龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

これから「スピノザ入門」講座の8回目。

2012年11月17日 13時14分00秒 | 大震災の中で
結構な回数になってきました。

『エチカ』の読解です。

今までは『スピノザの方法』のおさらいみたいな面もありましたが、いよいよ話は佳境に入るってことですね。

楽しみです(^-^)/

何がこんなに楽しみなんだろう、と道々考えていたのですが、ただ知的な興味ってわけじゃあなさそうです。

ま、当たり前ですね。

よりによってなぜスピノザじゃなきゃならないのか。

半分は自分の資質にも関わるかも知れないし、また別の半面では環境のしからしむるところ、でもあるかもしれない。

「思惟と延長が驚くべきことに一致する」
とかいう平行論の触りを聞いただけでゾクゾクとしてくるのはやっぱりおかしいですかね(笑)

この「驚くべきことに」あたりに神様を感じてしまいます。

知的に「感応する」動物の力、といってもいい。

想像力だけじゃ直感は働かないってことですね。

当然ながら、人格神はいないんだけどね。でも、別に読んでいる「美」と「倫理」の関わりとも無縁ではなさそうな匂いもします。

でも、受講している人はどうも「まとも」で「勉強家」が多いらしく、少々ツボが違うみたいです。

今いる「人間」の、その立っている場所が揺らぎ、動く、その現場をみたいのですがね。

哲学に限らず「知的なライブ感覚」って、そういうことだと思うんだけどなあ(^-^)

それが、単純に外側を参照するのではなく、内的な衝動を伴って「知の自動運動」が始まるのだとしたら、その現場をみたいじゃないですか、ねえ?

単に外側を参照しておいて「分かったような話」をされるとムカツク。
まるで頭の悪い中高生の怒り、ですが(苦笑)
でも、彼らは頭は悪いが身体感覚はまともでしょう。私もまた、愚かさでは同じようなものです。ただし、若者のような反射神経はもう持ち合わせていない。その代わりにあるのは、経験と習慣、そしてそれにとどまらない多動的好奇心。
そう、多動性は意外にこういう時に頼りになるんです。

「動物性」の比喩の使い所の問題、でもありますか。

というわけで、行ってきま~す。



職場の座席がなくなる夢を見た。

2012年11月17日 06時39分39秒 | 大震災の中で
起きるにはまだちょっと早いし、ひさしぶりに鮮明な夢の記憶がのこったから、忘れないうちに書いておく。



仕事から戻ると、職場の座席がなくなっていた。

確かに三月には部署替えがあって、もうすぐその部屋から出ることになってはいる。

しかし、まだその期限までには間があるはずなのに、もう次のスタッフが部屋に入っていて、机の配置換えまで済んでしまっていた。

あまつさえ折り合いの悪かった元同僚が、上司としてそこに主任として来ており、同僚たちはその上司のいいなりである。

信頼していた人も一緒になって私の荷物を廊下に持ち出す作業をしていて、ガラクタのように廊下の隅に積み重ねられた荷物に埋もれた自分の机にもはや私はたどり着くことさえ出来ない。

憤懣やるかたない私は、棚に上げられた資料を次々に廊下へぶちまけていく。

今まで窓際だと内心軽く見ていた同僚の一人は、部屋の中にまだ席があるらしく、気の毒そうな様子で暴れている私の後から散乱した書類を黙って拾い集めて棚に戻していく。

どうしてこんなヤツに同情されなければならないのか、と思うと、自己憐憫で泣きそうになる。

自分はまだ現役だと思っていたのに、片付けられたら机と同じなのか、ともふと思う。

席を奪われてみると、もはや以前から役立たずのお荷物になっていたのかも知れない。それに気づかずにいたのだとすれば、おめでたい限りではないか。

それにしてももうすぐはじまるスピーチの原稿だけは探さねばならないのに、片づけられてしまった荷物の中から、原稿を見つけ出すことはもはや絶望的である。

トイレに行ってでも練習しなければ、と思うが、そこにも人がいて思うに任せない。

廊下の反対の端から、階下に降りていく。

するとそこは、かつて私が勤務していて、その時は新しかった山あいの建物だ。

あのときも私は、二階の部屋の机の片づけを(あの時は自分で)し終えると、同僚に惜しまれながら仕事を辞し、さらに山奥にある収容所に向かってひとりでクルマを走らせていったのではなかったか。

今はまだ階下の部屋に辛うじて壁際に椅子だけはあるようだ。

向こう側の明るい窓際では、私より年上が、若いモノをなじっている。

「『○△』っていうあの席に座ってる××大出身の若いのは超絶技巧的にダメだな、ありゃ。あんなのは見たこともないぜ」
得意げに若者をなじる老人の向こう側、窓の外には荒涼とした雪景色が広がっている。

かつてここを出て行ったときは、確かに夏だったような気がする。

あれから何年経ったのだろう。

本当は、退職前の老人にになじられているのは私の息子だ。

いや、それは実はそのまま32年前の自分かもしれない。

外は次第に吹雪になりそうだ。

私はスピーチの台本が見つからないまま、今は職場ではそこだけになってしまった壁際の居場所である古ぼけたギシギシ鳴る椅子に座って固まっている。