環境美学入門という副題が付いたこの本を、しばらく手元に置いてぽつぽつと読んでいる。
自然と人工、という二項対立は、環境について考えはじめると、その基盤のフレームとしては「もたない」、と筆者は言う。
そこはまず納得。
そうなると結局、きちんとした「自然」の「定義」なしに議論を進めることが難しくなってくる。
まず、近代美学は芸術の鑑賞を中心の前提として「美」を考えてきたから、そのやり方で自然を鑑賞すると、
1,絵画のように風景を見る
2,個物を作品のように見る。
3,形や色といったものの美的側面を見る。
の3パターンが代表的。
でも、もちろん、自然の美を感じるのは、そういう芸術鑑賞のフレームだけでは不足。
エコエコした時代の要請もあって、「環境美学」というジャンルが立ち上がる所以でもある。
でも、すぐにこいつはカント的アンチノミーを露呈するっていうんですね。
(カント的、とか言われるとよく分からないけれど、)読めた限りでいえば、上記のように芸術の対象として切り取るだけじゃ満足できない。
自然は額縁に切り取られた絵画ではない。当然です。
とすると、カットケーキじゃなくて、自然をホールで味わいたい、ってことになる。
つまりは環境全体の連関の中で自然の美を享受するわけですね。
でも、そうなると、人間もまた動物種として自然の内部にあるわけで、食べたホールケーキの中に人間が入って来ちゃうことになる。
かといって、人間中心主義を断固排除していくと、「自然と人間」という自然とそれを鑑賞する人間という二項対立それ自体が存立不可能になって、もはや人間の意図も享受も排除された人間無き「自然」というほとんど空虚な観念にたどり着いてしまう……。
なぜそういう困難を招来するかといえば、それは、そもそも人間と自然、人工と自然を二項対立させるフレームから出発してるからだ。
そういう指摘かと。
さて、不毛な自然と人工の二項対立という抽象的観念を捨てて見れば、私たちはいつも「自然と人為の混合物」を見て自然を鑑賞している。
そしてまた「モノ自体」に触れることはできないわけだから、その人為と自然の混合物を、私たちは人間である私たちが設定した世界内部の現象としてとして受け止めていることになる。
つまり、人間の文化的・文明的「世界」のフレームから一歩も外には出られない。
かといって、自然それ自体は技術によって精巧につくられていれば(見分けがつかなければ)いいってものでもない。
その辺が題名になってきているのでしょう。
ある種の態度というか、美的フレームの存在(それは決して個人の恣意=匙加減ではない)が参照されねばならない、ということでしょうか。
それはでも、いわゆる技法や伝統の知識の習得と参照とは似ているけれど違う。
ことはある意味小学生のケンカに似てきたりしてね。
「カレー味の○○○と○○○味のカレー」
の究極の二項対立は、実は見せかけの対立であって、その前提に美的なフレームがあるぜって話でもある。
そのあたり、美学といいながら、倫理の匂いがそこはかとなくしてきます(笑)。
っていうか、私は「美」とかは昔からよくかわかんない。
だって「美」とかって、どう考えてもさじ加減しだいってかんじがしてしまう。
でも、理解できそうな「倫理」の方からアプローチできるなら、環境美学とも付き合えるかもしれない、という感じ?
ようやく「美」が親しいものになってくれるんでしょかね?
まだ途中ですが、メチャメチャ興味深い。
人為と自然の一筋縄ではいかない関係を解きほぐしてくれる「良き師匠」の予感がします。
勁草書房『プラスチックの木でなにが悪いのか 環境美学入門』西村清和
言うまでもありませんが、プラスチックの木は美学として「悪い」し、筆者はさらに倫理的にもまずい、と言っています。
この美学と倫理を同時に論じるスタンスも面白い。
内容まだきちんとこなしてないですが、お薦め本ですねぇ。
自然と人工、という二項対立は、環境について考えはじめると、その基盤のフレームとしては「もたない」、と筆者は言う。
そこはまず納得。
そうなると結局、きちんとした「自然」の「定義」なしに議論を進めることが難しくなってくる。
まず、近代美学は芸術の鑑賞を中心の前提として「美」を考えてきたから、そのやり方で自然を鑑賞すると、
1,絵画のように風景を見る
2,個物を作品のように見る。
3,形や色といったものの美的側面を見る。
の3パターンが代表的。
でも、もちろん、自然の美を感じるのは、そういう芸術鑑賞のフレームだけでは不足。
エコエコした時代の要請もあって、「環境美学」というジャンルが立ち上がる所以でもある。
でも、すぐにこいつはカント的アンチノミーを露呈するっていうんですね。
(カント的、とか言われるとよく分からないけれど、)読めた限りでいえば、上記のように芸術の対象として切り取るだけじゃ満足できない。
自然は額縁に切り取られた絵画ではない。当然です。
とすると、カットケーキじゃなくて、自然をホールで味わいたい、ってことになる。
つまりは環境全体の連関の中で自然の美を享受するわけですね。
でも、そうなると、人間もまた動物種として自然の内部にあるわけで、食べたホールケーキの中に人間が入って来ちゃうことになる。
かといって、人間中心主義を断固排除していくと、「自然と人間」という自然とそれを鑑賞する人間という二項対立それ自体が存立不可能になって、もはや人間の意図も享受も排除された人間無き「自然」というほとんど空虚な観念にたどり着いてしまう……。
なぜそういう困難を招来するかといえば、それは、そもそも人間と自然、人工と自然を二項対立させるフレームから出発してるからだ。
そういう指摘かと。
さて、不毛な自然と人工の二項対立という抽象的観念を捨てて見れば、私たちはいつも「自然と人為の混合物」を見て自然を鑑賞している。
そしてまた「モノ自体」に触れることはできないわけだから、その人為と自然の混合物を、私たちは人間である私たちが設定した世界内部の現象としてとして受け止めていることになる。
つまり、人間の文化的・文明的「世界」のフレームから一歩も外には出られない。
かといって、自然それ自体は技術によって精巧につくられていれば(見分けがつかなければ)いいってものでもない。
その辺が題名になってきているのでしょう。
ある種の態度というか、美的フレームの存在(それは決して個人の恣意=匙加減ではない)が参照されねばならない、ということでしょうか。
それはでも、いわゆる技法や伝統の知識の習得と参照とは似ているけれど違う。
ことはある意味小学生のケンカに似てきたりしてね。
「カレー味の○○○と○○○味のカレー」
の究極の二項対立は、実は見せかけの対立であって、その前提に美的なフレームがあるぜって話でもある。
そのあたり、美学といいながら、倫理の匂いがそこはかとなくしてきます(笑)。
っていうか、私は「美」とかは昔からよくかわかんない。
だって「美」とかって、どう考えてもさじ加減しだいってかんじがしてしまう。
でも、理解できそうな「倫理」の方からアプローチできるなら、環境美学とも付き合えるかもしれない、という感じ?
ようやく「美」が親しいものになってくれるんでしょかね?
まだ途中ですが、メチャメチャ興味深い。
人為と自然の一筋縄ではいかない関係を解きほぐしてくれる「良き師匠」の予感がします。
勁草書房『プラスチックの木でなにが悪いのか 環境美学入門』西村清和
言うまでもありませんが、プラスチックの木は美学として「悪い」し、筆者はさらに倫理的にもまずい、と言っています。
この美学と倫理を同時に論じるスタンスも面白い。
内容まだきちんとこなしてないですが、お薦め本ですねぇ。