やっとクルマ自体の話にたどりついた。
スバルの新型レガシィツーリングワゴンは、スバルファン、従来のレガシィファンには評判の悪いクルマだ。
大型化・高級化しすぎた、デザインが悪く内装も安っぽい、日本市場を無視して北米市場のニーズに合わせたなどなど。
「乗ってみれば悪くないのだが」
と留保は付くものの、「最適化」という時代の流れに逆行している、という批判は強い。
売れ行きもそれほどよいというほどではないらしい。
もっとも、売れないということではロードスターは月産200台程度だろうから、その10倍ぐらいは売れている。
売れる売れないと善し悪しは別だが、まったく需要がなければ市場から消えるだけだろう。
そういう意味では、消えない程度には売れているということか。
しかし、レガシィはスバル(富士重工)の主力車種だから、そこそこ売れるだけではいかんはず。
ハイブリッドカーか軽か新型ディーゼルか、しか話題に乗らない時代でもある。
そんな流行らないクルマを、なぜ「衝動買い」することになったのだろう。
ずっとそのことを考えている。
自分にとっての「衝動」とはどこから来るのかってことだ。
ベンツCクラスも乗った。マークXも乗った。BMWも乗った。
それぞれ良いところがあるクルマだ。
でも、「衝動買い」はしなかった。
若い頃ならば「欲しい」という気持ちが勝っていただろう。盛り上がってしまえば後先関係なく、それこそ「衝動買い」をしていただろう。
ところが最近は、いったんそんな「気分」になった時でも一度立ち止まって考えるようになった。
無駄な買い物はしないようになった、という言い方もできる。衝動が弱くなった、という見方も可能かもしれない。
さてでは、「衝動買い」は無駄な買い物なのか?
役にたてば「衝動買い」ではないのか?
うむむ。
じゃあレガシィの何が良かったのか、その選択基準は何か、といえば、
「長距離を安心して、疲れずに走れる」
という一点に尽きる。
瞬間的な出会いの「衝動」で伴侶となったロードスターは、長時間運転してもまだ足りない、いつまででもハンドルを握っていたいというタイプのクルマだ。
なにせ屋根を開けてハンドルを切ってカーブを曲がっていればそれで幸せになれるクルマだし、「人馬一体」というか、重心が自分自身の中にある(個人的には、これがスポーツってことなんだと私は思っている)という感覚は希有なものである。
2シータ-ライトウェイトオープンスポーツという文化そのものに乗っている、といってもいいだろう。そのいささかチープな感じをも含めて、唯一無二のものなのだ。
他方、レガシィツーリングワゴンは、徹底的に道具としての技術を多層化した商品である。その結果、自社が育ててきた4代目までのレガシィの文化から離れてしまった、と批判されてしまったわけだ。
言われてみれば、今までは日本規格の唯一無二な4WDツーリングワゴンという「文化」を背負っていたのに、その企業とユーザーが共有していた「文化」に敢えて背を向けて、機能のレイヤー化を果たした「商品」という感じがしなくもない。
それでも、いったん中・高速コーナーでハンドルを切れば、レガシィの名にふさわしいいかにも水平対向エンジンの低重心と4WDらしい安定した曲がり方をしてくれる。
音は静かで滑らかな加速をし、アイサイト2.0という先進の安心装備がたった10万円で付加される。
クルマも広くなったし(といっても1BOXワゴンよりは幅は狭いし背も低いから、拡大しすぎというほどではない)、高級化といっても200万円台半ばから購入できる。
そんなにまで悪評さくさくにならなくてもいいのでは?
