年間12回でスピノザをじっくり読み解く講座の第1四半期が終了した。
第1期は『知性改善論』という未完の著作中心の内容だった。
おもしろい!実に面白い。
違った思考のOSについて考える、という行為は、普段時間をかけて行うことが非常に難しい。
日常生活には日常生活の習慣化された行動があり、習慣化された思考がある。
私達の身体と意識は、現代の生活によって縛られると同時に支えられ、また近代以後の思考のOSによって枠づけられ
て発展してきた現状を無意識の前提としている。
それが悪いとかいい、とかいうことではない。
ただ、その生活の中にいては、OSの中にいては十分な「問い直し」ができない、ということが考えられるだろう。
かといって直ちに「出家」するような、エキセントリックな「原理主義的」行動を良しとしないかぎり、頭までどっぷり浸かったこの状態をあたかも「所与」のものとして生きる以外にとりあえず手だてがないように思われてしまう。
むしろ、現状にたいする「疑問」は薄々感じてもいるのだ。しかし、どこから手を付けたらいいのか分からない。それが正直なところである。
大飯原発の再稼働問題の報道を見ていて、改めてそう思う。
私達には、根底的にものを考える哲学に支えられた「倫理」が必要だ。
少なくても、私には必要になった。
この震災以後、とくに不可欠だと考えている。
それをじっくり考えて行く重要な助け、補助線になるのが、スピノザの哲学なのだ。
スピノザを読み始めたのは、数年前からで、震災や原発被害とは全く関係がない。
そしてまた今朝も、ばあさんに
「大飯原発再稼働の是非に、スピノザはどう役に立つんだい?」
と聞かれた(笑)。
そんなことは知らん。
答えはスピノザの本の中には無論、ない。
けれどたとえば、自然権一つとっても、スピノザは人間の中の「力能」は、誰にも奪うことはできず、常にそこに存在する、と考えていた。社会制度や権力や、しがらみや、与えられた思考の枠組みによってその「力能」から隔てられた「私」を、その「隔て」から解放すること。
断じて、何かどこかの外部に真理の標識があったり思考の型があったりしてそれに自分を合わせていくのではなく、「自然権」を回復し、自己の力能を最大限に発揮すること。
それは個人の意識の自由とはおよそ正反対の、真理の自己運動と私が一致することだ、ということ。
そこにこそ「エチカ(倫理)」がある、ということ。
今私が置かれたこの場所と存在において、必要不可欠な根底的思考の要素と手だてが、スピノザにはぎっしり詰まっている。
そう、思うのだ。
ドゥルーズは「意識の価値の切り下げ」というような表現を用いて、そのあたりの事情を説明していた。
哲学の「表現」としては、スピノザの文章は圧倒的に素っ気ない。
「分かる人には分かる。」「知っている時には知っていることを知っている」
とかいっている。一見、私的であり密教的であるかのようだ。
でも、明晰判明な基準を通して「公共性」にアクセスするだけでは、その「公共性」は狭すぎるのではないか。
人間は限界もあり、過ちもし、全てを理解することはできないけれど、そこだけに「公共性」を限定するのは人間の「力能」を十全に理解しているとは言い難いのではないか。
暗黙知とか集合的無意識とか、「外的標準」の言葉を決して語ろうとしないスピノザの哲学だからこそ、その「読めなさ」をなおも適切に読もうとする努力に見合ったものが与えられる可能性を持つのだとも考えるのだ。
秘儀的ではなく、あくまで公共的なるものにコミットしようとするあっけないほどの姿勢を持ちつつ、それを「説得」しようとはしない文章の「立ち位置」は、今までテキストの欲望が露呈する「文体」ばかりを読んできた私にとって、どれだけ新鮮に感じられたことか。
このことは、繰り返して書いておかねばならないと思う。
ある種「動物的」とさえ言い得るような「異様さ」「あっけなさ」を抱えつつ、粘り強く「説得にならない」説得を繰り返していくスピノザ。
そのスピノザに魅力というか、必要性を感じている。
それは、スピノザ哲学自体の「表現」方法の問題である(國分氏が『知性改善論』を引きながら今回論じた内容)と同時に、スピノザ哲学における「表現」の問題(ドゥルーズが指摘しているような本質における)について、同時にきちんと考えていかねばならないということを再確認させられる、ということでもある。
第1期はスピノザ自身がそのテキストにおいて抱える困難を読んだ。
第2期は、スピノザがデカルトのテキストを「読む」ことにおいてその困難をくぐりぬけていった、そのプロセスを読むことになるのかもしれない。
「スピノザはデカルトを側におくと俄然面白くなる」
という國分氏の言葉は、國分氏が博士論文(『スピノザの方法』)で取った方法それ自体についての言葉でもあるだろう。
スピノザ自身のテキストでありながら、デカルト読解でもあり、デカルト批評でもあり、デカルトの脱構築でもある。
そこをくぐり抜けることで、
『知的改善論』→『デカルトの哲学定理』→『エチカ』
とスピノザ自身のテキストが生成・発展していく……
