朝日カルチャーセンター(新宿)で、國分功一郎氏が一年かけて「スピノザ入門」の講座を開講します。
まず1期は3回(4/7、5/19、6/2の各土曜日15:30~17:00)
私は早速申し込みました。よろしかったらご一緒にいかがでしょう。
詳細とお申し込みはこちらのサイトへ。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=154084&userflg=0
以下パンフレットより
---引用開始---
「スピノザ入門」と題された本講座は一年をかけてスピノザの哲学の核心に迫ろうとするものです。最初の学期ではスピノザの人物像を紹介しながら、初期の著作である『知性改善論』(岩波文庫。但し入手困難)をじっくりと読んでいきます。この本は小著ながら、読解上の様々な困難を抱えています。「スピノザの方法」という観点からその困難に迫ります。テキストは適宜コピーを配布します。予習されたい方は講師の著書『スピノザの方法』(みすす書房)をご利用ください。
---引用終了----
以下はついで。
少なくても私は「テキストを読むことがこんなにも豊かな経験をもたらしてくれるんだ!」という実感を、この著者の『スピノザの方法』で手にすることができました。その著者自身にじっくり講義してもらえるなんて、あまりの多幸感で倒れるんじゃないか、と心配です。
スピノザの話を聴いて幸せで倒れそうになるかも、っていうのはおかしいですかね(笑)。
ところで、今日読み始めた『最後の親鸞』の吉本隆明は、親鸞の『教行信証』には彼の肉声が響いていない、と断定しています。むしろ『歎異抄』や書簡でしょう、と吉本は言う。
一見すると國分功一郎氏がテキストを徹底的に読み解くことで『エチカ』の思想に向かって歩いて行こうとするやり方とは、全く正反対の方法を吉本隆明は親鸞に対して用いようとしているかのようにも見えます。
でも、意外にそうでもないかもしれない。
『知性改善論』といういわばぎくしゃくした歩みの中にこそ、本人が完成形だと見なした『エチカ』への道が隠されている、というスタンスは、吉本のスタンスに近いのかもしれない。
また、『教行信証』の「注釈」に徹した書きぶりに対する吉本隆明の「拒否感」は、私(foxydog)にとっての、スピノザの『エチカ』の読めなさと、実は無関係ではないのかもしれない、とも思うのです。
向こう側にいってから還ってくること。
宗教にはその困難さがつきまといます。その困難さを徹底した思考によって跡付けること。その「現場」は哲学がぐぐっと面白くなる場所でもあるような気がして、仕方がないのです。
もう1冊平行して読み始めたD・ヘンリッヒ『神の存在論的証明』(叢書ウニベルシタス)にも通じるかもしれない、容易には触れ得ないものと向き合おうとする「姿勢」を、いずれのホンにも感じています。
ともあれ、
まず1期は3回(4/7、5/19、6/2の各土曜日15:30~17:00)
私は早速申し込みました。よろしかったらご一緒にいかがでしょう。
詳細とお申し込みはこちらのサイトへ。
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=154084&userflg=0
以下パンフレットより
---引用開始---
「スピノザ入門」と題された本講座は一年をかけてスピノザの哲学の核心に迫ろうとするものです。最初の学期ではスピノザの人物像を紹介しながら、初期の著作である『知性改善論』(岩波文庫。但し入手困難)をじっくりと読んでいきます。この本は小著ながら、読解上の様々な困難を抱えています。「スピノザの方法」という観点からその困難に迫ります。テキストは適宜コピーを配布します。予習されたい方は講師の著書『スピノザの方法』(みすす書房)をご利用ください。
---引用終了----
以下はついで。
少なくても私は「テキストを読むことがこんなにも豊かな経験をもたらしてくれるんだ!」という実感を、この著者の『スピノザの方法』で手にすることができました。その著者自身にじっくり講義してもらえるなんて、あまりの多幸感で倒れるんじゃないか、と心配です。
スピノザの話を聴いて幸せで倒れそうになるかも、っていうのはおかしいですかね(笑)。
ところで、今日読み始めた『最後の親鸞』の吉本隆明は、親鸞の『教行信証』には彼の肉声が響いていない、と断定しています。むしろ『歎異抄』や書簡でしょう、と吉本は言う。
一見すると國分功一郎氏がテキストを徹底的に読み解くことで『エチカ』の思想に向かって歩いて行こうとするやり方とは、全く正反対の方法を吉本隆明は親鸞に対して用いようとしているかのようにも見えます。
でも、意外にそうでもないかもしれない。
『知性改善論』といういわばぎくしゃくした歩みの中にこそ、本人が完成形だと見なした『エチカ』への道が隠されている、というスタンスは、吉本のスタンスに近いのかもしれない。
また、『教行信証』の「注釈」に徹した書きぶりに対する吉本隆明の「拒否感」は、私(foxydog)にとっての、スピノザの『エチカ』の読めなさと、実は無関係ではないのかもしれない、とも思うのです。
向こう側にいってから還ってくること。
宗教にはその困難さがつきまといます。その困難さを徹底した思考によって跡付けること。その「現場」は哲学がぐぐっと面白くなる場所でもあるような気がして、仕方がないのです。
もう1冊平行して読み始めたD・ヘンリッヒ『神の存在論的証明』(叢書ウニベルシタス)にも通じるかもしれない、容易には触れ得ないものと向き合おうとする「姿勢」を、いずれのホンにも感じています。
ともあれ、