龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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平田オリザコメント(いわき市の実情を描いたディスカッション演劇プログラム)

2015年03月04日 13時19分28秒 | 大震災の中で
平田オリザプロデュースの、演劇プログラムの公演を観に行ってきた。

NHK未来塾の公演 
~いわき市の実情を描いたディスカッション演劇~
2015.03.02於:いわき総合高校 演劇2本とトークセッション



いろいろ考えさせられた、といえばそれで終わってしまいそうだが、ちょっとだけ粘って思考の軌跡を記録しておきたい。
まず、記憶を頼りに平田オリザさんのコメントの意図を再現してみます(そのままじゃありません。あくまでメモ程度です。あしからず)

☆平田さんのコメント1

もっとオブラートに包まずに描いてほしい、最後に方向性(希望)を出してほしい、お金を取る芝居として考えるとどうなるのか、などの意見や質問を踏まえてのお話。




まず最初に「彼らにはテーマは設定しなくていい」と言ってある。
芝居を実際見たのがはじめてというかたも多くいると思うが、これは、基本的になにかこちらでメッセージがあってそれを伝えてみなさんに納得してもらうものではなく、考えるきっかけにしたり、帰り道にあれはこうだったんじゃないか、などとと議論してもらうためのもの。

今回やってきたのは、ある一定期間内に10分とか15分ぐらいのお芝居をチームで作るという大学生とか、演劇を志す人たちのためのプログラム。

これはその作る過程自体に意味がある。

お金を取ってやるものではない。
お金をとってやるなら、一人で書いて一人で演出した方がクオリティは上がる。

このプログラムはそうではない。
創作の過程でみんながものすごく苦しんで、しかも演劇というのは一定時間経つと幕が上がってしまう、本番が始まる、それまでにできる最善の答えを出して行かなければならない、それを体験するもの。
これはある意味では、芝居を一緒に見たみなさんが今ここでやっているこの話し合いと同じことだ。

それをを作る過程でやってきたわけ。
だからたぶんみなさんにとってもリアルに感じてもらえたのではないか。

このプログラム自体に意味があるので、できたものをお金を取るということではない。

もう一つ答えとしては、ずーっと彼らに言ってきたことだが、プロの作品だったらば、もっと冷酷に、もっと冷静に福島とかいわきとか双葉郡とかの現状に向き合ってもっと意地悪にならないといけない。

それは大変なことで、それは芸術家が一人でやる作業。
それはまたちょっと別のものと考えた方がいい。

☆平田さんのコメント2

演劇それ自体というより、観客を巻き込んで対話する空間になっている。それは意図したことだろうが、どういう意図なのか、という質問に対して、




もちろん、最初からそういう意図でやっている。
これは教育プログラムで、大阪大学の授業で実施しているもの。
(欧米などの大学では)演劇をやっていない人を対象にやっているプログラムでもある。

もう少し解説をしておくと、ドラマと言うのは全員が同じ行動をとってはドラマにならない。
たとえばここで誰か一人が急病で倒れたとする。

みなさんどうしますか?

だいたい救急車呼ぶかなにか事件性があれば警察を呼とか、するだろう

隠すっていう人はいない。「もう絶対これ隠す」とかね。それはおそらく、ない。
もし隠すなら、隠すなりの事情がないといけない。

だから、何か事件が起こったからドラマになるというわけではない。

ある事件が起きたときに、共同体の中で、いろんな人がいて、いろんな人がバラバラな意見になるような事件が起きないとダメ。

(授業などでは)よく忠臣蔵に例える。

忠臣蔵の時、赤穂藩には300人ぐらい侍がいた。
関ヶ原からもう100年、完全にサラリーマン化している。

だからそこではずっとおしゃべりばっかりしていた。小さな藩の中で。

このおしゃべりをは、カンバセーション=会話という。
会話ばっかりしてた。
会話だけだとお芝居にならない。

ところが、ある時藩が潰される、という大きな運命に全員が直面する。
そのときにみんな自分でも思ってもいなかった価値観が表にあらわれることになる。

「殿が死んだから切腹だ」
「城に立て籠もる」
「討ち入りだ」
「いやちょっとうちは家族がいるからお金をもらって再就職する」
ETC.
いろんな意見が出ることによって、会話から対話=ダイアローグが起ってくる。

演劇には、対話が起こることが必要。

要するに演劇というのは作る過程においても、作品においても、ダイアローグ(対話)っていうものがどうしても必要になってくる。

そのダイアローグの手法を学んでもらうことが、演劇のプログラムとしての一番のポイント。

もうここまで聞いていただければおわかりのように、福島県、とくに相双地区はまさにそういう大きな運命、しかも価値観はものすごく分かれちゃうような事態に直面した。

だれも、あの原発があの状態になって、しかも微妙な状況。

(不謹慎な話かもしれないが)仮にもっとチェルノブイリみたいな大惨事だったら、みんな逃げる。
だが、今福島が抱えている問題は「よく分からない」。
みんなちょっとずつ違う。

住んでいる場所が500メートル違うだけで受け取るお金が全然違う。

津波で家が流された人と原発で避難した人とのお金が全然違う。

そんなことが起こると、誰も日本人の誰一人考えていなかった。
それが起こったわけです。

イスカンダルからヤマトが放射能除去装置を持ってきてはくれない。簡単な解決はない。

だからこそ、今もずっとみなさんは対話せざるを得ない状態が続いているということ。


(今回演劇をつくってくれたメンバーは)高校生もいるが、大学の学生たちが中心。ですが、これから福島を背負っていかないといけない学生たちだ。
彼らに一番必要なのは、対話力だろう。

はっきりした答えは出ないんだけれども、いろんな価値観を持った人が集まって、一定期間内に何か結論を出していかなければならない。そして前に進んでいかなければならない。そういう時に、今日やったような対話力をつけるプログラムが有効だと思います。

ちなみに、ふたば未来学園で、この四月から一年生からこのプログラムをほぼ毎週やらせていただく。

(以上、平田オリザさんのコメントまとめ)