龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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國分功一郎 スピノザ入門第2回 (その1)

2012年05月20日 19時42分00秒 | 大震災の中で
朝日カルチャーセンターでのスピノザ講義12回中の第2回を受講してきました。

下記に概要メモをアップしました。よろしければご覧下さい。
國分功一郎 スピノザ入門第2回(その1)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=5002c1fec50b88a6bd34bec8b396976c

早わかり的にえば、『知性改善論』は永遠に未完になるしかなかった失敗作。
しかし、その失敗は本質的なものだった。

スピノザは「分かっている人には分かっている」「それを事前に説明はできない(方法についての方法、方法についての方法についての方法と無限遡行を招来してしまう)」「真の観念の獲得後にそれを検討してはいけない(懐疑がきざしてしまう)という真理についての考えを持っているのだから、
Pre方法論/Post方法論
ともに不可能。
よって「方法」についての記述も「方法論」についての記述も矛盾をきたす。

うまくいくときはうまくいくというだけでは、ヘラクレイトス的世捨て人になっちゃう。
他方
ガイドラインを設定して、コギトで「寸止め」しては、ある地点で懐疑を止めているだけ(デカルトのこと)。

スピノザはは、にもかかわらず私達には方法が必要だ、と考え、この困難に立ち向かったのではないか。

完成を見なかったこの「絶対に完成しないことを試みた失敗」が、遺稿として出版され、私達が読めるのは奇跡に近い。
そしてこれが『エチカ』読解にとても重要ではないか、ということでした。

面白い!実に面白い。

講座修了後、セミプロパーとおぼしき人二人が質問していて、その質問の「高度」さにびっくりしましたが、國分功一郎という人の二つの「読み方」の特徴が、その二人の質問でより鮮明になったような気がしました。

それは、2点あります。
1点目→テキストをテキスト自身において内在的に読む身振り
2点目→完成した『エチカ』の論を先取りして整理・説明するのではなく、「分からない感じ」を模倣する身振りを、教え手として学習者と共感しつつ進もうとする姿勢
です。

一人目の質問者がスピノザは主体が読む、というのと真理自体がそれを示すというのとが合わさって、主体の消失と真理の自己運動?(もっ別のとテクニカルタームを使ってたと思うけど、素人には不明)が成立するのではないか

と質問したのに対し、「そこがポイント」と共感しつつも、スピノザは「主体」に最初から触れていない、とも指摘。
質問者の物語とのズレをテキストの有り様自体によって示していました。


3人目の質問者が、もっとエチカの「神」から説明した方が説明としては適切ではないか?國分氏の説明は、「普通」ではないし、その独自の説明の仕方は最適解ではないのではないか、と「提案」したのに対し(論証なしで共感を強要しつつ、自分が正しいという雰囲気を漂わせる質問者の姿勢は、スピノザ的でも國分的でもなく、ただのスノビズムに見えましたけどね:foxydog注)、國分さんは、たしかにスタンダードな切り口ではないかもしれないけれど、むしろ、スピノザも抱えていた困難を、学習者と共に共有しながらエチカに向かうやり方の方がいいと思っている、と応接。

私は國分氏の「知」の「遅速度」(今村仁司の用語)に満ちた、じっくり分からなさや困難の近傍に立ちながら共に思考する、というスタイルに、深い時代性を感じて共感しました。

でも、質問者のレベルも高いなあ、と感じました。私のようなエチカが読めないという素人も、早くエチカに行ってくれーという上記お二方の質問者も、期待に盛り上がってきているのは間違いありません。
『エチカ』は秋口になるらしいですが、よろしかったらいかが?
お薦めですよ!