機能的には十分すぎるほどなのに、雑誌やWEBの専門家試乗レポートでも、一般の人の口コミでも「不満足」なコメントがずらりと並ぶ。
ここには、クルマ文化の受容についての大きなギャップがありそうな気がするのだが、問題はそのこと自体ではない。
第一、私はクルマ文化なんぞというものについては素人もいいところなのだし、新型レガシィが如何にその自社=自車の伝統を踏みにじったか、なんてことは、昔のクルマをよく知らないのだから、コメントのしようもない。
とりあえずは、機能と値段から見て圧倒的にお買い得だ、と思ったからつい買ってしまったというだけのことだ。
でもそれがどうも、「他人がどう思おうと、自分が良ければいい」とかいった匙加減の問題の枠組みに納めることができないような気がしてきたのである。
だから、こんな風にしてぐだぐだといろんなことを書いている。
ロードスターの時は、いくら周囲があきれても、こんな気持ちにはならなかったのだ。
考えてみれば、今までのクルマの選び方は、結局のところ、雑誌や評判のいいクルマを選んできたような気がする。
初のFF化でカーオブザイヤーを受賞した「ファミリア」
ホンダの主力車種で当時人気だった「アコード」×2
ミニバン人気の走りだった「エスティマ」
コンパクトカー流行の元祖「ビッツ」
そのユーティリティーカーモデル「ファンカーゴ」
クルマ愛好家に愛される「ロードスター」
自分では意識していなかったけれど、結果としては世間で評判のいいクルマばかり選んでいたような気がする。
1,クルマなど本質的にはどれでもいい、ということは分かっていて、
2,自分が欲しいものを選んでいるつもりでいて、
3、結果としてはいつも、他者が高く評価するものを選んでいた
ということなのだろう。
こうして自己分析をしてみると、評判の良いクルマの中で、自分の「衝動」との無意識的な擦り合わせをしていたような気がする。
それが、「ロードスター」では、自分の衝動と、クルマ愛好家というかエンスージアストたちのコメントが幸福な一致を見た。
さて、この新型レガシィツーリングワゴン購入は、そのいずれのパターンでもなさそうだ。
確かにレガシィは国産4WDの老舗スバルのブランドとして、昔から乗ってみたいクルマの一つだった。
だが、いざその機会が巡ってきたら、あまり(に)評判がよろしくないのである。
技術的に評価できる部分は多くあるはずなのに、トータルとしての「文化」、あるいは「アイデンティティ」を見失った、あるいは「時代に逆行している」といった否定的な批評が積み重ねられている。
不思議なクルマだ、と思っていた。そこまでけなさなくても、とも覆う。
そしてそうなると逆にまた、興味も惹かれる。
怖いモノ見たさで試しに乗ってみよう、と試乗したら、これがなかなかによろしいのだ。
室内は静かで、エンジンのフィーリングも滑らか。
出力を三段階に切り替えるスイッチがあって、燃費優先→加速重視→飛ばしたがりモード、と切り替えられる。
室内の広さはセカンドシートを後ろにスライドさせたミニバンに近いほど。
CVTという無段変速機もヘタなATよりスムーズで自然。
そして安全装備のアイサイト搭載。
いったんハンドルを切ってカーブを曲がれば超がつくほどの安定性を感じさせてくれる。
問題なのは唯一燃費が悪いということぐらいか。
たしかに、機能満載のクルマなのに、燃費性能と適正なサイジングという時代のトレンド二つを見事に取り落としている(笑)。
自分の「衝動」と他者評価の幸福な一致が「ロードスター」だったとすれば、
自分の「衝動」と他者評価の典型的な不一致が「新型レガシィ」だったのかもしれない。
どちらのクルマも試乗しているうちに「あ、これだ」という感触があった。
それはどちらもハンドルを切ってGを感じた時のことである。
前者のクルマのそれは回頭性という変化の挙動のスムーズさであり、後者のクルマのそれはすぐれたライントーレス性というスタビリティの感覚だった。
どちらもそこに身体で感じる「価値」が存在していた。
それでいて、ロードスターはオープンスポーツという「文化」の物語が付加価値としてあり、他方レガシィはそれとは対極的に、長距離移動の快適性という道具としての機能が付加価値としてある。
ロードスターは、1週間とか10日とか時間をかけて高速で長距離を運転しつづけるには、曲がることが楽しすぎて疲れるし、音もうるさい。それでもなお運転しつづけたくなるのがロードスターではあるにしても。