そんな流れになるのかな、と期待しつつ、7月の講座を受講しようと思う。
第1期は『知性改善論』という未完の著作中心の内容だった。
おもしろい!実に面白い。
違った思考のOSについて考える、という行為は、普段時間をかけて行うことが非常に難しい。
日常生活には日常生活の習慣化された行動があり、習慣化された思考がある。
私達の身体と意識は、現代の生活によって縛られると同時に支えられ、また近代以後の思考のOSによって枠づけられ
て発展してきた現状を無意識の前提としている。
それが悪いとかいい、とかいうことではない。
ただ、その生活の中にいては、OSの中にいては十分な「問い直し」ができない、ということが考えられるだろう。
かといって直ちに「出家」するような、エキセントリックな「原理主義的」行動を良しとしないかぎり、頭までどっぷり浸かったこの状態をあたかも「所与」のものとして生きる以外にとりあえず手だてがないように思われてしまう。
むしろ、現状にたいする「疑問」は薄々感じてもいるのだ。しかし、どこから手を付けたらいいのか分からない。それが正直なところである。
大飯原発の再稼働問題の報道を見ていて、改めてそう思う。
私達には、根底的にものを考える哲学に支えられた「倫理」が必要だ。
少なくても、私には必要になった。
この震災以後、とくに不可欠だと考えている。
それをじっくり考えて行く重要な助け、補助線になるのが、スピノザの哲学なのだ。
スピノザを読み始めたのは、数年前からで、震災や原発被害とは全く関係がない。
そしてまた今朝も、ばあさんに
「大飯原発再稼働の是非に、スピノザはどう役に立つんだい?」
と聞かれた(笑)。
そんなことは知らん。
答えはスピノザの本の中には無論、ない。
けれどたとえば、自然権一つとっても、スピノザは人間の中の「力能」は、誰にも奪うことはできず、常にそこに存在する、と考えていた。社会制度や権力や、しがらみや、与えられた思考の枠組みによってその「力能」から隔てられた「私」を、その「隔て」から解放すること。
断じて、何かどこかの外部に真理の標識があったり思考の型があったりしてそれに自分を合わせていくのではなく、「自然権」を回復し、自己の力能を最大限に発揮すること。
それは個人の意識の自由とはおよそ正反対の、真理の自己運動と私が一致することだ、ということ。
そこにこそ「エチカ(倫理)」がある、ということ。
今私が置かれたこの場所と存在において、必要不可欠な根底的思考の要素と手だてが、スピノザにはぎっしり詰まっている。
そう、思うのだ。
ドゥルーズは「意識の価値の切り下げ」というような表現を用いて、そのあたりの事情を説明していた。
哲学の「表現」としては、スピノザの文章は圧倒的に素っ気ない。
「分かる人には分かる。」「知っている時には知っていることを知っている」
とかいっている。一見、私的であり密教的であるかのようだ。
でも、明晰判明な基準を通して「公共性」にアクセスするだけでは、その「公共性」は狭すぎるのではないか。
人間は限界もあり、過ちもし、全てを理解することはできないけれど、そこだけに「公共性」を限定するのは人間の「力能」を十全に理解しているとは言い難いのではないか。
暗黙知とか集合的無意識とか、「外的標準」の言葉を決して語ろうとしないスピノザの哲学だからこそ、その「読めなさ」をなおも適切に読もうとする努力に見合ったものが与えられる可能性を持つのだとも考えるのだ。
秘儀的ではなく、あくまで公共的なるものにコミットしようとするあっけないほどの姿勢を持ちつつ、それを「説得」しようとはしない文章の「立ち位置」は、今までテキストの欲望が露呈する「文体」ばかりを読んできた私にとって、どれだけ新鮮に感じられたことか。
このことは、繰り返して書いておかねばならないと思う。
ある種「動物的」とさえ言い得るような「異様さ」「あっけなさ」を抱えつつ、粘り強く「説得にならない」説得を繰り返していくスピノザ。
そのスピノザに魅力というか、必要性を感じている。
それは、スピノザ哲学自体の「表現」方法の問題である(國分氏が『知性改善論』を引きながら今回論じた内容)と同時に、スピノザ哲学における「表現」の問題(ドゥルーズが指摘しているような本質における)について、同時にきちんと考えていかねばならないということを再確認させられる、ということでもある。
第1期はスピノザ自身がそのテキストにおいて抱える困難を読んだ。
第2期は、スピノザがデカルトのテキストを「読む」ことにおいてその困難をくぐりぬけていった、そのプロセスを読むことになるのかもしれない。
「スピノザはデカルトを側におくと俄然面白くなる」
という國分氏の言葉は、國分氏が博士論文(『スピノザの方法』)で取った方法それ自体についての言葉でもあるだろう。
スピノザ自身のテキストでありながら、デカルト読解でもあり、デカルト批評でもあり、デカルトの脱構築でもある。
そこをくぐり抜けることで、
『知的改善論』→『デカルトの哲学定理』→『エチカ』
とスピノザ自身のテキストが生成・発展していく……
そんな流れになるのかな、と期待しつつ、7月の講座を受講しようと思う。