龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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高橋哲哉『原発事故の責任をどう考えるか』を聞いてきました。

2012年05月24日 00時07分51秒 | 大震災の中で
昨日(5/22火曜)、福島高校の梅苑会館で東京大学大学院総合文化研究科教授の高橋哲哉先生の講演会がありました。
演題は『原発事故の責任をどう考えるか』。
高橋先生は福島高校の出身で、幼少時富岡にも住んでいた経験があるそうです。

たまたま時間があったので、お願いして(本当は地区の社会の先生の研究会)聴講させてもらいました。
内容のポイントはヤスパースのナチス・ドイツ戦争責任論
『罪の問題』平凡社ライブラリー
から4つの責任区分を引用し、丁寧に原発事故の責任を解きほぐして論じてくれるところにありました。

「みんな」に責任がある、という思考停止は、原発の安全神話の思考停止と「表裏一体」のもので、今問われるべきはその「思考停止」それ自体だ、という指摘は重要。

そのために、きちんと責任の質・種類を見極めるという姿勢も大切。

ヤスパースは4つの区分を示している。
1,刑事上の罪
2,政治上の罪
3,道徳上の罪
4,形而上の罪

このうち高橋先生は1~3に言及しつつ、誰が、どんな責任を負うべきか、を実に丁寧に解きほぐしてくれます。
この1年の間に聞いた「責任論」としては一番重要かと感じました。

講演内容はこちらにメモをアップしてあるので詳しくは参照を。
メディア日記龍の尾亭
http://blog.foxydog.pepper.jp/?day=20120523

いちばん納得したのは、「みんなに責任がある」として、責任の質も内容も大きさも問わずに思考停止することに対する、きちんと丁寧に、しかも説得力ある批判がなされていた点でした。
これだけきちんと
「みんなに責任」=結果としての思考停止
の危険を説明してもらったのは、この1年間で初めてでした。

ただし、私はヤスパースが触れた4つめの形而上の罪に、高橋先生が言及しなかったことが不満です。
まあ、敢えてそこは外してあるんだと思うけれど、「強大な自然と向き合う」哲学こそが、むしろ高橋先生が言う、粘り強い思考を続けていくエンジンになると思う。

高橋先生は戦後も国に対する不信が高まった、今回もまたそういうチャンスだ、と指摘している。
なるほどそうかもしれない。第二の敗戦だ、っていうのも一理はある。
けれど、それはその通りなんだけれど、私は高橋先生のスタンスとは異なり、4の形而上の罪について考えることこそが、1~3までの罪を「思考停止」せずに粘り強く追及していく「基盤」となると考えている。なぜなら、私達は、制御可能な限界を超えて「自然」の力をコントロールしようとしてしまったのだから。
そこを触れずに1~3の「人為」の範囲だけで論を完結させることはできないでしょう。
もちろん、自然とか神とか安易に「外部」として設定するのは問題けれど。


質問もしたのですが、ダライ・ラマの時もそうだったし、東大駒場の3/11以後の公共哲学のシンポの時もそうだったし、今回もそうだったんだけど、うまく通じないのです。

質問の仕方がよっぽどへたくそなんだろうか。
問題の風呂敷の大きさに、こちらの言葉が追いついていかない、ということか。問題のありか自体は大事なツボに間違いないと思うんだけどねえ。

修業だ……。

と考えていたら、仙人広場のブログ子が後の飲み会で話を進めてくれたようです。
blog仙人広場
http://blogs.yahoo.co.jp/yamakawasennin/folder/430689.html#4161942

よろしかったらこちらも参照を。