卒業式はなぜ素晴らしいのか?
そんなことは言われんでも分かる、と言われてしまうでしょうか。
あるいは、そんなもん今時「要らん」と言われてしまうでしょうか。
なんにせよ、昔から卒業式はたくさん歌にも歌われ、高校生の涙、教師の涙、保護者の涙に満ちた素晴らしい式典として日本人に共有されています。
そうですよねえ。
別に改めて「卒業式の魅力」なんて考えるにも及ばない、のかもしれません。
さて、私は高校教師生活32年(長っ!)を迎え、一昨日何度目かの卒業生を送り出しました。
さしたる能がなくても長くやっていれば、それだけの場数を踏む、ということです。
より正確に言えば、部活動をさほど熱心にやる技能も持たず、管理職になるほどの才覚もなく、部長や主任という責任ある立場にも立てず、かといって「あいつには担任を持たせられない」というほどの排除フラグも立っていない「凡庸さ」を備えた私は、担任でもやらせておくのが最適解だった、ということかもしれません。
いますよね、どこの職場にも。
「なんだかあいつは好きなことばかりやっていてオールラウンドにはほど遠く、むしろ扱いにくいところもあるけれど、好きな仕事をやらせておけばそれほど文句もいわないから、まあ7、8人のチームにはら一人ぐらいあんなのが入っていてもいいか」
って人。
とりあえずは、それです(笑)。
さて、今日書きたいのは、
「卒業式はなぜ、素晴らしいのか?」
でした。
まず第一に、教師として担任業務、学年運営業務は、もっとも主たる仕事です。
毎日欠かさず朝と帰りのガイダンスにいって、出席を取り、連絡をし、さまざまなことを決め、生徒たちの話を聞き、悩みの相談に乗り、喧嘩やいじめの対応をします。行事となれば、球技大会のチーム編成や、修学旅行の班分けがけっこうな山場だったりします。下手をすると、仲間はずれが起こってしまったりしかねないからです。
沖縄の海に入るとなれば、何種類もある希望の選択、ウェットスーツのサイズや、めがねの度数、既往症(丸秘データ)のデータやりとりをしなければなりませんし、海外に行くとなれば全員のパスポートの世話もせねばなりません。
何種類もある模擬試験の希望をとったり、選択に応じて科目ごとに何冊もの問題集の購入を斡旋し、諸費用の集金をし、またその会計ごとに管理
決算・返金がついてまわります。
学校にこれない生徒がいれば、電話で様子を聞き、保護者と連携をとりながら、家庭訪問をしたり、面談をしたり、カウンセリングを斡旋したり、管理職を相談しながら、対応をします。
一つ一つはどうということのない「生活」の一齣だし、そういうものだと思ってやっていますが、教師になる前を想像してみると、これらは全て「雑務」に過ぎません。
私は、授業をして、生徒を「学ぶ」ことにおいて成長させる責任をもって教師になりました。
私が教師になった当時は、教育理論も心理学も教育法規も採用試験には存在せず、ただ指導要領と、専門知識だけが問われていました。30年も前の牧歌的な時代です。
私の教師の歴史は、増加する「雑務」との戦いだったといってもいいでしょう。
もちろん、それらはいまや、雑務どころか業務の中心を占めています。
「いそがしくて授業なんてやっている暇がない」
という冗談も、10年以上前に冗談としての有効性を失っています。
今日の主題からははずれますが、「学校教育」はむしろ今、コンパクトになるほうがいいと思います。
教師の非正規雇用がどんどん増え続けていて、福島県の場合、10年以上勤務している講師であっても、全員が1年の期限付き採用しかありません。
他方で正規採用は高齢化し、にもかかわらず業務はどんどん多岐に渡るようになり、対応できない40代後半から50代の教師の早期退職や心身の病を誘発しています。
最近職場では、心の病を持って休職する同僚が絶えたことがありません。
退職金の切り下げによって高齢者が早期退職するのは、「聖職者」として糾弾すべき事柄ではなく、どう考えても労働力と雇用コストの調整をする上でもっと頭の良い政策として積極的に奨励すべき事柄です。
世間とのギャップの大きさに、呆然とします。
さてそれはさておき、卒業式のすばらしさについてでした。
なにやらグチめいたこと連綿と書きましたが、ことほどさように、今日(こんにち)家族を除いて生徒たちに全人格的に関わるのシステムとして保障されているのは、学校教育を以外に考えられません。
それが一つの区切りを迎えるとき、私たち教師は、単に「お荷物」を肩からおろした開放感に浸るだけではありません。
一人一人の人生の成長と選択に立ち会ってきた大人として、果たしてどれだけの「サービス」ができたか、を問い直すことが迫られます。
希望した大学に入れたか?いい就職ができたか?友人関係は充実していたか?部活動は三年間熱心に活動できたか?深くつき合える友達はできたか?学ぶ喜びを内面化することができたか?社会性は身についたか?
