テキストを読む快楽は、若い時よりも深くなったような気がする。
若い時は、面白いモノをひたすら追いかけていた。
物語でも、表現でも、スタイルでも、キャラクターでも、作者の姿勢でも、何でも良かった。面白ければそれでいい。
そう思って、本を漁り続けていた。
体力が下り坂になり、目も悪くなって(近眼で乱視なのに老眼。プラス疲れ目で夜はしょぼしょぼ)、読む速度も量も減ってきたころから、テキストをじっくり読み味わうことができるようになった。
なに、ボケが幾分か入って新しいものが入ってこないのにかつて入れたモノも次第に忘れがちになり、大事な大筋だけがつかの間明晰に見えるという
「初老期逆-時分の花」
がきざしているだけのことかもしれないのだが。
それにしても、ちょっとテキストを読んだだけで、そこに直接は見えないものを「参照」する「省力化」の癖がついた。なんとなく脳味噌の中でぼんやりと、そのテキストだけではない、頭の中に澱のように蓄積されたモヤモヤを参照しつつ、眼前のテキストをそれなりに「豊か」に味わうことができるようになったのは、まあ年の功といえば言えるのかもしれない。
読み切れないほど物置に詰め込まれたテキストを、近々処分しようと思う。
捨てられないものは「自炊」でもしようか、と、スキャナを物色しはじめた。
震災で失ったScanSnap(富士通)をもう一度買って、積ん読テキストはipadで読むことにしよう。
もちろん紙媒体でなければならないテキストもある。
しかし、紙媒体で全てを手元に置く必要はない。
第一、死ぬまでに手元にあるテキストさえ全部を読む(あるいは読み直す)ことさえできない量に達している。
まして、死ぬ前には体力的にも能力的にももはやテキストを読むに耐えなくなることだってあるだろう。
そろそろ店じまいの準備ぐらいはしはじめてもいい。
若い時は、面白いモノをひたすら追いかけていた。
物語でも、表現でも、スタイルでも、キャラクターでも、作者の姿勢でも、何でも良かった。面白ければそれでいい。
そう思って、本を漁り続けていた。
体力が下り坂になり、目も悪くなって(近眼で乱視なのに老眼。プラス疲れ目で夜はしょぼしょぼ)、読む速度も量も減ってきたころから、テキストをじっくり読み味わうことができるようになった。
なに、ボケが幾分か入って新しいものが入ってこないのにかつて入れたモノも次第に忘れがちになり、大事な大筋だけがつかの間明晰に見えるという
「初老期逆-時分の花」
がきざしているだけのことかもしれないのだが。
それにしても、ちょっとテキストを読んだだけで、そこに直接は見えないものを「参照」する「省力化」の癖がついた。なんとなく脳味噌の中でぼんやりと、そのテキストだけではない、頭の中に澱のように蓄積されたモヤモヤを参照しつつ、眼前のテキストをそれなりに「豊か」に味わうことができるようになったのは、まあ年の功といえば言えるのかもしれない。
読み切れないほど物置に詰め込まれたテキストを、近々処分しようと思う。
捨てられないものは「自炊」でもしようか、と、スキャナを物色しはじめた。
震災で失ったScanSnap(富士通)をもう一度買って、積ん読テキストはipadで読むことにしよう。
もちろん紙媒体でなければならないテキストもある。
しかし、紙媒体で全てを手元に置く必要はない。
第一、死ぬまでに手元にあるテキストさえ全部を読む(あるいは読み直す)ことさえできない量に達している。
まして、死ぬ前には体力的にも能力的にももはやテキストを読むに耐えなくなることだってあるだろう。
そろそろ店じまいの準備ぐらいはしはじめてもいい。