昨日、福島県衆議院議員選挙第5区の立候補予定者5人が一堂に会しての公開討論会を行った。
場所はいわき市平のワシントンホテル。
公約は言わない。聴衆の質問は一切なし。
公開討論と言いながら、立候補予定者の議論もなし。
ただ、一人3分の持ち時間で、いくつかのテーマで順番にしゃべっていくだけである。
ま、そうじゃないと収拾がつかないだろうことは予想できる。
ぬるい集会になるんじゃないかと心配しつつのこのこ出かけていったが、意外に面白かった。
まあ概ね選挙公報に載るような話なのだろうけれど、次々に5人がテーマ毎喋っていくと、しだいにそのカラーが出てくる。
18時~20時30分まで、ずっと1分とか3分、せいぜい5分刻みで意見を並べていくのだが、みんな同じようなことを言っている面もあるし、そうでないことも見える。
まず中間貯蔵施設の受け入れについての質問では、
○が
吉田泉(民主)
坂本剛二(自民)
吉野正芳(自民)
吉田英策(共産)は○でも×でもない。
除染が進まない現実と住民の理解の必要性とを挙げていた。
それに対して
宇佐見登(維新)は×。
維新は無人島の可能性を提案した。
アイディアとしては面白い。
しかし移設方法と、その周辺地域の問題。海洋資源との兼ね合いもある。
速度を重視する、という維新の割には、現状では現実性が乏しいと感じた。
次に脱原発は
共産党のみ×。
自民2,民主、維新はいきなり原発を止める、ということは言わなかった。
いずれも原発依存からの脱却と、新エネルギーの開発を福島で、という論調。
この二つからいくと、福島県浜通りの立候補者の多数派は、日本全国の原発をすぐに止めるのではなく、福島県の浜通りに中間貯蔵施設をつくることを容認する、という結論が出てくる。
やれやれ。
これが「現実的選択」ということか。
私は全国の原子力発電所を可能な限り早く廃炉にすべきだと考えている。
廃炉にする工程の明確化が一番大切だ、と主張したい。
なぜ?
昨夜の討論会で立候補予定者が共通認識として語っていたが、
現在もなお福島県民のうち16万人が、自宅以外のところに住んでいるという。
津波で亡くなった方もいるが、原発事故による避難がなければなくならずにすんだはずの方も少なくはあるまい。
この事態は、日本国中どこでも起こりえる。
そして、自然災害とは違って、原子力発電所はある種「人為の極致」であり、しかもそれゆえに人が制御しきれないリスクを背負っている。
16万人の避難が続く社会的事象としての「事故」の責任と、環境汚染の「責任」を考えたら、再稼働はすべきではない。
日本人は、この「責任」を軽んじている。「責任」を直視する精神の「瞳」の強さを持たない。
そしてさらに、津波と原子力発電所の事故の二つがもたらした「人為の裂け目」から覗く「自然」のあられもない「暴力」を、きちんと見つめる瞳の強靱さも持たない。
ここに集った5人の政治家の方たちにも、この二つの瞳の強靱さを、残念ながら感じることはできなかった。
政治家は、「自然」を見る人ではない、ということなのだろう。
それならば、その「瞳の強靱さ」を求める者が、この事象に瞳をこらし続けるより外にあるまい。
そう決意して、帰って来た。
福島で起こったこと、そして今起こり続けていることに、瞳を凝らしつつ考えること。
そしてそれを生きている限り、続けて行くこと。
そろそろ、福島について考え、語り、訴える仕事の「持続」を、開始するべき時期がきたようだ。
準備が整ったら、始めます。
場所はいわき市平のワシントンホテル。
公約は言わない。聴衆の質問は一切なし。
公開討論と言いながら、立候補予定者の議論もなし。
ただ、一人3分の持ち時間で、いくつかのテーマで順番にしゃべっていくだけである。
ま、そうじゃないと収拾がつかないだろうことは予想できる。
ぬるい集会になるんじゃないかと心配しつつのこのこ出かけていったが、意外に面白かった。
まあ概ね選挙公報に載るような話なのだろうけれど、次々に5人がテーマ毎喋っていくと、しだいにそのカラーが出てくる。
18時~20時30分まで、ずっと1分とか3分、せいぜい5分刻みで意見を並べていくのだが、みんな同じようなことを言っている面もあるし、そうでないことも見える。
まず中間貯蔵施設の受け入れについての質問では、
○が
吉田泉(民主)
坂本剛二(自民)
吉野正芳(自民)
吉田英策(共産)は○でも×でもない。
除染が進まない現実と住民の理解の必要性とを挙げていた。
それに対して
宇佐見登(維新)は×。
維新は無人島の可能性を提案した。
アイディアとしては面白い。
しかし移設方法と、その周辺地域の問題。海洋資源との兼ね合いもある。
速度を重視する、という維新の割には、現状では現実性が乏しいと感じた。
次に脱原発は
共産党のみ×。
自民2,民主、維新はいきなり原発を止める、ということは言わなかった。
いずれも原発依存からの脱却と、新エネルギーの開発を福島で、という論調。
この二つからいくと、福島県浜通りの立候補者の多数派は、日本全国の原発をすぐに止めるのではなく、福島県の浜通りに中間貯蔵施設をつくることを容認する、という結論が出てくる。
やれやれ。
これが「現実的選択」ということか。
私は全国の原子力発電所を可能な限り早く廃炉にすべきだと考えている。
廃炉にする工程の明確化が一番大切だ、と主張したい。
なぜ?
昨夜の討論会で立候補予定者が共通認識として語っていたが、
現在もなお福島県民のうち16万人が、自宅以外のところに住んでいるという。
津波で亡くなった方もいるが、原発事故による避難がなければなくならずにすんだはずの方も少なくはあるまい。
この事態は、日本国中どこでも起こりえる。
そして、自然災害とは違って、原子力発電所はある種「人為の極致」であり、しかもそれゆえに人が制御しきれないリスクを背負っている。
16万人の避難が続く社会的事象としての「事故」の責任と、環境汚染の「責任」を考えたら、再稼働はすべきではない。
日本人は、この「責任」を軽んじている。「責任」を直視する精神の「瞳」の強さを持たない。
そしてさらに、津波と原子力発電所の事故の二つがもたらした「人為の裂け目」から覗く「自然」のあられもない「暴力」を、きちんと見つめる瞳の強靱さも持たない。
ここに集った5人の政治家の方たちにも、この二つの瞳の強靱さを、残念ながら感じることはできなかった。
政治家は、「自然」を見る人ではない、ということなのだろう。
それならば、その「瞳の強靱さ」を求める者が、この事象に瞳をこらし続けるより外にあるまい。
そう決意して、帰って来た。
福島で起こったこと、そして今起こり続けていることに、瞳を凝らしつつ考えること。
そしてそれを生きている限り、続けて行くこと。
そろそろ、福島について考え、語り、訴える仕事の「持続」を、開始するべき時期がきたようだ。
準備が整ったら、始めます。