龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCの応援、ソロキャンプ、それに読書、そしてコペンな日々をメモしています。

國分功一郎・中沢新一『哲学の自然』を読む(4)

2013年03月16日 14時37分31秒 | 大震災の中で
身も蓋もない言い方だが、私たちは「セシウム」の贈与を、

人為のリミットとしての「裂け目」から顔を出した「自然」によって

与えられてしまった、ということだ。

さて、この「捻れ」て「閉じ」て「開かれ」た土地に、なおも住み続けようとするときには、「自然」についての「哲学」が必要だ。

だから、この本は必読なのだと思う。すぐに役に立つかどうかは分からない。

性急に答えを求めると、人は至る所に答えを「半分だけ」発見してしまうんじゃないかな。
かといって、答えを求めること自体を諦めてしまうと、タライごと大事なものを流してしまうことになりかねない。

どう問いかけるのか。そして単純・性急に答えをだして事足れり、とはできない以上、粘り強く、適切な「問いかけ」を探して積み重ね、それを多層化しつつ、個別の生活と自然の秩序をつなぐ道筋を探していく必要があるだろう。

そういう「直観知」に至るのは簡単ではないけれど、諦めずにやっていこうと思う。
その元気をもらえる本でした。

よろしかったらぜひ一読を。




國分・中沢『哲学の自然』を読む(3)

2013年03月16日 14時23分30秒 | 大震災の中で
中沢新一は、第1回目の対談で、彼自身が立ち上げたグリーンアクティブの活動に触れた箇所で、こんなことを言っている。

「ヨーロッパのエコロジー運動は、いったん人間と自然を一度を切り離してしまってから再統合しようとする運動です。しかし日本の自然観では人間と自然は切断していない」


と述べたあとで、日本人と自然との関係を「交差(キアスム)」として捉える、のだという。

(こういうことを中沢新一がしゃらっと書いたり言ったりすると、東浩紀が「そんなジャーゴンつかって震災後に何やってんだ?!」とキレるわけですが、今時はちょっと検索かければそんなにおそろしく誤解はしないと思うし、こういうところから勉強してったっていいよね、と私は思うわけですが)

キアスムとは、「日本の大転換」によれば、


「社会というのはどこでも、具体的な人間の心のつながりでできている。社会のなかの個人は、程度の違いはあっても、けっして孤立して存在していない。さまざまな回路をとおして、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に、社会は働きをおこなおうとする。つまり、人間同士を分離するのではなく、結びつける作用が、社会には内在しているのである。このような社会の本質を、「キアスム(交差)」の構造としてとらえることがでキアスムはさまざまな人格の交差した状態をあらわしている。私の心とあなたの心に《なにかのつながりが発生している状態では、主客を分離して、あなたのことを自分にはつながりのない対象のように扱うことはできない。このとき二人の間には「縁(つながり)」が発生する。」

ということになる。

交換可能な市場経済の原理とは異なった、交換に+αが常に伴っている社会性=「縁」の関係とでも考えればとりあえずはいいだろうか。

日本人の「緑の党」はそこから、その単なる交換可能性ではなく、+α、すなわち「贈与性」をもっているというところから、話を始めようとする、というのだ。

ここのところについていえば、

「分かるけれど、福島の現実に当てはめていくと少々修正というか、別の覚悟が必要になる」

と感じる。

つまり、高度に管理され、ある意味「工業化」=「産業化」された現代の農業は、セシウムの値だって、丁寧にコントロールすることが可能だ。
つまり福島の農業だって「計算可能性」の中にあるからこそ「復興」も目指すことができる。
しかし、人類におけるエネルギーの「自立」を目指して積み立てられた原子力発電所の「成果」をセシウム飛散という形で被った福島の自然は、交換可能で制御可能なエネルギーとは全く様相の異なる「鬼っ子」のような状況を抱えこんでしまった。

単純にキアスムとか脳天気に言われても(中沢新一が脳天気だというわけではありません。「鵜呑み」にできない、という当たり前の話です)、挨拶に困る。

自然と人間を分離した上で再度統合しようという欧米のエコロジー、といっても、菌類と植物が深いレベルで共生する中では、単純な「除染」など意味をなさない。実質上今のところ、森林を除染する手だてはないといってもいいだろう。

人為と自然を分離もできないし、簡単には統合もできない、そんな場所に私たちは立っている。
さてでは、私たちが自然の秩序の中で、人為的に「やらかして」しまったその結果を受けて、それでもなお自然と人為との「交差」を生きるとしたら、どんな「生」の様態がありえるのか?

