これも、ブログの引っ越しで読めなくなってしまったので再掲載します。
これは三年前の対談なのかな?でも、この二人とドゥルーズに関心があるかたには便利かと。
もちろん間違いだらけの私的メモです。くれぐれも念の為。
『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』(1)イントロダクション
2012/03/19 23:50:00
イントロダクション3/17新宿朝日カルチャーセンターで行われた講座の受講メモです。内容は必ずしも保証できません。あくまで忘備録的メモとして。
1,國分氏によるイントロダクション-------------------------國分氏千葉氏は1月に博士論文を東大に提出したばかり。國分氏は『思想』にドゥルーズ論を連載中(第2回が5月号掲載予定?) ドゥルーズは1925年フランス生まれ。50年代~60年代に有名になり、世界中でポストモダン(ポスト構造主義)の一派と呼ばれていた。 日本での紹介は浅田彰の『逃走論』。それは間違いなく社会現象であり、デファクトスタンダード(千葉)でもある。 その中の今村仁司と浅田彰の対談を見ても、当時としては(軽やかな側面を強調した嫌いはあるにしても)なかなかの水準の紹介だったと評価すべき、とざっくりとした確認。 つぎに、映画を見たい。
「アベセデール・デ・ドゥルーズ」
(アルテチャンネルという仏の放送局で放送→ビデオ化→2004にDVD化)
アルファベット=単語を提示されて、それについて答える形式。以下ドゥルーズの語りを國分氏が同時訳。ドゥルーズ「ふだんはこういうこと(準備をあまりせずにインタをうけること)はしない。救いはこのインタは封印され、死後にのみ公開されることだ。アーカイブになったようなものだ。純粋な精神になってしまったようなものだ」
A animal(動物)インタビュアー「ペットは嫌いですよね。ノミ・ダニばっかり話してますよね」「イヌよりネコの方がいいっていってますよね。」ドゥルーズ「(省略)→この部分はYouTubeにあるので、アベセデール・デ・ドゥルーズで検索を」
B boisson(飲み物)インタビュアー「よく飲みましたよね。そして止めましたよね」ドゥルーズ「アル中だった。飲むって量の問題なんだ。(食べ物は量の問題ではない)。よく人はアル中を馬鹿にする。『止められるよといいつつやりつづけていて飲み続ける。意味が分からない』と。(だが)飲んでいるときに人がたどりつきたいと思っているのは最後の一杯なんだ。そこにたどりつくためにあらゆることをするってことなんだ。」
○國分氏(解説) ここにはよくドゥルーズのありようが現れている。ここに沈潜しているということ。ドゥルーズは欲望を重視していた。にもかかわらず最後の一杯にたどり着きたいのだ。
C culture(文化)インタビュアー「あなたは教育がない人間だといってますね。仕事に役立つためでしかないといっていますね。他方毎土曜には展覧会・映画に行って努力している。それはプチパラドクスですね」ドゥルーズ「私はインテリが嫌いだ。教養あるものと出会うとすくみおびえてしまう。こわい。いやだ。知識人ってのはなんでも知っている。で、なぜ自分が『教養がない』というかというと、知識の蓄えがないからだ。発表しないものは何もない。どんなことを勉強するときも、何かこれこれのために、と勉強しているんだ。そして全部忘れてしまう。6年10年後にまたやろうとすると楽しいんだけど、忘れている。例外はあって、スピノザは暗記してる。けど、それは例外。 知識人はしゃべってるばっかで、きたない。書くことはキレイだ。 自分は確かに映画を観たり展覧会にいったりする。 私は待ち構えている。動物が獲物を待ち構えるように。自分は出会いを待っている。人ではない。人と会うと失望する。」
