が明ければ夏本番、いよいよ博多祇園山笠が始まる。
しかし、博多を駆けているばかりでは納まらない国難を
なんとするか。
今年の飾り山のテーマは決まっているのだろうが、願わ
くば元寇撃滅・敵国退散を掲げて欲しいものだ。
戦艦を 櫛田に構え 山笠Yama 立てむ
梅士 Baishi
【 縁なき衆生は度し難し 】
「縁なき衆生は度し難し」という言葉は、いわば最後通牒、
僧侶もさじを投げたという地獄行きの通帳である。
度するとは救うという意味である。
縁とは、信仰をさすであろう。
すなわち、信仰なき者は救いがたいという意味になる。
奇跡の法門、幸福の科学立宗25年を経てもなお、幸福
の科学を誹謗中傷し、総裁を中傷し、その弟子たちを誹謗
中傷する心無いネット上での軽口、悪口が後を絶たない
が、ここに至ってなお、エル・カンターレをあざ笑うとは、
まさに度しがたい人間たちである。
彼らの魂の構造が理解しがたい。
唯物論という五感オンリーの軽薄が空しくさえある。
唯物論ならずといえども、神仏の権威を人間レベルに貶
める者たちもまた、哀れである。
それでも、仏は人間を育て続ける。
数十億年の三次元宇宙とは、ずいぶんと長い目である
ことよ。
度し難い人々は、一端は地獄でのいわば懲役の監獄を
住処として悪夢を洗うことになるのであろう。
それも、頑固というものなのだろうか。
神仏の愛は、常に心を開いているものを・・・。
しかし、自分もまた、幸福の科学信徒団体への頑固を和
解しなければなるまい。
言い分はある。
支部長という立場を在家に委ねるべきではないのでは
ないか。
出家にもまた、「小さな政府」の理念が当てはまるもの
ではあろうが、支部長の働きは、在家兼用で済まされるも
のではあるまい。
それなりの人材を登用すべきは正論であると思う。
しかし、信徒間の軋轢を信仰の弱体化にしてもなるまい。
自分もまた、和解の関門をくぐらなければなるまいと思う。
こだわりを捨ててくれと言い残して他界した法友のこと
を思う。
今年の課題になりそうだ。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi