別のところに書いた原稿がボツになったので、こちらに上げておきます。
知り合って3年半。その間何度会っただろうか。
決して長くもなければそんなに親しくもなかったはずなのに、彼がガンで亡くなったことを知ったとき、古くからの友人を喪ったような深い喪失感に襲われるのを止めることができなかった。
人にはそういう不思議な出会いがある。そんなことを教えてくれたのが、彼だったのだ。
以下、その原稿です。
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「日々の新聞」1月15日号で追悼記事が掲載された渡邊新二さんのことをもう少し書いておきたい。
彼のお通夜に九州から弔辞が届いた。そこには、渡邊さん自身が死の直前であるにもかかわらず、遠くにいる友人を気遣い、自分の病状を伝えるかどうか逡巡しつつもついに言葉にしないまま終わった、というエピソードが綴られていた。細やかな感性・感情を持ち、同時に理性的に振る舞おうと努めるその姿勢は、ワーグナーを聴きながら穏やかに最期を迎えたという追悼記事にも重なるものだった。
私がどうしてもそこに付け加えておきたいのは、渡邊さんの「直観」についてである。
17世紀の哲学者スピノザは、人間の認識を3つに分けて論じている。まず感情による第一種認識を挙げ、これは概ね偏見を招くと述べる。次に理性に基づく第二種認識があるといい、当然感情よりこ理性の方を重視する。だが注目すべきは、理性が一番ではなく、その先に第三種認識として「直観」を挙げている点だ。それは第一印象に依る直感とは違う。自然の摂理と響き合って全てを一挙に的確に捉え、それを自ら至福として楽しむことのできる認識こそが「直観」だとスピノザはいう。
仕事でお世話になって以来時々お会いする機会があったのだが、渡邊さんはいつも楽しげに政治・経済・文学・科学などの話題を縦横無尽に語り、倦むことがなかった。シャイで小さめな声とはうらはらの、美しい音楽にも似た明晰な言説を聞くたび「これがスピノザの『直観』か」と私は一人で納得していた。
できれば一度スピノザについてゆっくり話がしたかった。彼の知性から溢れ出てくるクリアな観念の連鎖は、「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」というスピノザの主著『エチカ』の結語を彷彿とさせる。そこには何者にも隷属しない精神の自由が確かに存在していた。ご冥福をお祈りしつつ、彼の「精神」は「永遠の相の下で」常に私たちと共にあることを心に刻んでおかねばならない。
そんな風に思った。
最後に彼と話をしたのは、去年の初夏のころだっただろうか。
私の家族にガンが見つかって、セカンドオピニオンの取り方や、今後のこと、がんセンターについて、などを新二さんに教えてもらった。
ガンに関するアメリカの最新論文などにも目を通し、柏のがんセンターに通いつつ、その治療の詳細や治験薬についても相当調べて詳しく知っている様子だった。そのときはやはり二時間ほどしゃべっただろうか。淡々と、しかし淀みなく途切れずに圧倒的な知識が溢れてくる、穏やかな話しぶりは変わりがなかった。
「新しい世代の治療薬は、根絶するというより、押さえながら生活の質を高めるという性質だね。ただ、いつまでも効いているというわけでもないんだよ。あるときに効かなくなると、爆発的に増殖することもある。だから、そうなるとそこでまた別の薬を考えなければならないのかな……。色つやがいい?そう、消化器系じゃなければガンもそんなにやせたりしないんだよね。」
最後の会話の内容が、病気のことだったのが残念だ。もっといろいろな話題を聞いてみたかった。
第一、彼の人生がどれほど波乱に満ちたものだったのか、まだアメリカ留学でMBAを取得し、ドイツの大学で政治学を学びつつフランスにも「留学」したところまでしか聞いていない。
葬儀の夜、地元のバイウィークリー紙「日々の新聞」に渡邊新二追悼記事が掲載され、それがテーブルに置かれてあった。
その記事はこちら「鎮魂歌(レクイエム)」。
帰国してから司法書士の資格をとり、市議になってから県議に挑戦した、そのあたりのことを聞けなかったのも心残りだ。政治を語るときのさりげない語り口と、それでも生き生きした雰囲気が彼の「力能(りきのう)」をもっともよく示していたと感じられただけに。
病室でワーグナーを大音量でかけて、周りの人がちょっと困った、という話も聞いたが、彼らしい話だ。
きっと、「普通の人」からみたら「頭の良い変な人」だったのかもしれない、と思う。彼ほどの頭脳はあいにく持ち合わせていないが、他人事には思えないところがある。これからも
「彼ならこの事象をどう考えるのかな」
とつい思い浮かべてしまう、そんな種類の人だ。
もっと早く会いたかった。
もっと話をしたかった。
大切な人のことは、誰でもそう思うのかもしれないけれど、特別な意味を持つ友人であり先輩だった。