○國分氏(解説) モノと出会うということをプラティック(実践)としてドゥルーズは持っていた。 ドゥルーズは晩年フーコーとのやりとりで、フーコーが快楽を言うのに対して、それは中断だからダメだという。ドゥルーズは欲望をプロセスとしてとらえ、獲物を待ち構える契機を大切にしていた。 これが大事だと思う。 たしかに「ガタリ」との出会いはありますね。 でも、二人は会って話さない。 ガタリがドゥルーズに手紙を出し、その手紙をドゥルーズが読む。そして書く。 つまり、ドゥルーズは「ガタリになって」書いているのでは?(國分氏の仮説) 「書く」ことが(によって?)生成変化を求めることになっている。欲望のプロセスを作動してくれるものを待つ。(以上、國分氏の映画紹介)この項続きます。
『様々なドゥルーズ 対談:國分功一郎×千葉雅也』講座メモ(2)
2012/03/20 06:44:00
2,展開(動かないドゥルーズ)
千葉(國分さんのドゥルーズは)ドゥルーズ単独の印象がある。
(かつて日本で受容されたドゥルーズの印象は)「ドゥルーズ=ガタリ」ユニットへの印象で、それ(國分さんのドゥルーズ)とは違う。
浅田彰が紹介したのはガタリが「入って」いる。ガタリはいわゆる「活動家」(政治的?と言う意味か foxydog注)。あちこち飛び回り権力を渡り歩いて展開していくタイプ。
國分「ドゥルーズはある種の独我論者だ」って浅田はいっている。
千葉 ドゥルーズは動かない。受動的、依存症、アディクション。そのことも含めて、80年代に(既に)捉えられていた(そういう意味でも浅田彰は時代を抜いていた)。しかし一方では、ドゥルーズは独特の耽美主義に陥る、ドゥルーズ=ガタリは生産的だ、という評価もあった。
(浅田彰がそう評価している、ということか?ちょっと不明foxydog注)。
数年前、國分さんと行ったシンポジウム「ドゥルーズの逆説的保守主義」でもそういう話が出たが、ドゥルーズがベケット論で指摘している「尽き果ててしまう、消尽してしまう」という批評表現のような側面が、ドゥルーズにもある。(そして実は)ドゥルーズ=ガタリのいわゆる躁状態の中にも、ドゥルーズの「だらけた身体」がある。「器官なき身体」とのかかわりがある。ドゥルーズは肺が悪かった。抗生物質耐性菌に罹患していた、いわゆる「結核の思想家」である。68年~69年にかけて博士論文の審査の時期に片肺摘出の手術を受けている。そのため、博士論文の審査は厳しく追及されなかった。時代が時代だから、いつ中断されるかも分からなかった(学生運動の季節だったため)ということもあったかもしれないが(笑)。身体が思うように動かない。意志や意図を持って身体を操作するのではなく、その統御(オーガナイズ=組織化)をはずれる。それは共通感覚の失調をもたらす。ドゥルーズは「欠如」より「疲労」に興味がある。だるーくなっていく。どちらかといえば(彼の言説は)鬱質の話ではないか。沈殿に逆説的クリエイティヴィティを見いだす、というような。
國分 ドゥルーズは「非主意主義」(ショウペンハウエルとは対極)。むしろ出会いによって自分の中から発動する。芸術至上主義的、詩的に構築するという意味ではアドルノ的では?ドゥルーズの独我論は自我もない。ちょうど「無人島」(ドゥルーズ自身の比喩?)にいると他者がいない、という意味で。他者を想定するからモノや世界がある、といえる。「自己が想定できる対象」を想定することができなくなると、自我もありえないし、主体もありえない。その結果、無人島にいる→無人島になる=自我なきBodyすなわち「器官なき身体」!(つまり)他者がいなくなると自我が島と一体化する。ドゥルーズはまた、自分の子供の頃のことを出発点としない。(子供の頃こういうことがあったから、的な精神分析的トラウマをエンジンにしないということか?foxydog)ドゥルーズの出発点は22、3歳の頃のディビッド・ヒューム論。ヒュームは一般には保守主義者と見なされているが、そこにラディカルなものをみていたヒューム、をドゥルーズは論じている。(この辺り、國分さんの連載中のドゥルーズ論のポイントの一つである「自由間接話法」との具体例としての関連も聞きたかったが聞けませんでしたfoxydog)ドゥルーズの「いかにして精神が主体になるかだ」という指摘。精神は観念のまとまり・あつまりであり、それがシステム化したとき初めて主体が生じるのだ。デカルトのコギトはそこで志向が止まっている。しかしヒュームはむしろ突き詰めてラディカルに考え抜く「経験論」だった。経験→習慣→主体の生成つまり、ドゥルーズは保守主義をラディカルに読み直した。
