初夢や 眠りなおして 寝坊せり
中村梅士 Baishi
今朝の気温は1.5℃、寝坊をして、目が覚めたら8
時半だった。
5時に目が覚めたが、初夢の記憶がなかったので、二
度寝したのである。
ちょっと走り疲れていたのかもしれない。
昨日は走り初めができてよかった。
夕方立ち寄った筥崎宮は近年にみない長蛇の列が続い
ていた。
最後尾は海に入って並んでいるのではないかと思われ
るほどだった。
何時間かかるのか、この長蛇の列に並んで拝礼しよう
とはつゆほども思わない。
信仰心なのか日本人の癖なのか。
で、初夢は、それらしい映像は、床に大皿が割れてい
てショックだったというものだ。
物欲への戒めか、この世の未練を断つべしという啓示
か、どちらも当たっているだろう。
因みにテレビおみくじというのがあって、大吉だった。
良かったということにしよう。
寝ている間、あの世に還って何がしたいのかと問い続
けていた。
あの世でも続けたい専門性があるかというと、どれも
中途半端でプロフェッショナルではない。
法律研究と言ってもあの世では空しかろう。
スポーツ研究と言ってもあの世では体がない。
しかし、学問的研究とかではなく、未来文明としての
宗教精神は探求したいし、地球文明と宇宙文明との関わ
りについても知りたいと思う。
宇宙人との交流もしたいものだ。
宇宙共通の文化は数学と音楽だと言う。
エササニ星から送られたという音楽を聴いたことがあ
るが、メロディーに感じると言うよりも、さまざまな音
に秘められた記号的メッセージのように感じられた。
あの世に還ったら、さまざまな興味関心を新しい文明
の研究として探求したいものだ。
現代には実用性の神々はたくさんいる。
山の神、海の神、大工の神、音楽の神、演芸の神など、
プロフェッショナルな神々である。
しかし、全体を統べる法の精神というべき神の実在を
知らずしては実用性は狭苦しい世界である。
今、法の精神が降臨し、未来の法を知らしめている。
これに気付かないでは、神の子、仏の子とは言えまい。
実用性の観点からエル・カンターレの叡智を盗むべき
ではない。
政治家もジャーナリストも、自分たちよりも優れた者
として、その言葉に耳をそばだてているが、根本的に間
違っているのである。
信仰なくして叡智なしということに気付くべきである。
実用性とは本来、神の愛として紡がれたものである。
この世の論理、唯物論的発明発見の成果なのではない。
福沢諭吉の実学は、安易な信心を戒め、自助努力の精
神を強調したものであろう。
しかし、根本にある宗教精神を説くべきであった。
これを忘れてはならないのである。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
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