貴島孝雄のロードスター論を読んだ。
本についてはこちら。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980366
で、そこにこんなエピソードが書いてあって、深く納得したのでメモ代わりに。
ビルシュタインの部品(ドイツ製?)をマツダの車に使おうとして、走行テストを行ったところ、あろうことか日本製の部品は壊れないのに、ビルシュタインの部品は封入したダンパーの油が漏れだしたのだ。
当然、貴島さんたちマツダは、「なんだ、ドイツ製とはいっても耐久性は悪いじゃないか、これじゃ社内のレギュレーションを通らない」ということでメーカーにダメだしをしたのだという。
そうしたら、ビルシュタインの技術者は、そのテストコースを確認させろという。
マツダの方が「これだけ厳しい状況をテストしている」と胸を張ると、彼の地の技術者は
「そんなテストをすれば必ず壊れる。非現実的だ。むしろ、日本製のダンパーは、本来の仕事をしていないから壊れないのだ。うちの部品はきちんと仕事をしているから壊れるのだ」
と傲然と言い放ったという。
そこで貴島さんは、まあそのドイツ魂にちょっと呆れつつも、「お前たちの部品は、本来の仕事をしていないから壊れないのだ」というビルシュタイン側の批判から、逆に一流の技術が求めるものは、単に日本製のように壊れないことだけではないのだ、と気づいたのだそうです。
そういうのって大事だよねえ。
同じ事が、スカイマークの「感情労働」拒否宣言にも言える。
「客」は、はした金を払っただけで「感情労働」を無限に奪取する「甘えの構造」を潜在的には持つ。
日本人の生きている基盤=OSは、その「甘えた」の構造に親和性が高い。
(無茶いう客は何も日本人だけじゃないんだろうけれどね)
スカイマークはそこを敢えて非日本的な表現で拒否したから、問題視されたのだろう。
無論、「苦情は受けない。消費生活センターへ」ってのは表現が中途半端だったからダメだしすべきところだけれど、サービス業における「感情労働」の無間地獄に歯止めを掛けた点は評価してもいいんじゃないか。
コストカットには理由があっていい。
むしろ、そこをきちんと説明すればいいのに、という次のブログに共鳴。
河合薫のブログ
もともとこの「感情労働」についての議論は、客室乗務員ばかりではなく、看護とか介護の仕事においてなされてきたと認識している。この議論は非常に難しい側面があって、きちんと勉強しないと簡単には語れないけれど、
1,表面的な演技(「いらっしゃいませ○○へようこそ、おたばこはお吸いになりますか」的マニュアルで済む)
2,場面に応じた演技(客室乗務員レベル。その場限りだが、場合に応じたきめ細かい対応がそれなりに必要。心は売らない)
3,内面的感情をコントロールするレベル(介護や看護、教育。やることは職務で決まっている。そこに心を込める必要あり)
4,内面的感情をコントロールしつつ、それをマネージメントするレベル(医者やカウンセラーなど専門職)
素人が考えてもかなり多様だ。
しかし、ちょっと考えただけでも演技と内面化と運用という3つの面はある。
マニュアルですむレベル、経営者や上司の指導ですむレベル、かなりの訓練を経てスキルとして身につけるレベル、元々持っている性格や才能を必要とするレベル
とさまざまに考えられよう。
これが「サービス業」においては、労働者は、正当な値段がつかないままヘタすると無限に要求される。
勘弁して欲しい。
ま、スカイマークのへたっぴいなやり方は、確かに今までの日本の職業意識と微妙なズレがある。
これからの「感情労働」をコストとしてどう意識し、マネージメントするか、また労働者のその部分をどう正当な対価として評価するか(マニュアルレベルか、指示に従うレベルか、訓練や教育によって支えるレベルか、はたまた個人の持っている「性能」「資質」の部分で理解するのか)、課題として考えていく必要があると思う。
人間だって壊れるんだからねぇ。
日本は日本の価値基準というか文化的OSがあって、今まではやってこれた。
でも、それを無意識で使って世界で通用していた時代が終わったんだろう。
これからは、「肩」も「心」も消耗品だ、ってのも考えていかなくちゃ。
その上で、きちんとメンテナンスして継続した仕事ができ、それなりに生活できる対価が貰えるような形を探していきたいなあ。
結局のところ必要なのはたぶん、どこでも通用するコストカット(とか一流の部品設計とか)とかいう抽象的な話じゃなくて、欲しいのは日本人としてのやり方、なんだけどね。