千葉
点で考える→デカルト
線の中間で考える→ヒューム<自己の統一性はいつ解体するか分からない>ラディカルに世界を不安定化させている。
かつての日本におけるドゥルーズ受容(浅田彰『逃走論』の「スキゾ・キッズ」)は、大まかに言うと
国家・社会・世間=パラノイアック
個人=スキゾフレニック
という図式の上で既存権力から逃げ延びて敵の権力にはまらずかってな動きをすればいいだった。これは言ってしまえば個人主義のススメ、賢い消費者のススメだった。そこでのポピュラーなドゥルーズ像は
1,世間VS個人を前提にしている。まあ、これはこれで間違っちゃいないが。しかしそれだけではない。
2,1での個人はちゃんとしている。でも、ドゥルーズは身体が動かない。 「脱領土化」・「脱中心化」というキーワード。
1の「世間→個人の逃走」は分かりやすく健康。一方、2の自分自身(私・自我)からの逃走はある種の自己破壊。つまり自己解体の契機をはらんでいる。この1と2は不可分であるとドゥルーズ=ガタリはいう。このヤバサ。self-destruction.役割分担と自己が認識することはペアになっている。世間や社会、世界がなければ、自己が世界や社会を認識することもできない、という意味で。芸術とは、それを崩すこと。「向かっていく」がやりすぎちゃまずい、と(ドゥルーズ=ガタリは)言っている。
「(変化は?)ハンマーでめった打ちするような仕方ではなく、やすりをかけるように、でなければならない。」
ここが魅力的なレトリックだと私(千葉)は考えている。人生訓的な「度合いに気をつけろ」ドゥルーズの直観には、そういうことがある。やりすぎはいかん、と。「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはならない」手前での踏みとどまりということ。☆「動き」とは自己・自我から離れて他人に憑依するようなこと。
國分(でもそれは)どちらかというと、そのバランス感覚はドゥルーズ=ガタリの方じゃない?マゾッホとサドの超越論的探求「ここでやめたいというところでやめてはいけない」ってフロイト読解でしょ?欲望というものは止めてはいけなくて、中断しない……
千葉ちがう。 超越論的探求には二つある。サド→死=止まらないマゾ→宙づり=微妙サド=フロイトでやっちまう、止められない。でもそれだけじゃないという話。快楽になるとはじけちゃうからダメだっていうこと。宙吊り=やりすぎないことが必要。性急に快楽を求めてはいけない。
國分そうか。分かった。フーコーはハードSM(だしまくり哲学)ドゥルーズはソフトSM(寸止めの哲学)なんだ!(ということで前半1時間終了)この項つづく。※
『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』講座メモ(3)
2012/03/20 09:42:00
3,千葉雅也氏の博士論文より
千葉 動きすぎてはいけない。ほどほどの自己解体でもう一度まとまり直す。そういう感覚は芸術のプロセスに触れたことがあれば分かる。「別の仕方で」(レヴィナス)まとまりをつけること、といってもいい。つまり---ここから---
1常識的まとまり=全体性良識的全体性 ↓
2自己破壊・研鑽
↓
3別な仕方でのまとまり(哲学的には個体性)
---ここまで---ここまで含めて「逃走」である。ドゥルーズには孤独な行為志向がある。ちょうど一個の島が大陸から離れていく感じ(國分注?)つまり、「離れていくこと」の志向が存在する。それに対して、ガタリ的な側面はイタリアの共産主義的「新たな連帯」を意識している。
つまりは<離れていくこと>分離するドゥルーズ
↑<しすぎてはいけない> 連関している ドゥルーズ
↓<繋がっていくこと>繋がるドゥルーズ
