龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

スピノザの直観知について

2012年11月18日 13時39分01秒 | 大震災の中で
國分功一郎『スピノザ入門』第7回のメモ(その3)をメディア日記に書きました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980400



一ヶ月前の講座メモの残りを先ほどメディア日記にアップしました。
先月の講義は

1.想像力、2.理性、3.直観

の三つについて。

なかんずく「直観」の重要さについての話でした。

迷信や権威を招き寄せる想像力。
箇条書きに出来る理性的な分析。
その二つを排除せずに、ちゃんとその存在を踏まえた上で、なお「個物の認識」として直観知を提示するスピノザ。

國分センセによってドゥルーズ、ベルグソンを参照しつつ語られていくスピノザ像は、ワクワクするほど魅力的です。

ドゥルーズもベルグソンも、かつて読んだことがなかったわけではありません。「持続」とか、「差異と反復」とか、ざっくり聞いたことはあるような気がする程度には。
そのピースが、スピノザというキャンバスにおいて、次々に音を立ててパチンパチンとはまっていくのです。

國分センセの「語り口」は、単純にスピノザ的というよりは、デカルト的説得から始まっている。と当初感じていました。ライプニッツからスピノザへ、という興味の移行とともに、読みとしてはでかるとからスピノザへ、という方向性があった。
もちろんドゥルーズに拠りつつということはあるのでしょうが。

でも、ここに来て、『エチカ』の冒頭部分に説明がたどり着こうとすると、様相が少し変わって来るのを感じます。

多層的な語り口の露出というか、『エチカ』のそれを指摘すると同時に、講座自身の語りもまた変わっていく。
そんな印象を抱きました。

その話は直接には今月の講座を復習しながら考えねばならないのですが。

とりあえず先月の積み残しを解消しました。よろしければ。