ほぼ、達成できなかったことばかりが頭をよぎります。
髪の毛の色なんて、個人的には黄色だろうが紫色だろうが、勝手にすればいいと思っています。耳だけじゃなく、好みなら舌でもへそでもピアスの穴をあければいい、と個人的には思います(笑)
でも、擬似的な制度としての共同体を構成するためには、要らぬ権力だってふるわねばならないことも少なくありません。
「髪を染めたかったら卒業してからにしろ」
自分で指導していて意味が分かりません(笑)。
いったん疑問を持ってしまった生徒にとっては、ますます意味不明の迷路が待っています。
でも学校はまあとりあえず、そういう場所です。
意味が分からない、とは書きましたが、それは個人的に意味が分からない
という意味です。
共同体が運営される以上、規範に基づく権力行使は、教育空間の保障のために必要不可欠な仕組みではあるのです。
その結界に立てられる「榊」「幣」の意味を、論理的に説明しているヒマはありません。結界は瞬時に張られねばなりませんから。
ただ、そんな結界の張り方はもう無理だろう、という側面も多々あります。それは変えていけばいい。まあ、変わってはいくでしょう。
でも、1000人ちかくの人間の「生活全部」を、50人程度の教師によって、安全を確保した上であまつさえ勉強までさせるには、そういうシステムの駆動が不可欠だということでもありましょう。
生徒たちは、積極的にその「擬制的共同体」としての学校に適合していきます。
それが近代以降、日本人にとっての「範型」でありつづけてきたことも確かなのです。
さて、だからこそ、卒業式は素晴らしい、のですね。
自らが身を投じて、その中で「生きる」という営為を重ねてきた生活世界から身を引きはがし、一つのフィクションとして「ふと」眺める瞬間を持ったとき、人はその「抜け殻」としての歴史を、その瞬間、哀惜せずにはいられないのでしょう
「教師」も「生徒」も、結界の中のロールプレイです。
生活資源の過半を投入して、複数年に渡って積み上げてきたかけがえのない、一度きりのフィクションだからこそ、卒業式は「泣ける」のでしょう。
抑圧からの解放といっただけではたりない、素晴らしい過去への哀惜といっただけでもたりない。
だいたい仕事をしていていちいち生徒の卒業に泣いている大の大人の教師って、「キモい」といえば「キモい」でしょう。
感情労働もほどほどにしておけ、ってはなしです。
でも、保護者や生徒ばかりではなく、教師もほろっとくることがあるのも事実です。
ある同業の先輩が
「卒業のとき、生徒たちは教師を許す」
という「名言」を言ってました。
私たちが他者に権力を振るいつつ擬似的な(おままごとのような)社会=共同体を立ち上げ、その中で自らもプレーヤーとして演じきり、かつその「終了」を宣言する、などというシステムは、そうそうあるものではないのです。
そのあたりの機微を、先輩は「許す」という言葉で言ったものでしょう。
これは「許す」というより「赦す」という言葉の方がふさわしいかもしれません。
明日にだって会おうと思えば会える「別れの儀式」は、おそらく他者との別れ自体に涙を流しているわけではないのです。
上記のようなことどもの「終わり」に立ち合っていることが、集まった人たち老若男女を問わず、泣かせるのです。
泣けば素晴らしいのか、みんなが泣くのか、といえば、もちろんそんなことはありません。
でも、象徴的です。
「卒業式」という儀式はだから、教師を惑わせます。
「また担任を持ってもいいかな」
という気の迷いを起こさせる程度には、間違いなく魅力を持っているのです。
だって、どんなにしんどくても、「人と出会う場所」としての教室という「結界」の魅力は、いまだ完全に色あせてはいないのですから。
もちろん、かなりガタがきているのも事実。
もうそろそろ、十把一絡げの教育は止めた方がいいんじゃないか?