だから、ロングツーリングをする最適解はやはりレガシィだったのだ。
それなら、アテンザワゴンでもアコードワゴンでもいいじゃないか
というのはその通り。
あるいは、運転を楽しむのではなく、むしろ長距離を安心して疲れずにゆったりと過ごすことに重きをおくならベンツCクラスステーションワゴンの方がいろいろ良いもしれないとも思う。アテンザはATの感触がスムーズではなく、Cクラスは4気筒1.8リッターターボの感触が必ずしもスムーズではない。アコードは考えもしなかった(笑)。
そんなこんなでレガシィのワゴンを購入。
これがムダな道楽なのか、ムダではあっても人生を豊かにしてくれる「贅沢」なのかは、たぶんこれからの負債の返し方にかかっているのかもしれない。その辺りが「消費」の満足に過ぎないのか「贅沢」の豊かさなのか、の分かれ目にもなるのだろう。どんな楽しみ方が出来るのか、が楽しみ、ということだね。
ちなみに、職場で同じ学年を担当している同僚も二人がこの二週間で新車を購入した。
一台はプリウスα、もう一台はフィットシャトルハイブリッド。
いずれも実燃費で17km/l~20km/lはいきそうなトレンドリーダーのクルマたちだ。
一リットルで7キロ距離に差があったら、1万キロだったら、7000キロ分高燃費車の方がお得という計算になる。
一リッター150円程度だとすると10万円の差。10万キロ走ったら、軽自動車一台分の差額が出る。
プリウスαは実際的グレードをえらべばそれなりに高額だから実はエコイメージ先行商品だが、フィットは低価格車だけに、燃費の差はそのまま経費の差だ。
高速道路を長距離区間、ゆったり流してクルージングを楽しみながら、どれだけ「贅沢」を味わうのか。
ドゥルーズの語るヒュームは、懐疑の情念におけるリミットとしての「道徳」を考察していた。
「贅沢」と「道徳」はなんの関係もないみたいだけれど、私は必ずしもそうではない、と考えている。
「衝動」が、単なる消費依存的な相対的差異の快感に還元される底のものではない、とするならば、そこに存在するべき「他者」について、もう少し考えてみる必要はあって、それはドゥルーズの語るヒュームのいる場所と、まんざら無縁というわけでもないのではないか、と思うのだ。
「衝動」に自己も他者もあるもんかい、ってことになるのだろうか。そうかもしれない。でも向こうからこちらがわに「還ってくる」ものが確実に存在すると思うよ。「衝動」は、単に内発的に自分の中から外にあふれ出るばかりのものではないはず。
この項目もぐだぐだしつつ続きます。
スバルの新型レガシィツーリングワゴンは、スバルファン、従来のレガシィファンには評判の悪いクルマだ。
大型化・高級化しすぎた、デザインが悪く内装も安っぽい、日本市場を無視して北米市場のニーズに合わせたなどなど。
「乗ってみれば悪くないのだが」
と留保は付くものの、「最適化」という時代の流れに逆行している、という批判は強い。
売れ行きもそれほどよいというほどではないらしい。
もっとも、売れないということではロードスターは月産200台程度だろうから、その10倍ぐらいは売れている。
売れる売れないと善し悪しは別だが、まったく需要がなければ市場から消えるだけだろう。
そういう意味では、消えない程度には売れているということか。
しかし、レガシィはスバル(富士重工)の主力車種だから、そこそこ売れるだけではいかんはず。
ハイブリッドカーか軽か新型ディーゼルか、しか話題に乗らない時代でもある。
そんな流行らないクルマを、なぜ「衝動買い」することになったのだろう。
ずっとそのことを考えている。
自分にとっての「衝動」とはどこから来るのかってことだ。
ベンツCクラスも乗った。マークXも乗った。BMWも乗った。
それぞれ良いところがあるクルマだ。
でも、「衝動買い」はしなかった。
若い頃ならば「欲しい」という気持ちが勝っていただろう。盛り上がってしまえば後先関係なく、それこそ「衝動買い」をしていただろう。
ところが最近は、いったんそんな「気分」になった時でも一度立ち止まって考えるようになった。
無駄な買い物はしないようになった、という言い方もできる。衝動が弱くなった、という見方も可能かもしれない。
さてでは、「衝動買い」は無駄な買い物なのか?
役にたてば「衝動買い」ではないのか?
