『哲学の自然』を読む(1)
これから、じっくりとこの本を読んでいくつもりなのだが、これは本当におもしろい対談だ。
中沢新一という希有な「才能」が、國分功一郎という「読み手」を得て、より広い場所に通じるよう「変換」されていく様子が見て取れる。
できれば、中沢新一の近著『日本の大転換』を併せて読まれたい。
そうすると國分功一郎という読み手の持つ「力能」が遺憾なく発揮されている様子がよりよく分かるのではないかと思う。
(興味のある方は、國分功一郎氏と東浩紀氏がニコ生で対談している動画も併せて見るとさらにおもしろさが倍増する、と思う)
中沢新一は、大震災と原発事故以後、積極的に発信している人類学者・哲学者である。
その受け取るべき最良の部分を、國分功一郎は極めて的確に指し示してくれている。
序文に「用心深く」書いてあるように、國分功一郎氏は中沢新一氏の空中の戦のような「議論」をそのまま鵜呑みにはしないよ、と信号を出してもいる。
それを、「処世術」か「社交」としてだけ(そういう面もあるかもしれないけれど)読んでしまうと、この本の魅力を半減させてしまうのではないか。
國分功一郎の玉の拾い方は、かなりの芸域に到達していると思う。
(嘘だと思う方は、柄谷行人との対談、あるいは前述の東浩紀との対談を併せて参照されたし)
それは兼ねてからここで書いているように、國分功一郎氏の「教育的」なスタンスとでもいうべき姿勢に関わっていると思われる。
哲学や歴史の専門家が見ると飛び上がるようなことを平気で「ゴロン」と提出する柄谷行人や中沢新一の「芸風」は、確信犯的であり、一見ある種の「イデア」をまず提示する空中戦の身振り、とも見える。
だが、國分功一郎氏はそのボールの拾い方を指し示してくれるのだ。
確信犯と、専門家のすれ違いなら、見慣れた光景だ。
他方、逆に確信犯だからこそファンもつくというのも分かりやすい。
だが、そういう素人めいたファンとプロパーの間に飛んだボールを、今までだれも拾ってこなかった。
哲学の専門家で、そのボールを拾えるのは、今、國分功一郎氏を措いてほかにあるまいって感じすらある。
対談本は読み流して終わるのが普通だけど、この本はゆっくりアイディアの卵を暖めながら読み直す価値がありそうだ。
とりあえず一読後の印象でした。詳細は後刻。
これから、じっくりとこの本を読んでいくつもりなのだが、これは本当におもしろい対談だ。
中沢新一という希有な「才能」が、國分功一郎という「読み手」を得て、より広い場所に通じるよう「変換」されていく様子が見て取れる。
できれば、中沢新一の近著『日本の大転換』を併せて読まれたい。
そうすると國分功一郎という読み手の持つ「力能」が遺憾なく発揮されている様子がよりよく分かるのではないかと思う。
(興味のある方は、國分功一郎氏と東浩紀氏がニコ生で対談している動画も併せて見るとさらにおもしろさが倍増する、と思う)
中沢新一は、大震災と原発事故以後、積極的に発信している人類学者・哲学者である。
その受け取るべき最良の部分を、國分功一郎は極めて的確に指し示してくれている。
序文に「用心深く」書いてあるように、國分功一郎氏は中沢新一氏の空中の戦のような「議論」をそのまま鵜呑みにはしないよ、と信号を出してもいる。
それを、「処世術」か「社交」としてだけ(そういう面もあるかもしれないけれど)読んでしまうと、この本の魅力を半減させてしまうのではないか。
國分功一郎の玉の拾い方は、かなりの芸域に到達していると思う。
(嘘だと思う方は、柄谷行人との対談、あるいは前述の東浩紀との対談を併せて参照されたし)
それは兼ねてからここで書いているように、國分功一郎氏の「教育的」なスタンスとでもいうべき姿勢に関わっていると思われる。
哲学や歴史の専門家が見ると飛び上がるようなことを平気で「ゴロン」と提出する柄谷行人や中沢新一の「芸風」は、確信犯的であり、一見ある種の「イデア」をまず提示する空中戦の身振り、とも見える。
だが、國分功一郎氏はそのボールの拾い方を指し示してくれるのだ。
確信犯と、専門家のすれ違いなら、見慣れた光景だ。
他方、逆に確信犯だからこそファンもつくというのも分かりやすい。
だが、そういう素人めいたファンとプロパーの間に飛んだボールを、今までだれも拾ってこなかった。
哲学の専門家で、そのボールを拾えるのは、今、國分功一郎氏を措いてほかにあるまいって感じすらある。
対談本は読み流して終わるのが普通だけど、この本はゆっくりアイディアの卵を暖めながら読み直す価値がありそうだ。
とりあえず一読後の印象でした。詳細は後刻。