龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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集中管理型権力の限界

2012年05月11日 22時45分45秒 | 大震災の中で
オバマ大統領が同性愛婚を支持した、というニュースを見た。
まあ、民主党だし、当然だよね、と思った。この時期に敢えて表明するのは政治的意図があってのことだろうけれど、基本スタンス通りではあるのだろう。
しかし、同時に、じゃあ日本で総理大臣がこんな風に支持することはあるまいな、とも思った。

そういえばサンデルの「正義」本にもこの同性愛の婚姻を認めるかどうか、っていうのが話題に取り上げられていた記憶がある。

話しをしたいのはその当否ではない。
個人的にはホモもヘテロも、脳味噌に操られた「傾向性」だと考えているから、どちらでも心の赴くところに生きるべき場所がある、という感想があるだけだ。

だが、「婚姻」は社会的制度であって、趣味の問題ではない。
公正さ、からいって、ヘテロ婚ばかりが法律で保護されたり優遇されたりするのはどうか?
というけっこう根本的なところから考えているのだろうな、アメリカの人達は、と感心する。
と同時に、国家はかなり以前からそういうところまで「手をつっこんっで」いるのだなあ、ということも実感する。

国家が手を引く、という道はないのかしらん、と私は思ってしまうのだが、権力「作用」というか、「システム」というか、そういうものの作動圏域は、広がりこそすれ、狭まることは難しいのでもあろう。

でも、と思ってしまう。
なんでもかんでも集中管理するっていうのは、かなり無理が来ているんじゃないか。
「婚姻」なんて、全部事実婚でいいんじゃないかなあ。

子育てを支え合うパートナーは、一つがいの雄と雌、とだけ限ったものでもないだろう。
いわゆる夫婦と二人の子供という「標準家庭」の「非標準化」は、婚外子比率が先進国中アンビリーバボーなほど低い日本でさえ、指摘されはじめて久しいのだ。

子育てコストを社会がきちんと背負わず、そのコスト削減の方策としてヘテロ婚が維持されている、なんて状態なら、そんなことは即刻止めて日本はきちんと人口減少の黄昏を選択すべきだ。

無論、すべてを国家が集中管理するなんてことは、婚姻一つ取ったって、原子力発電所の事故一つとったって、できるわけはない。

だとするなら、どこまでコントロールするのか。そしてどこから先は手を出さない勇気を持つのか。

教育だって政治だって(そしてネット)だって、その圏域で考えやすい発想は、誰かがしてくれている。
しかし、その圏域では考えにくい発想は、とことん欠如してしまう。
そんな貧しさの匂いに、私達はそろそろ気づき初めてもいる。
いわゆる「厨房」として、世界を半分だけに縮減した「正しさ」で生きるわけにはいかないものね。

でも、じゃあ世界を全部で生きる、なんて芸当が一体全体可能なのかしらん。
私は最近、「分散」して生きるというスタイルをどこまで現実のものとできるか、がカギになるような気がしてしょうがない。

もちろん、国家やネットワークが提供するインフラは不可欠だ。
その上で動く「OS」だって共有しなければならない。
しかし、全てのアプリケーションをインフラ(ハード)やOS(ソフト)がどこかで面倒みてしまう、というのはナンセンスな話だ。

リスク管理、と簡単に言うけれど、危険は単純なコスト管理の発想とはなじまないのも事実。
滅多に起こらないけれど、起こったら重篤な被害をもたらすものに、いわゆる目先の利害計算は馴染まない。

そういうことに気づかないと、福島県民の多くからみると「やれやれ……sigh……」という風に見える「再稼働」を声高に主張してしまう電気屋さんになってしまう。いや、電気屋さんだって企業だから、目先の利害計算に振り回されるのは株主の手前当然なんだよね。
だから、環境は「管理」されなければならない。
しかしそれは、集中管理型権力、とは一線を画すべきだ。

そういえば「環境管理型権力」については、NHKブックス『自由について』で東浩紀が早い時期に問題提起していた記憶がある。

そこでいわれていた「環境」と、今考えている環境とはちょっと意味が違う気がするけれど、いずれにしても、環境が「提供」してくれる条件をどう考え、どう整え、どうその限界を見極めつつマネージメントするか、が、人間存在の「可能性条件」を問う「哲学」として重要な課題になってきた、ということであるのだろう。

このとき、環境を問う作業では、自然環境と社会環境、が同時に問題になるはずだ。
たぶん、それに加えてもう一つ、存在論的環境(こなれない言葉だ、だがそのあたりのポイントをうろうろしているのです)とでも言うべき視点が必要になるような気がしている。

精神と物質という二元論の枠組みを全部放棄できるはずもない。
でも、哲学って、どれかだけを択一オプションとして選べばいいってものではないようだ、ということがようやくわかりはじめてきた気もするのだ。

私達はともすれば、自然環境ばかりではなく、人間が積み重ねてきた社会環境の中でそれを擬似的自然として「動物化」し、無意識に生きる。
だが、去年のような「人為の裂け目」を目の当たりにすると、今まで依拠していた社会=自然が様相を全く変えてしまい、それに依存した無意識の列車にはもう二度と乗れない、と分かる。

ではどうするのか。
そこでは、「自然」と「社会」、そしてそれを前提として生きる「存在」である人間としての「私」=「私達」の有り様が改めて問われるだろう。

自分の脳味噌が、どんな見取り図で世界を生きているのか、一度じっくり立ち止まって中を見つめておくことが大切なんじゃないかな。
意外にこの自分の脳味噌ってやつ自体が、遺伝的なものに依拠しつつ、物質的なものを前提としつつも、かなり自然や社会によって提供された「環境」と自分との間で長年作り上げてきた『環境of環境』みたいなものになっていて、そこに瞳の後ろあたりから触手を伸ばして脳味噌の中の動きを裏側からなぞってみるみたいなことが面白いのかもしれない、なんて思ったりもする。

藤枝静男だったか『空気頭』というへんてこりんな小説を大昔読んだことがある。
マトリックスのように単純な二元論的反転を前提としてずらすんじゃなくて、もっとフィジカルにそのへんてこりんさを描いている「怪作」だったような記憶だけがあるんだけど、そんな感じかな。

とにかく、細かいレギュレーションをつきつめていくだけじゃ立ちゆかないんじゃないかな。

オバマ大統領同性愛婚を支持、っていういかにも政治的な見出しが、アメリカの政治状況にとっては切実な賭けなのかもしれないけれど、なんだかどうしてもそこを政治が「包摂」するのはいいとして、その先どこまで管理を集中して装われた「公正さ」を演じ続けるつもりなの?といささか心配をしてみたくなる。
いや、もちろん、オバマ大統領(に代表されるアメリカ人)はそういう場所で政治を行っていて、やりきる自信と覚悟があるのだろう。

認めることと包摂することとは違うし、政治の袋に現実が入りきらないって時がどうしたって来るのは自明じゃない?と思ってしまうのだけどね。