うむむ。
じゃあレガシィの何が良かったのか、その選択基準は何か、といえば、
「長距離を安心して、疲れずに走れる」
という一点に尽きる。
瞬間的な出会いの「衝動」で伴侶となったロードスターは、長時間運転してもまだ足りない、いつまででもハンドルを握っていたいというタイプのクルマだ。
なにせ屋根を開けてハンドルを切ってカーブを曲がっていればそれで幸せになれるクルマだし、「人馬一体」というか、重心が自分自身の中にある(個人的には、これがスポーツってことなんだと私は思っている)という感覚は希有なものである。
2シータ-ライトウェイトオープンスポーツという文化そのものに乗っている、といってもいいだろう。そのいささかチープな感じをも含めて、唯一無二のものなのだ。
他方、レガシィツーリングワゴンは、徹底的に道具としての技術を多層化した商品である。その結果、自社が育ててきた4代目までのレガシィの文化から離れてしまった、と批判されてしまったわけだ。
言われてみれば、今までは日本規格の唯一無二な4WDツーリングワゴンという「文化」を背負っていたのに、その企業とユーザーが共有していた「文化」に敢えて背を向けて、機能のレイヤー化を果たした「商品」という感じがしなくもない。
それでも、いったん中・高速コーナーでハンドルを切れば、レガシィの名にふさわしいいかにも水平対向エンジンの低重心と4WDらしい安定した曲がり方をしてくれる。
音は静かで滑らかな加速をし、アイサイト2.0という先進の安心装備がたった10万円で付加される。
クルマも広くなったし(といっても1BOXワゴンよりは幅は狭いし背も低いから、拡大しすぎというほどではない)、高級化といっても200万円台半ばから購入できる。
そんなにまで悪評さくさくにならなくてもいいのでは?
機能的には十分すぎるほどなのに、雑誌やWEBの専門家試乗レポートでも、一般の人の口コミでも「不満足」なコメントがずらりと並ぶ。
ここには、クルマ文化の受容についての大きなギャップがありそうな気がするのだが、問題はそのこと自体ではない。
第一、私はクルマ文化なんぞというものについては素人もいいところなのだし、新型レガシィが如何にその自社=自車の伝統を踏みにじったか、なんてことは、昔のクルマをよく知らないのだから、コメントのしようもない。
とりあえずは、機能と値段から見て圧倒的にお買い得だ、と思ったからつい買ってしまったというだけのことだ。
でもそれがどうも、「他人がどう思おうと、自分が良ければいい」とかいった匙加減の問題の枠組みに納めることができないような気がしてきたのである。
だから、こんな風にしてぐだぐだといろんなことを書いている。
ロードスターの時は、いくら周囲があきれても、こんな気持ちにはならなかったのだ。
考えてみれば、今までのクルマの選び方は、結局のところ、雑誌や評判のいいクルマを選んできたような気がする。
初のFF化でカーオブザイヤーを受賞した「ファミリア」
ホンダの主力車種で当時人気だった「アコード」×2
ミニバン人気の走りだった「エスティマ」
コンパクトカー流行の元祖「ビッツ」
そのユーティリティーカーモデル「ファンカーゴ」
クルマ愛好家に愛される「ロードスター」
自分では意識していなかったけれど、結果としては世間で評判のいいクルマばかり選んでいたような気がする。
1,クルマなど本質的にはどれでもいい、ということは分かっていて、
2,自分が欲しいものを選んでいるつもりでいて、
3、結果としてはいつも、他者が高く評価するものを選んでいた
ということなのだろう。
こうして自己分析をしてみると、評判の良いクルマの中で、自分の「衝動」との無意識的な擦り合わせをしていたような気がする。
それが、「ロードスター」では、自分の衝動と、クルマ愛好家というかエンスージアストたちのコメントが幸福な一致を見た。
さて、この新型レガシィツーリングワゴン購入は、そのいずれのパターンでもなさそうだ。
確かにレガシィは国産4WDの老舗スバルのブランドとして、昔から乗ってみたいクルマの一つだった。
だが、いざその機会が巡ってきたら、あまり(に)評判がよろしくないのである。
技術的に評価できる部分は多くあるはずなのに、トータルとしての「文化」、あるいは「アイデンティティ」を見失った、あるいは「時代に逆行している」といった否定的な批評が積み重ねられている。
