札幌市内にある公園へぶらりと。
どこにでもある、ごく普通の公園のようです。
公園の一角には野球のできるグラウンドがあり、少年野球チームの試合(練習試合?)が行われていました。
小さな山もあります。
私も子供の頃は、こういう所を駆け回るのが大好きでした。
小さな山とはいえ、こうして頂上に立って下を眺めるのも、子供の頃は大好きでした。
つい、童心に帰ってしまいます。
行ったのはちょうど一か月ほど前でしたが、こうして木々が綺麗に色づいていました。
紅葉の名所としての知名度がどれほどかは知りませんが、近隣に住んでいる人たちからすれば、ちょっとした穴場的位置付けなのかもしれません。
さて、ここまで書いてきませんでしたが、この公園は、御覧の通り「一の村公園」と言います。
場所は↓のとおり。
地下鉄東豊線元町駅から車で5分ほどの場所ですが、「一の村」とはどういう由来があるのでしょうか。
明治時代となり、現在の札幌市内各地には全国各地から人々が入植してきましたが、入植移民が集まり始めた初期の頃、移民たちによって形成された集落には、入植した年の干支に因んだ名前が付けられることがあったそうです。
この公園のある辺り、「伏籠川」という川の右岸(上流から下流に向かって右側。左側を「左岸」という)のエリアには、明治3年(1870)年、現在の山形県酒田地方から、120名余が入植してきたそうですが、この年の干支が「庚午」(「こうご」。訓読みで「かのえうま」の方が一般的ですが)であったことから、この地域は「庚午(こうご)一の村」と名付けられたそうです。
この公園は、そんな地域の歴史を今に伝えている存在ということなんですね、
「一の村」があれば、当然「二の村」や「三の村」もあり、「庚午二の村」は、現在空港がある丘珠エリア、「庚午三の村」は、現在円山動物園がある円山エリアに、それぞれ拓かれています。
(庚午二の村)
(庚午三の村)
その翌年、明治4年(1871年)の干支は、「辛未」(「しんび」。訓読みで「かのとひつじ」が一般的)であったことから、この年に人々が入植したエリアにも同じような名が付けられました。
「辛未一の村」は、現在の中央区「山鼻」と呼ばれるエリアのうち、東本願寺(真宗大谷派札幌別院)の南側を指していましたが、ここへやってきた移民たちは、その後各地に分散していて、例えば、現在の中央区宮の森には、そのうちの12軒が移住したことから、この地域は、「十二軒」という通称地名で呼ばれることとなりました。
この他、現在も地名として残っている、西区八軒や二十四軒も、同じく「辛未一の村」から分散移住した軒数に因んだ地名です。
今回は、地図を見ていてたまたま目に留まった公園に行ってみましたが、他にも、同じように公園の名前や、あるいは電柱に表示されている地名に、知られざる開拓の歴史が残されているということが、札幌市内でもまだまだあるかもしれません。
情報を掴んだら、ぜひ行ってみようと思います。