定住してきた土地を「難民」として追われて生き、あるいはその周辺に止まって生きる者どもとしての「私たち」はどんな「自然」と向き合おうとしているのか。哲学が必要とされる所以である。

この本を読むことは、そういうことを考える「前提」の共有をもたらしてくれるのではないか。

答えがあるのではない。

正確に問いを立てるために私は(私たちは)学び続け、現実に生の選択をし続けるよりほかないのだろう。



國分・中沢『哲学の自然』を読む(2)

2013年03月16日 13時38分18秒 | インポート
まず印象に残ったのは、第2章。

その一つ目。
國分氏がフランスでデリダの講義を直に聴いていたとき、脱構築の可能性と不可能性を論じていた講義の中で、

「これは自然ですから脱構築できません」

って話をした、というエピソードだ。

これは中沢氏の

「『自然』に触れている人間は常に不完全性を抱えています。そのたびに反復を強いられる。と同時にそれが構築の原動力にもなっていく。後期のハイデッガーもやはりそうで……」

という部分に対応して語られたものだが、國分氏は、このデリダの言を「思ったほど簡単なことじゃない」と受け止める。

ハイデッガーの自然論・技術論の中での話だ。


二つ目は、その少し後に國分氏が書いている箇所

「ハイデッガーが言っていたことですが、『人為と自然』という意味で対比された『自然』というのは新しい自然概念であって、もともとはそういう対立自体を包含するものが『自然(フュシス)』だった。」P130

というところに反応した。

私(Foxydog)が大震災&原発事故を指さして繰り返し

「人為の裂け目から立ち現れる自然」

というのは、そういう『自然(フュシス)』は、

「人為の裂け壊れた隙間から、痕跡として顔を覗かせる自然」<人為=≠自然>

である、と考えているからだけれど、そこにもにも通じる。

中沢氏はだいたい、最近はとくにどれもこれも「贈与」に回収して論じてしまうから、わかりやすいというかわかりにくいというか、単純にみえてややこしいことになるのだが、その中沢的高速な「独楽の回転」をときどき浅くタッチして中速まで速度を落とし、「キュイン」というかるい音とともにポイントを見せてくれる國分的「教育」の手捌きがこのあたりでも効いている、といえるだろう。

ハイデッガーの技術論は、心ある(きちんと読んでる周りの)人に聞くと、だいたい評判が悪い。
あれは現代には対応できない限界があるとか、さほど深く考えているものじゃないとか。

まあ、國分氏も繰り返し指摘するように、結局「農民=風車」が到着点かよ!?と突っ込むことは簡単だ。

でも、私はハイデッガーの短い講演原稿『放下』を読んだとき、鳥肌が立ち、まるでこれはハイデッガーが原発事故後の福島に来て講演したかのような話じゃないか、と感じたことを忘れることができない。

去年の暮れごろ、ハイデッガーの技術論二本

「原子力時代と『人間喪失』」(河出「道の手帖『ハイデッガー』所収)
「技術にへの問い」平凡社

を読んでいたところ、Twitterで國分センセが「今、『放下』を読んでいます」と書いてあったのをみて、急いで入手して読んでみたのだが、これが「すげえ」って感じだった。

後半アンビバレントな技術に対する態度を「放下」「密旨への開け」とか言い出したとたんに「密教的」な感じでよく分からなくなったのだが(それはそんなに難しく考えなくていいよ、と國分センセにあとで助言をもらいました)、前半は特に、びびびびっくりするほど私たちの今とシンクロしていた。

ざっくり言えば、技術はもともと自然の中にあったものを押し広げるものだ、というのです。
で、農業とか風車とかぐらいだったらいいのだけれど、技術は石炭とか石油とか、自然からエネルギーを徴発して利用しようとし、結果人間はそこに立たされ坊主のようになって、「計算可能性」の枠内でだけ物事を考えるようになってしまった。
しかし、自分たちで制御できる以上のエネルギーすなわち原子力を技術開発していくことは、原子爆弾によって直接人の命を奪うことよりも大変なことを招く。

それは人間の究極の思考停止だ、というのです。

すごいでしょう。1950年代に、原子力の平和利用について、これだけのことを言っていた人はいない。

「エチカ福島」の第1回でも引用(というよりは垂れ流し配布)しましたが、

だから、「熟慮」しろ、技術をぜんぜん使わないわけにはもういかないのだから、距離を取り、熟慮し、いつでも手をはなせるようにしながら行為しろ、さもないと「計算可能性」のあることばかり考えて実質的思考停止に陥り、その技術によるエネルギー調達の自己目的的ループにとらわれてしまうぞ!

という警告になっている。

結論部分は、「新たな土着性」は芸術によって承認されている、みたいな例によって意味の分からないレトリックで終了するんですがね(苦笑)。

この、技術に「とりさらわれている」っていうハイデッガーのこの指摘は、60年経っても重要。

中沢・國分両氏がここから「自然哲学」についての論を展開していることに、私は共鳴しつつ、意を強くしました。

ある意味、安富歩さんの「東大話法」(なんで「東大」?というのは未だに疑問ですが、まあ、安富さんは「やっちまう系」の中でも「凄腕」だからね)とも、「計算可能性」の枠内に取り攫(さら)われてしまった思考に対する批判と言う意味では通底している。

そこから「エチカ」にたどり着くためには、スピノザの話にいかねばならないのですが、それはまた今日のスピノザ講座のあとで。