龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

貴島孝雄のロードスター論を読んだ

2012年06月08日 23時30分08秒 | 大震災の中で
貴島孝雄のロードスター論を読んだ。
本についてはこちら

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980366

で、そこにこんなエピソードが書いてあって、深く納得したのでメモ代わりに。

ビルシュタインの部品(ドイツ製?)をマツダの車に使おうとして、走行テストを行ったところ、あろうことか日本製の部品は壊れないのに、ビルシュタインの部品は封入したダンパーの油が漏れだしたのだ。
当然、貴島さんたちマツダは、「なんだ、ドイツ製とはいっても耐久性は悪いじゃないか、これじゃ社内のレギュレーションを通らない」ということでメーカーにダメだしをしたのだという。
そうしたら、ビルシュタインの技術者は、そのテストコースを確認させろという。
マツダの方が「これだけ厳しい状況をテストしている」と胸を張ると、彼の地の技術者は

「そんなテストをすれば必ず壊れる。非現実的だ。むしろ、日本製のダンパーは、本来の仕事をしていないから壊れないのだ。うちの部品はきちんと仕事をしているから壊れるのだ」

と傲然と言い放ったという。
そこで貴島さんは、まあそのドイツ魂にちょっと呆れつつも、「お前たちの部品は、本来の仕事をしていないから壊れないのだ」というビルシュタイン側の批判から、逆に一流の技術が求めるものは、単に日本製のように壊れないことだけではないのだ、と気づいたのだそうです。

そういうのって大事だよねえ。
同じ事が、スカイマークの「感情労働」拒否宣言にも言える。

「客」は、はした金を払っただけで「感情労働」を無限に奪取する「甘えの構造」を潜在的には持つ。
日本人の生きている基盤=OSは、その「甘えた」の構造に親和性が高い。
(無茶いう客は何も日本人だけじゃないんだろうけれどね)

スカイマークはそこを敢えて非日本的な表現で拒否したから、問題視されたのだろう。

無論、「苦情は受けない。消費生活センターへ」ってのは表現が中途半端だったからダメだしすべきところだけれど、サービス業における「感情労働」の無間地獄に歯止めを掛けた点は評価してもいいんじゃないか。

コストカットには理由があっていい。
むしろ、そこをきちんと説明すればいいのに、という次のブログに共鳴。
河合薫のブログ

もともとこの「感情労働」についての議論は、客室乗務員ばかりではなく、看護とか介護の仕事においてなされてきたと認識している。この議論は非常に難しい側面があって、きちんと勉強しないと簡単には語れないけれど、

1,表面的な演技(「いらっしゃいませ○○へようこそ、おたばこはお吸いになりますか」的マニュアルで済む)
2,場面に応じた演技(客室乗務員レベル。その場限りだが、場合に応じたきめ細かい対応がそれなりに必要。心は売らない)
3,内面的感情をコントロールするレベル(介護や看護、教育。やることは職務で決まっている。そこに心を込める必要あり)
4,内面的感情をコントロールしつつ、それをマネージメントするレベル(医者やカウンセラーなど専門職)

素人が考えてもかなり多様だ。
しかし、ちょっと考えただけでも演技と内面化と運用という3つの面はある。
マニュアルですむレベル、経営者や上司の指導ですむレベル、かなりの訓練を経てスキルとして身につけるレベル、元々持っている性格や才能を必要とするレベル
とさまざまに考えられよう。

これが「サービス業」においては、労働者は、正当な値段がつかないままヘタすると無限に要求される。
勘弁して欲しい。

ま、スカイマークのへたっぴいなやり方は、確かに今までの日本の職業意識と微妙なズレがある。

これからの「感情労働」をコストとしてどう意識し、マネージメントするか、また労働者のその部分をどう正当な対価として評価するか(マニュアルレベルか、指示に従うレベルか、訓練や教育によって支えるレベルか、はたまた個人の持っている「性能」「資質」の部分で理解するのか)、課題として考えていく必要があると思う。

人間だって壊れるんだからねぇ。

日本は日本の価値基準というか文化的OSがあって、今まではやってこれた。
でも、それを無意識で使って世界で通用していた時代が終わったんだろう。

これからは、「肩」も「心」も消耗品だ、ってのも考えていかなくちゃ。
その上で、きちんとメンテナンスして継続した仕事ができ、それなりに生活できる対価が貰えるような形を探していきたいなあ。

結局のところ必要なのはたぶん、どこでも通用するコストカット(とか一流の部品設計とか)とかいう抽象的な話じゃなくて、欲しいのは日本人としてのやり方、なんだけどね。










「安全か/危険か」の二分法ではなく。

2012年06月08日 22時48分40秒 | 大震災の中で
少しだけ補足しておく。
私にとって、大飯原発再稼働の是非は、原発が「安全か/危険か」の二分法で考えるべきことではない。