不思議なクルマだ、と思っていた。そこまでけなさなくても、とも覆う。
そしてそうなると逆にまた、興味も惹かれる。
怖いモノ見たさで試しに乗ってみよう、と試乗したら、これがなかなかによろしいのだ。
室内は静かで、エンジンのフィーリングも滑らか。
出力を三段階に切り替えるスイッチがあって、燃費優先→加速重視→飛ばしたがりモード、と切り替えられる。
室内の広さはセカンドシートを後ろにスライドさせたミニバンに近いほど。
CVTという無段変速機もヘタなATよりスムーズで自然。
そして安全装備のアイサイト搭載。
いったんハンドルを切ってカーブを曲がれば超がつくほどの安定性を感じさせてくれる。
問題なのは唯一燃費が悪いということぐらいか。
たしかに、機能満載のクルマなのに、燃費性能と適正なサイジングという時代のトレンド二つを見事に取り落としている(笑)。
自分の「衝動」と他者評価の幸福な一致が「ロードスター」だったとすれば、
自分の「衝動」と他者評価の典型的な不一致が「新型レガシィ」だったのかもしれない。
どちらのクルマも試乗しているうちに「あ、これだ」という感触があった。
それはどちらもハンドルを切ってGを感じた時のことである。
前者のクルマのそれは回頭性という変化の挙動のスムーズさであり、後者のクルマのそれはすぐれたライントーレス性というスタビリティの感覚だった。
どちらもそこに身体で感じる「価値」が存在していた。
それでいて、ロードスターはオープンスポーツという「文化」の物語が付加価値としてあり、他方レガシィはそれとは対極的に、長距離移動の快適性という道具としての機能が付加価値としてある。
ロードスターは、1週間とか10日とか時間をかけて高速で長距離を運転しつづけるには、曲がることが楽しすぎて疲れるし、音もうるさい。それでもなお運転しつづけたくなるのがロードスターではあるにしても。
だから、ロングツーリングをする最適解はやはりレガシィだったのだ。
それなら、アテンザワゴンでもアコードワゴンでもいいじゃないか
というのはその通り。
あるいは、運転を楽しむのではなく、むしろ長距離を安心して疲れずにゆったりと過ごすことに重きをおくならベンツCクラスステーションワゴンの方がいろいろ良いもしれないとも思う。アテンザはATの感触がスムーズではなく、Cクラスは4気筒1.8リッターターボの感触が必ずしもスムーズではない。アコードは考えもしなかった(笑)。
そんなこんなでレガシィのワゴンを購入。
これがムダな道楽なのか、ムダではあっても人生を豊かにしてくれる「贅沢」なのかは、たぶんこれからの負債の返し方にかかっているのかもしれない。その辺りが「消費」の満足に過ぎないのか「贅沢」の豊かさなのか、の分かれ目にもなるのだろう。どんな楽しみ方が出来るのか、が楽しみ、ということだね。
ちなみに、職場で同じ学年を担当している同僚も二人がこの二週間で新車を購入した。
一台はプリウスα、もう一台はフィットシャトルハイブリッド。
いずれも実燃費で17km/l~20km/lはいきそうなトレンドリーダーのクルマたちだ。
一リットルで7キロ距離に差があったら、1万キロだったら、7000キロ分高燃費車の方がお得という計算になる。
一リッター150円程度だとすると10万円の差。10万キロ走ったら、軽自動車一台分の差額が出る。
プリウスαは実際的グレードをえらべばそれなりに高額だから実はエコイメージ先行商品だが、フィットは低価格車だけに、燃費の差はそのまま経費の差だ。
高速道路を長距離区間、ゆったり流してクルージングを楽しみながら、どれだけ「贅沢」を味わうのか。
ドゥルーズの語るヒュームは、懐疑の情念におけるリミットとしての「道徳」を考察していた。
「贅沢」と「道徳」はなんの関係もないみたいだけれど、私は必ずしもそうではない、と考えている。
「衝動」が、単なる消費依存的な相対的差異の快感に還元される底のものではない、とするならば、そこに存在するべき「他者」について、もう少し考えてみる必要はあって、それはドゥルーズの語るヒュームのいる場所と、まんざら無縁というわけでもないのではないか、と思うのだ。
「衝動」に自己も他者もあるもんかい、ってことになるのだろうか。そうかもしれない。でも向こうからこちらがわに「還ってくる」ものが確実に存在すると思うよ。「衝動」は、単に内発的に自分の中から外にあふれ出るばかりのものではないはず。
この項目もぐだぐだしつつ続きます。