新二さんは別にそんなことを意に介さないのかもしれないけれど。
知り合って3年半。その間何度会っただろうか。
決して長くもなければそんなに親しくもなかったはずなのに、彼がガンで亡くなったことを知ったとき、古くからの友人を喪ったような深い喪失感に襲われるのを止めることができなかった。
人にはそういう不思議な出会いがある。そんなことを教えてくれたのが、彼だったのだ。
以下、その原稿です。
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「日々の新聞」1月15日号で追悼記事が掲載された渡邊新二さんのことをもう少し書いておきたい。
彼のお通夜に九州から弔辞が届いた。そこには、渡邊さん自身が死の直前であるにもかかわらず、遠くにいる友人を気遣い、自分の病状を伝えるかどうか逡巡しつつもついに言葉にしないまま終わった、というエピソードが綴られていた。細やかな感性・感情を持ち、同時に理性的に振る舞おうと努めるその姿勢は、ワーグナーを聴きながら穏やかに最期を迎えたという追悼記事にも重なるものだった。
私がどうしてもそこに付け加えておきたいのは、渡邊さんの「直観」についてである。
17世紀の哲学者スピノザは、人間の認識を3つに分けて論じている。まず感情による第一種認識を挙げ、これは概ね偏見を招くと述べる。次に理性に基づく第二種認識があるといい、当然感情よりこ理性の方を重視する。だが注目すべきは、理性が一番ではなく、その先に第三種認識として「直観」を挙げている点だ。それは第一印象に依る直感とは違う。自然の摂理と響き合って全てを一挙に的確に捉え、それを自ら至福として楽しむことのできる認識こそが「直観」だとスピノザはいう。
仕事でお世話になって以来時々お会いする機会があったのだが、渡邊さんはいつも楽しげに政治・経済・文学・科学などの話題を縦横無尽に語り、倦むことがなかった。シャイで小さめな声とはうらはらの、美しい音楽にも似た明晰な言説を聞くたび「これがスピノザの『直観』か」と私は一人で納得していた。
できれば一度スピノザについてゆっくり話がしたかった。彼の知性から溢れ出てくるクリアな観念の連鎖は、「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」というスピノザの主著『エチカ』の結語を彷彿とさせる。そこには何者にも隷属しない精神の自由が確かに存在していた。ご冥福をお祈りしつつ、彼の「精神」は「永遠の相の下で」常に私たちと共にあることを心に刻んでおかねばならない。
そんな風に思った。
最後に彼と話をしたのは、去年の初夏のころだっただろうか。
私の家族にガンが見つかって、セカンドオピニオンの取り方や、今後のこと、がんセンターについて、などを新二さんに教えてもらった。
ガンに関するアメリカの最新論文などにも目を通し、柏のがんセンターに通いつつ、その治療の詳細や治験薬についても相当調べて詳しく知っている様子だった。そのときはやはり二時間ほどしゃべっただろうか。淡々と、しかし淀みなく途切れずに圧倒的な知識が溢れてくる、穏やかな話しぶりは変わりがなかった。
「新しい世代の治療薬は、根絶するというより、押さえながら生活の質を高めるという性質だね。ただ、いつまでも効いているというわけでもないんだよ。あるときに効かなくなると、爆発的に増殖することもある。だから、そうなるとそこでまた別の薬を考えなければならないのかな……。色つやがいい?そう、消化器系じゃなければガンもそんなにやせたりしないんだよね。」
最後の会話の内容が、病気のことだったのが残念だ。もっといろいろな話題を聞いてみたかった。
第一、彼の人生がどれほど波乱に満ちたものだったのか、まだアメリカ留学でMBAを取得し、ドイツの大学で政治学を学びつつフランスにも「留学」したところまでしか聞いていない。
葬儀の夜、地元のバイウィークリー紙「日々の新聞」に渡邊新二追悼記事が掲載され、それがテーブルに置かれてあった。
その記事はこちら「鎮魂歌(レクイエム)」。
帰国してから司法書士の資格をとり、市議になってから県議に挑戦した、そのあたりのことを聞けなかったのも心残りだ。政治を語るときのさりげない語り口と、それでも生き生きした雰囲気が彼の「力能(りきのう)」をもっともよく示していたと感じられただけに。
病室でワーグナーを大音量でかけて、周りの人がちょっと困った、という話も聞いたが、彼らしい話だ。
きっと、「普通の人」からみたら「頭の良い変な人」だったのかもしれない、と思う。彼ほどの頭脳はあいにく持ち合わせていないが、他人事には思えないところがある。これからも
「彼ならこの事象をどう考えるのかな」
とつい思い浮かべてしまう、そんな種類の人だ。
もっと早く会いたかった。
もっと話をしたかった。
大切な人のことは、誰でもそう思うのかもしれないけれど、特別な意味を持つ友人であり先輩だった。
新二さんは別にそんなことを意に介さないのかもしれないけれど。