という疑問にはいろいろ留保を持ちつつも、私はイエスと答えておきます。
たぶん、「教師」としては異端でしょう。
教室でさまざまな個性が出会い、せめぎ合い、人格を陶冶することの意味は、古今東西色あせることはないでしょうけれど、今の形の学校教育が、ずっと続くとは思われないのです。
むろん制度疲労が極限近くになっていると思うのは、私自身が「制度疲労」を引き起こしているから、なのかもしれません。
でも学校を「人間形成」の魔法の箱のように考えるのは、そろそろ止めた方がいい、としみじみ思います。
何ができて、何ができないのか、誰に何を、誰が求めるシステムなのか、立ち止まって考えた方がいいんじゃないかな。
卒業式は、そういうことのための一つのきっかけにもなりえるかもしれません。
「学校ってよかった」
という感慨にだけその「すばらしさ」を閉じこめてしまうのは、もったいない限りですから。
もう一言だけ書くとすれば、学校で擬似的に経験した「公共性」は、卒業式で終わる程度の「私的」なものだ、ということでもあります。
ということは、彼らが旅立っていく「社会」もまた、「私的」なものである、という側面を持つということでもあります。
逆にいえば、「私的」なものは、「社会」につながっている、ということもでもあるのですが。
私は3.11以後、「公共的なるもの」について、ずっと考えています。
そういう意味で、学校の営みの中で、生徒たち、そして教師たちが、どうやったら、擬似制度的な共同性を「超えて」公共的なるものにアクセスできるのか、が私の唯一の主題で有り続けています。
卒業式のすばらしさを、それだけで終わらせないために、そこをもう一歩、考え続けていきたいと思っています。
そんなことは言われんでも分かる、と言われてしまうでしょうか。
あるいは、そんなもん今時「要らん」と言われてしまうでしょうか。
なんにせよ、昔から卒業式はたくさん歌にも歌われ、高校生の涙、教師の涙、保護者の涙に満ちた素晴らしい式典として日本人に共有されています。
そうですよねえ。
別に改めて「卒業式の魅力」なんて考えるにも及ばない、のかもしれません。
さて、私は高校教師生活32年(長っ!)を迎え、一昨日何度目かの卒業生を送り出しました。
さしたる能がなくても長くやっていれば、それだけの場数を踏む、ということです。
より正確に言えば、部活動をさほど熱心にやる技能も持たず、管理職になるほどの才覚もなく、部長や主任という責任ある立場にも立てず、かといって「あいつには担任を持たせられない」というほどの排除フラグも立っていない「凡庸さ」を備えた私は、担任でもやらせておくのが最適解だった、ということかもしれません。
いますよね、どこの職場にも。
「なんだかあいつは好きなことばかりやっていてオールラウンドにはほど遠く、むしろ扱いにくいところもあるけれど、好きな仕事をやらせておけばそれほど文句もいわないから、まあ7、8人のチームにはら一人ぐらいあんなのが入っていてもいいか」
って人。
とりあえずは、それです(笑)。
さて、今日書きたいのは、
「卒業式はなぜ、素晴らしいのか?」
でした。
まず第一に、教師として担任業務、学年運営業務は、もっとも主たる仕事です。
毎日欠かさず朝と帰りのガイダンスにいって、出席を取り、連絡をし、さまざまなことを決め、生徒たちの話を聞き、悩みの相談に乗り、喧嘩やいじめの対応をします。行事となれば、球技大会のチーム編成や、修学旅行の班分けがけっこうな山場だったりします。下手をすると、仲間はずれが起こってしまったりしかねないからです。
沖縄の海に入るとなれば、何種類もある希望の選択、ウェットスーツのサイズや、めがねの度数、既往症(丸秘データ)のデータやりとりをしなければなりませんし、海外に行くとなれば全員のパスポートの世話もせねばなりません。
何種類もある模擬試験の希望をとったり、選択に応じて科目ごとに何冊もの問題集の購入を斡旋し、諸費用の集金をし、またその会計ごとに管理
決算・返金がついてまわります。