福島の事故も収束していないし、処理のメドも経っていないし、まして避難者の今後も分からないし、責任も取れていない段階で、再稼働を「決断」する、というのは納得できない、ということだ。

つまり、これだけの事故があっても、その検証やシステムの解体=再構築よりこの夏の電力が大切ってことだよね?
それがやっぱりマズイと思うんだなあ。

再稼働賛成か反対かで国論が二分されているから首相として責任ある判断をする、それが再稼働だっていう趣旨の発言があって、その言葉は、再稼働賛成の人と、再稼働反対の人は賛成するなり反対するなり、そのロジックに反応できるのかもしれないけれど、福島の事故を間近に感じている者にとっては、正直お話にならない。

話のOSが違いすぎて笑ってしまいそうになる。

なぜなら、事故がどの原発にも起こりえるリスクであることは、「安全神話」の延長線上にあった福島原発事故を見れば、ロジックとして自明。
なのに、その事故検証と安全神話解体が完了していないのに見切り発車する。
だから、そこが一番問題、ということだ。

原発は危険。
そして事故が起これば壊滅的な被害を受ける地域がでる。

それでも危険のない場所に電気を送るからには、結果として「間違っていた」政府の安全宣言の裏書きじゃあ、論理的に成立しないでしょう。

電気がないと貧乏になるぞ!電気がないと職がなくなるぞ!電気がないと命があぶないぞ!

と脅されてもねえ。
無論、いきなり病院などで生命維持の装置が停電でストップするとはなはだ危険な状況が切迫して起こりえることは理解できる。
でも、とりあえず考慮すべきはその件だけだ。

福島県もその点では沖縄県と同じように、国民の安全の網の外にあって、人柱的聖なる痕跡を抱えて生きることになるのだろうか。

繰り返しておく。

原発が安全か危険か、の判断を首相に頼んだ覚えはない。政府にはその能力はない。科学者にもなかったし、まして電力会社に判断させてはいけなかった。

その判断をするシステムを再構築するためには、本気でやれば別に何十年もかかるわけではあるまい。

その上で考えるべきだ。

繰り返すが、全部一気に廃炉にしよう、とは私は考えていない。
きちんと福島の汚染された現実と、そのリスクを踏まえた説得になっていないところがうんざりなのだ。

「悪いことは言わないから、今再稼働するのは止めておいたほうがいい」

そう思う。


野田首相、大飯原発再稼働の会見について。

2012年06月08日 22時22分31秒 | 大震災の中で
国民の生活を守るために、大飯原発を期間限定ではなく、稼働させるという趣旨の首相記者会見があった。
大飯原発は暫定的ではあるが「安全だ」との判断もなされた。

なあにを言っているんだろう、と思う。

福島県も国土だし、今避難している人達も国民のはず。でも「安全だ」と言われていた福島の自然や生活は、結果として守られなかった。
それを無視しているとしたら、事故が起こった福島は切り離して「国民の生活」を確保するっていう話になる。
仮にもし、大飯で事故が起こったら、またそこを排除した上で、「残りの国民の生活」を守るんだろうか。

sigh。

石油ショックのような痛み、エネルギー安全保障という危惧を言うけれど、これは経済的利益にすぎない。
起こってしまった事故の責任を負うべき政府の発言としては、にわかに信じがたい。

んー、福島県を国民以外に排除した言説ということになりはしないか?

個人的には、この機会に日本は少し黄昏れていった方がいいと思う。
最近は欧州危機の問題とか原発事故問題とか大震災復興問題とか電力問題とか、大きな話ばかりが目について、誰も経済的な下降を軟着陸させるって話をしてくれないけれど、誰が景気回復とか再成長とかを今の状況で信じられるだろうか。

いったん事故が起こったら、町は自然環境も、土地も、コミュニティも、ほぼ全てを失う。
いや、もう現にそれを失って、回復の見込みもまだ経っていないし、事故収束さえしていない現実がある。

何度でも繰り返して書いておく。

「悪いことは言わないから止めておいた方がいい」

今日の首相会見は、事故の被害を踏み台にしてでも今までの豊かさを断固守る、という宣言だったのだろう。
「気持ちは分かるが安全だから、国民の電気を守る方が優先」
ってことか。
繰り返すが、ヒドイ話だ。福島から見ると、そう見える。


電気を大量に必要とする「国民生活」を人質にとった言説のスタイルも気になるけれど、

それ以上に、福島県が「国民」から排除されている印象にがっかりした。
事故検証も終わっていないし、東電と政治家の刑事責任も全く問われていない中での再稼働宣言は、とてもうなずけないなあ。

余裕がなくなってきて、経済と政治を担っているという人達の「論理」が露わになってきた、という印象を持つのは、福島という「辺境」にいるから感じる偏見だろうか。

原発再稼働反対、というより、この首相の言葉にまず反対の一票を入れておく。
AKB48の選挙だったら、CD100枚ぐらい買って反対を「おしメン」投票したいけどね。