龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

國分×中沢『哲学の自然』を読む(1)

2013年03月15日 13時03分02秒 | インポート
『哲学の自然』を読む(1)

これから、じっくりとこの本を読んでいくつもりなのだが、これは本当におもしろい対談だ。

中沢新一という希有な「才能」が、國分功一郎という「読み手」を得て、より広い場所に通じるよう「変換」されていく様子が見て取れる。

できれば、中沢新一の近著『日本の大転換』を併せて読まれたい。

そうすると國分功一郎という読み手の持つ「力能」が遺憾なく発揮されている様子がよりよく分かるのではないかと思う。

(興味のある方は、國分功一郎氏と東浩紀氏がニコ生で対談している動画も併せて見るとさらにおもしろさが倍増する、と思う)

中沢新一は、大震災と原発事故以後、積極的に発信している人類学者・哲学者である。

その受け取るべき最良の部分を、國分功一郎は極めて的確に指し示してくれている。

序文に「用心深く」書いてあるように、國分功一郎氏は中沢新一氏の空中の戦のような「議論」をそのまま鵜呑みにはしないよ、と信号を出してもいる。

それを、「処世術」か「社交」としてだけ(そういう面もあるかもしれないけれど)読んでしまうと、この本の魅力を半減させてしまうのではないか。

國分功一郎の玉の拾い方は、かなりの芸域に到達していると思う。

(嘘だと思う方は、柄谷行人との対談、あるいは前述の東浩紀との対談を併せて参照されたし)

それは兼ねてからここで書いているように、國分功一郎氏の「教育的」なスタンスとでもいうべき姿勢に関わっていると思われる。

哲学や歴史の専門家が見ると飛び上がるようなことを平気で「ゴロン」と提出する柄谷行人や中沢新一の「芸風」は、確信犯的であり、一見ある種の「イデア」をまず提示する空中戦の身振り、とも見える。

だが、國分功一郎氏はそのボールの拾い方を指し示してくれるのだ。

確信犯と、専門家のすれ違いなら、見慣れた光景だ。

他方、逆に確信犯だからこそファンもつくというのも分かりやすい。

だが、そういう素人めいたファンとプロパーの間に飛んだボールを、今までだれも拾ってこなかった。
哲学の専門家で、そのボールを拾えるのは、今、國分功一郎氏を措いてほかにあるまいって感じすらある。

対談本は読み流して終わるのが普通だけど、この本はゆっくりアイディアの卵を暖めながら読み直す価値がありそうだ。

とりあえず一読後の印象でした。詳細は後刻。


時短のこと

2013年03月15日 06時09分27秒 | 大震災の中で

日経ビジネスのコラム

育休フィーバーの影で犠牲を強いられる“正直者”たちの鬱屈
「働き方の多様化」では済まされない取得者たちの軽さ
河合 薫

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120229/229264/?P=1

という記事を読んで考えさせられてしまった。
今自分の職場でも同じようなことが起こっている。
ということはおそらく、いたるところで起こっているかもしれない。

こういうことを書くと各々大変な事情を抱えた人に申し訳ことになりかねないのだが、当然いいたいのはそういう個別的なことでは全くない。

ただ、現状では、時短、家庭の事情、あるいは他の職場からの引き抜き、病気休暇、介護などなど、様々な問題で、職場が今までのようには回らなくなっている。

繰り返すが、例えば育児のための勤務時間短縮を取得することや人、が問題なのではない。
仕事の量も質も方法も変わらないままその制度だけが運用されてしまうと、現場には「仕事」だけが残されることになることが問題なのだ。

ワークライフバランス、というのは、休暇が取れる人にとってだけのものではないはず。安心して休暇が取れる仕組みとは、そのまま誰かが仕事を増やす、ということであってはならないだろう。
無能なマネージメントの中で進んでいく単なる病気休暇や育児休暇、介護休暇の取得は、残されたものの負担増で終わる。

人を増やすか仕事を減らすか。

その二つが単純にできないのであれば、マネージャーが知恵を絞って仕事の質を変えていかねばなるまい。ことは休暇取得者、残された職場の者、管理職みんなの問題なのだから。
もし、「みんなの問題」でなくなってしまうと、立ち去り型のサボタージュが起こるか、もしくは休暇取得者への理不尽なルサンチマンが渦巻くことになりかねない。

権利は権力でもある。職場の人間関係の中でその権力行使がなされるとき、関係は否応無く変化していく。
それをどう、コントロールするのか。

それは実は仕事における「交換可能性」の問題でもある。

仕事ってなんだろう、と改めて考えさせられる。
家庭ってなんだろう、改めて考えさせられる。
ちと大げさにいえば、オレってなんだろう、とも。

新しい働き方、を考えねばなるまい。私にとっては老後への準備期間がそれに当たる。だとすれば、昔の仕事からは、みんなが少しづつ「立ち去る」ことが必要なもしれない。

仕事は、やることよりもやめることの方が怖い。

でも、そろそろそういう文脈から離れることも必要。

難しいな。