学校にこれない生徒がいれば、電話で様子を聞き、保護者と連携をとりながら、家庭訪問をしたり、面談をしたり、カウンセリングを斡旋したり、管理職を相談しながら、対応をします。
一つ一つはどうということのない「生活」の一齣だし、そういうものだと思ってやっていますが、教師になる前を想像してみると、これらは全て「雑務」に過ぎません。
私は、授業をして、生徒を「学ぶ」ことにおいて成長させる責任をもって教師になりました。
私が教師になった当時は、教育理論も心理学も教育法規も採用試験には存在せず、ただ指導要領と、専門知識だけが問われていました。30年も前の牧歌的な時代です。
私の教師の歴史は、増加する「雑務」との戦いだったといってもいいでしょう。
もちろん、それらはいまや、雑務どころか業務の中心を占めています。
「いそがしくて授業なんてやっている暇がない」
という冗談も、10年以上前に冗談としての有効性を失っています。
今日の主題からははずれますが、「学校教育」はむしろ今、コンパクトになるほうがいいと思います。
教師の非正規雇用がどんどん増え続けていて、福島県の場合、10年以上勤務している講師であっても、全員が1年の期限付き採用しかありません。
他方で正規採用は高齢化し、にもかかわらず業務はどんどん多岐に渡るようになり、対応できない40代後半から50代の教師の早期退職や心身の病を誘発しています。
最近職場では、心の病を持って休職する同僚が絶えたことがありません。
退職金の切り下げによって高齢者が早期退職するのは、「聖職者」として糾弾すべき事柄ではなく、どう考えても労働力と雇用コストの調整をする上でもっと頭の良い政策として積極的に奨励すべき事柄です。
世間とのギャップの大きさに、呆然とします。
さてそれはさておき、卒業式のすばらしさについてでした。
なにやらグチめいたこと連綿と書きましたが、ことほどさように、今日(こんにち)家族を除いて生徒たちに全人格的に関わるのシステムとして保障されているのは、学校教育を以外に考えられません。
それが一つの区切りを迎えるとき、私たち教師は、単に「お荷物」を肩からおろした開放感に浸るだけではありません。
一人一人の人生の成長と選択に立ち会ってきた大人として、果たしてどれだけの「サービス」ができたか、を問い直すことが迫られます。
希望した大学に入れたか?いい就職ができたか?友人関係は充実していたか?部活動は三年間熱心に活動できたか?深くつき合える友達はできたか?学ぶ喜びを内面化することができたか?社会性は身についたか?
ほぼ、達成できなかったことばかりが頭をよぎります。
髪の毛の色なんて、個人的には黄色だろうが紫色だろうが、勝手にすればいいと思っています。耳だけじゃなく、好みなら舌でもへそでもピアスの穴をあければいい、と個人的には思います(笑)
でも、擬似的な制度としての共同体を構成するためには、要らぬ権力だってふるわねばならないことも少なくありません。
「髪を染めたかったら卒業してからにしろ」
自分で指導していて意味が分かりません(笑)。
いったん疑問を持ってしまった生徒にとっては、ますます意味不明の迷路が待っています。
でも学校はまあとりあえず、そういう場所です。
意味が分からない、とは書きましたが、それは個人的に意味が分からない
という意味です。
共同体が運営される以上、規範に基づく権力行使は、教育空間の保障のために必要不可欠な仕組みではあるのです。
その結界に立てられる「榊」「幣」の意味を、論理的に説明しているヒマはありません。結界は瞬時に張られねばなりませんから。
ただ、そんな結界の張り方はもう無理だろう、という側面も多々あります。それは変えていけばいい。まあ、変わってはいくでしょう。
でも、1000人ちかくの人間の「生活全部」を、50人程度の教師によって、安全を確保した上であまつさえ勉強までさせるには、そういうシステムの駆動が不可欠だということでもありましょう。
生徒たちは、積極的にその「擬制的共同体」としての学校に適合していきます。
