龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

九州に行って来た(5)鯛めしを食べる

2010年08月10日 13時04分57秒 | インポート

旅行2日目(8月1日日曜日>

本当に、観光などしている場合ではないのだ。月曜日になると、高速代が跳ね上がるのだから。

そうはいっても、何か名物を食べねばならない。

というわけで、鯛めし。

グルメガイドはもとよりその任ではない。旅行ガイドブックにあるお店にいって、有名なものを食べる、
だけのことだ。
それでも、発見はある。

本当に美味しいものが食べたければ、
いまどきは情報収集力(とりもなおさずそれはコミュニケーション力でもあるのだろう)が勝負。
地元の人と仲良くなったり、ネットを上手に使ったり、ガイドブックも鵜呑みにせずに、お店の匂いをかぎわける ことが必要になる。それを楽しめるなら、旅グルメもまた、よし。

無論、私にはそんなエネルギーはないので、あっさり道後温泉温泉本館前のお店へ。

鯛めしを頼んで驚いた。
ご飯に炊き込むのではなく、お刺身をご飯にのっけるのはそう驚かない。

うちの祖父は海辺の出身だったが、かつおをあたたかい ご飯の上に乗せ、
醤油を垂らした後その上にお茶をかけてかつお茶漬けを食べていたから。

だが、鯛の上にかけるのが卵を出汁醤油で溶いたタレ、だったことには驚いた。

卵と出汁醤油を絡めて食べるという経験は、讃岐うどんの「釜玉うどん」で経験済みだったが、お刺身というか、丼もののタレにそれを使うとは。

しかし、うまかった!

食文化の違い(グルメ系じゃなくて、ケンミンショーの異文化理解系ですね)と、にもかかわらず美味しいものは美味しい、
という驚き。

ケンミンショーというtv番組があるけれど、自分の周囲の「常識」は全部「ローカル」
なのだ、と知ることができるのもいいし、他者もまたそのローカルを「世界」
だと信じて疑わない、その平等な相互無理解、がまた楽しい。

鯛のタレは、佐賀県に行って再度驚かされることになるのだが、それはまた別の話。








九州にいって来た(4)正岡子規記念館

2010年08月10日 12時48分25秒 | インポート
旅行2日目<8月1日日曜日>

松山といえば夏目漱石と正岡子規。

観光をしている時間はない(いったい自分でも何をしているのかだんだんわからなくなってくる高速1000円だ……)のだが、正岡子規記念館には寄らねばならない、というわけで。

正岡子規は若くして結核を病み、さらに脊椎カリエス
となって寝たきりの生活を余儀なくんされつつ、短歌&俳句の革新運動を行った……ぐらいの文学史的知識しかない。

そんな程度の私にとってもっとも印象深かったエピソードが、次の話。

子規は病床にあって絵入りエッセイを新聞に毎日欠かさず連載していた。
しかしあるとき編集者が、子規の健康を慮って連載を休止したことがあったらしい。
そのとき、子規が朝刊の紙面に原稿が掲載されていないことを知って激しく動揺し、絶対に連載を(たとえ半分の量でもいいから)続けて欲しい、と強く望む手紙をその編集者に送ったのだという。

その手紙の
「強さ」=「弱さ」
が もっとも印象的だった。

それを強く望むほどに自分は辛い状態なのだ、原稿を書くことによって(そしてそれが日々新聞紙面に掲載されて「
読まれる」ことによって!)みずからの「生」が日々蘇るのだ、と切々と語るその手紙には、病床に釘付けにされてなお表現と向き合い、その表現の力によってのみ(他者に向かって開かれることで)「生」を実感しつづけようとする以外に手立てをもたない子規の魂がむきだしで差し出されている。

淡々と描かれているかに見える晩年の彼の絵や文章。

それは見ることと書くことによってのみ「生きる」
ことを形づくるよりほかにないギリギリの叫びだ、
ということぐらい、知識としては分かっていた。
しかし、それを本当に「弱さ」だと自覚するのは、たやすいようで必ずしも容易ではあるまい。

この場所で、種田山頭火と正岡子規の二人を同時に思う出こと。
旅は思いもかけないそんな「場所」を提供してくれるのだなあ、としみじみ思う。

その「強さ」=「弱さ」
フラジャイルな強度に想いをはせると、山頭火と子規の二人が(私の頭の中で)
松山という土地をきっかけにして不思議な出会い方をしたような気がした。

妄想その2、である。



九州に行って来た(3) 種田山頭火の「一草庵」

2010年08月10日 10時22分39秒 | インポート
旅行2日目
8月1日(日)

土曜日・日曜日のうちに距離を稼がなければならないので、あまり道後温泉にゆっくり浸かってばかりもいられない。

でも、ここは正岡子規ゆかりの土地でもあり、夏目漱石にも関わりが深く、種田山頭火の没した場所でもある。

というわけでまず種田山頭火が最後に庵を結んだ?

「一草庵」

へ。街の北側山沿いにあるこの家は、駐車場がない、というので心配して路地を入っていったのだが、建物の前が公園風に整備されており、道路も広がっていて、幸いなことにクルマ2、3台は置いておけるスペースがあった。

簡単な展示の小屋があるその向こうに、普通の一軒家が
あって、それが一草庵。

ボランティアのガイドみたいな人が詰めていて、話しかけて来てくれた。

「山頭火のどこがいいですか?」

その割には最初から鋭い質問。

「尾崎放哉と種田山頭火、
のどちらが好きですか?」

これも受け手の言葉に対する姿勢を問うてくる質問だ。

それもそのはず、一草庵のボランティアガイドと私が勘違いしたのは、高橋正治さん、といって、山頭火の最後を看取った高橋一洵の息子さん(松山の自由律俳句を受け継ぐ、十六夜柿の会主宰)だった。

びびびビックリ!

尾崎放哉と種田山頭火の比較、といわれても難しいが、どちらが好き好きか、
ならそれはもちろん断然山頭火。

答えに近づく哲学の軌跡よりも、謎というか処理しきれないものを抱えつつよろよろしながら歩く叙情的な山頭火の道筋の方が、作品として魅力を感じる、ということだ。自らの「生」を削って表現したものを軽く「叙情的」
とか
「純粋」
とかいわれても本人は挨拶に困るだろうか。

しかし、身体を伴って「生」という謎と向き合うそのスタイルと対峙するためには、作品の受け手にとっても「譲れない姿勢」があるだろう。

どこに「謎」を置き、
どこに「答え」を措定するか、の違い、といってもいい。

高橋さんは山頭火はとてもシャイで清潔な人だった、
とご自身のお母さんの言葉を紹介しつつ教えてくださった。

純粋な生を求めることは純粋な死に近づくことにもなってしまう。

身体を絞りきってまで知的な認識のリミットを求めるスタイルを感じさせる尾崎放哉と、自らの身体とともに情緒を投げ出しつつ、言葉と感応していくように見える山頭火とは、やはり大きな違いがあるのだろうと思う。

作品もろくすっぽ知らずに好き勝手なことを想像するのも、旅の空の「特権」
かもしれない。

ということで、山頭火にお線香をあげてお話をうかがっていたら、もうお昼近くになってしまった。