本についてはこちら。
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980366
で、そこにこんなエピソードが書いてあって、深く納得したのでメモ代わりに。
ビルシュタインの部品(ドイツ製?)をマツダの車に使おうとして、走行テストを行ったところ、あろうことか日本製の部品は壊れないのに、ビルシュタインの部品は封入したダンパーの油が漏れだしたのだ。
当然、貴島さんたちマツダは、「なんだ、ドイツ製とはいっても耐久性は悪いじゃないか、これじゃ社内のレギュレーションを通らない」ということでメーカーにダメだしをしたのだという。
そうしたら、ビルシュタインの技術者は、そのテストコースを確認させろという。
マツダの方が「これだけ厳しい状況をテストしている」と胸を張ると、彼の地の技術者は
「そんなテストをすれば必ず壊れる。非現実的だ。むしろ、日本製のダンパーは、本来の仕事をしていないから壊れないのだ。うちの部品はきちんと仕事をしているから壊れるのだ」
と傲然と言い放ったという。
そこで貴島さんは、まあそのドイツ魂にちょっと呆れつつも、「お前たちの部品は、本来の仕事をしていないから壊れないのだ」というビルシュタイン側の批判から、逆に一流の技術が求めるものは、単に日本製のように壊れないことだけではないのだ、と気づいたのだそうです。
そういうのって大事だよねえ。
同じ事が、スカイマークの「感情労働」拒否宣言にも言える。
「客」は、はした金を払っただけで「感情労働」を無限に奪取する「甘えの構造」を潜在的には持つ。
日本人の生きている基盤=OSは、その「甘えた」の構造に親和性が高い。
(無茶いう客は何も日本人だけじゃないんだろうけれどね)
スカイマークはそこを敢えて非日本的な表現で拒否したから、問題視されたのだろう。
無論、「苦情は受けない。消費生活センターへ」ってのは表現が中途半端だったからダメだしすべきところだけれど、サービス業における「感情労働」の無間地獄に歯止めを掛けた点は評価してもいいんじゃないか。
コストカットには理由があっていい。
むしろ、そこをきちんと説明すればいいのに、という次のブログに共鳴。
河合薫のブログ
もともとこの「感情労働」についての議論は、客室乗務員ばかりではなく、看護とか介護の仕事においてなされてきたと認識している。この議論は非常に難しい側面があって、きちんと勉強しないと簡単には語れないけれど、
1,表面的な演技(「いらっしゃいませ○○へようこそ、おたばこはお吸いになりますか」的マニュアルで済む)
2,場面に応じた演技(客室乗務員レベル。その場限りだが、場合に応じたきめ細かい対応がそれなりに必要。心は売らない)
3,内面的感情をコントロールするレベル(介護や看護、教育。やることは職務で決まっている。そこに心を込める必要あり)
4,内面的感情をコントロールしつつ、それをマネージメントするレベル(医者やカウンセラーなど専門職)
素人が考えてもかなり多様だ。
しかし、ちょっと考えただけでも演技と内面化と運用という3つの面はある。
マニュアルですむレベル、経営者や上司の指導ですむレベル、かなりの訓練を経てスキルとして身につけるレベル、元々持っている性格や才能を必要とするレベル
とさまざまに考えられよう。
これが「サービス業」においては、労働者は、正当な値段がつかないままヘタすると無限に要求される。
勘弁して欲しい。
ま、スカイマークのへたっぴいなやり方は、確かに今までの日本の職業意識と微妙なズレがある。
これからの「感情労働」をコストとしてどう意識し、マネージメントするか、また労働者のその部分をどう正当な対価として評価するか(マニュアルレベルか、指示に従うレベルか、訓練や教育によって支えるレベルか、はたまた個人の持っている「性能」「資質」の部分で理解するのか)、課題として考えていく必要があると思う。
人間だって壊れるんだからねぇ。
日本は日本の価値基準というか文化的OSがあって、今まではやってこれた。
でも、それを無意識で使って世界で通用していた時代が終わったんだろう。
これからは、「肩」も「心」も消耗品だ、ってのも考えていかなくちゃ。
その上で、きちんとメンテナンスして継続した仕事ができ、それなりに生活できる対価が貰えるような形を探していきたいなあ。
結局のところ必要なのはたぶん、どこでも通用するコストカット(とか一流の部品設計とか)とかいう抽象的な話じゃなくて、欲しいのは日本人としてのやり方、なんだけどね。