それが近代以降、日本人にとっての「範型」でありつづけてきたことも確かなのです。
さて、だからこそ、卒業式は素晴らしい、のですね。
自らが身を投じて、その中で「生きる」という営為を重ねてきた生活世界から身を引きはがし、一つのフィクションとして「ふと」眺める瞬間を持ったとき、人はその「抜け殻」としての歴史を、その瞬間、哀惜せずにはいられないのでしょう
「教師」も「生徒」も、結界の中のロールプレイです。
生活資源の過半を投入して、複数年に渡って積み上げてきたかけがえのない、一度きりのフィクションだからこそ、卒業式は「泣ける」のでしょう。
抑圧からの解放といっただけではたりない、素晴らしい過去への哀惜といっただけでもたりない。
だいたい仕事をしていていちいち生徒の卒業に泣いている大の大人の教師って、「キモい」といえば「キモい」でしょう。
感情労働もほどほどにしておけ、ってはなしです。
でも、保護者や生徒ばかりではなく、教師もほろっとくることがあるのも事実です。
ある同業の先輩が
「卒業のとき、生徒たちは教師を許す」
という「名言」を言ってました。
私たちが他者に権力を振るいつつ擬似的な(おままごとのような)社会=共同体を立ち上げ、その中で自らもプレーヤーとして演じきり、かつその「終了」を宣言する、などというシステムは、そうそうあるものではないのです。
そのあたりの機微を、先輩は「許す」という言葉で言ったものでしょう。
これは「許す」というより「赦す」という言葉の方がふさわしいかもしれません。
明日にだって会おうと思えば会える「別れの儀式」は、おそらく他者との別れ自体に涙を流しているわけではないのです。
上記のようなことどもの「終わり」に立ち合っていることが、集まった人たち老若男女を問わず、泣かせるのです。
泣けば素晴らしいのか、みんなが泣くのか、といえば、もちろんそんなことはありません。
でも、象徴的です。
「卒業式」という儀式はだから、教師を惑わせます。
「また担任を持ってもいいかな」
という気の迷いを起こさせる程度には、間違いなく魅力を持っているのです。
だって、どんなにしんどくても、「人と出会う場所」としての教室という「結界」の魅力は、いまだ完全に色あせてはいないのですから。
もちろん、かなりガタがきているのも事実。
もうそろそろ、十把一絡げの教育は止めた方がいいんじゃないか?
という疑問にはいろいろ留保を持ちつつも、私はイエスと答えておきます。
たぶん、「教師」としては異端でしょう。
教室でさまざまな個性が出会い、せめぎ合い、人格を陶冶することの意味は、古今東西色あせることはないでしょうけれど、今の形の学校教育が、ずっと続くとは思われないのです。
むろん制度疲労が極限近くになっていると思うのは、私自身が「制度疲労」を引き起こしているから、なのかもしれません。
でも学校を「人間形成」の魔法の箱のように考えるのは、そろそろ止めた方がいい、としみじみ思います。
何ができて、何ができないのか、誰に何を、誰が求めるシステムなのか、立ち止まって考えた方がいいんじゃないかな。
卒業式は、そういうことのための一つのきっかけにもなりえるかもしれません。
「学校ってよかった」
という感慨にだけその「すばらしさ」を閉じこめてしまうのは、もったいない限りですから。
もう一言だけ書くとすれば、学校で擬似的に経験した「公共性」は、卒業式で終わる程度の「私的」なものだ、ということでもあります。
ということは、彼らが旅立っていく「社会」もまた、「私的」なものである、という側面を持つということでもあります。
逆にいえば、「私的」なものは、「社会」につながっている、ということもでもあるのですが。
私は3.11以後、「公共的なるもの」について、ずっと考えています。
そういう意味で、学校の営みの中で、生徒たち、そして教師たちが、どうやったら、擬似制度的な共同性を「超えて」公共的なるものにアクセスできるのか、が私の唯一の主題で有り続けています。
卒業式のすばらしさを、それだけで終わらせないために、そこをもう一歩、考え続けていきたいと思っています。