foxydog注----ここで言われているのはドゥルーズが「分離」でガタリが「連帯」ではないので念のため。ドゥルーズが、「ガタリによって書く」という側面で顕れているのが繋がっていくドゥルーズ、ということです。注終了--
(日本における)つながりのドゥルーズについていえば、
foxydog注----ここから、日本におけるドゥルーズ受容の問題点、というかその修正の話になります。つまり、「動きすぎてはいけない」(千葉)というドゥルーズの側面から、浅田彰がかつて提示した「逃走」のイメージを修正していく感じかと。注終了-----
「アンチ・オイディプス」は、反フロイトだったが、精神分析になじみ深いフランス人とは違い、日本人にはわかりにくかった。日本でドゥルーズ=ガタリといえば「リゾーム」。リゾーム(地下茎)とは、上下の階層をぶちこわしてあらゆるものが水平に繋がっていくイメージ。これはネグリ=ハートの「帝国」的な70年代の欲望的な「新しい群衆」とも関わっている。76年「リゾーム」はフランスで出版され、日本でも、ドゥルーズの著作としては初めて同時代に訳された。それだけに(日本における)影響も大きかった。それまでに訳されていたのは、早い時期としては『マゾッホとサド』、『ベルグソン』『プルーストとシーニュ』などがあったが、なんといっても「リゾーム」。ここから、浅田彰の『逃走論』の流れが出てくる。ドゥルーズ=ガタリの概念に、いくつかの「原理」があるのだが、その中で二つ重要なものをあげると、第1原理異質なモノが接続していく(ネグリ=ハートのいう「世界的連帯」)第4原理非意味的切断の原理(突然切断されてもかまわない)この二つが重要。そもそも(浅田彰が使用したレトリックとしての)パラノイアック/スキゾフレニックという区別は、パラノ→巨大な意味づけの体系スキゾ→そこから逃れるイメージの連鎖ということ。しかし、逃走もまた問題あり。前者の極端な展開は機械化=全体化に対して後者も、自分独自の意味づけを極端に進行すると、巨大な妄想となり、もう一つのパラノイアになってしまう。つまり後者の脱組織化の全体化は、カオスであって(foxydog注:あくまでたとえ、と断った上で、症状としての統合失調症に触れている)結果、前者の全体性と同様、ファシズムに極めて近いことになる。これはマズい。つまり、ネグリ=ハートの「マルチチュード」は、結局カウンター帝国になるのでは。繋がることも大切。だが同時に無関心も大切。(以上、千葉氏の博論の「動きすぎてはいけない」のさわり)この項つづきます。
『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』(メモ4)
foxydog
2012/03/22 16:03:23
ここから、私の理解力を超えていきます。
でも、ある意味ここからが面白いところでもあるわけで、意味不明なメモの部分もありますが、?をつけながら書いて行きます。ご容赦のほど。
國分
「無人島になる」のではなく、「無人島である」として、つまり存在論としてドゥルーズを僕(國分)は読んでいる。
僕(國分)の理解としては、
そもそも社会はリゾームなのだ。
それに無理矢理ハイアラーキーなシステムを作ってるんだ。
そういう風にドゥルーズの存在論として読んではどうか?
人間はモノを考えるのではなく、いやおうなく考えさせられる……ある種の自己破壊
(となると)
行動原理として「別の仕方でのまとまり」はどうやって可能なのか?
実践的には本を読めばいい?(國分)
國分の暫定解
習慣は経験から独立している。
原理は反復して出てくる。
(それは反復そのものではなく)そこからたどり着いた習慣として現れる。イデーとして現れる。
千葉
(たしかに)この実践の努力は存在者全てが、存在者としてやっている。
コナトゥスのバランスというか。
統制的理念としての純粋理念
「内在平面」ってこと。
※foxydog注ーーーーーー
ここ、いきなりトリップして、ドゥルーズ哲学のキモの部分に触れた感じがあります。
全部は分からないけれど、このあと
二元論(千葉)か一元論(國分)か、とこのあと二人は話を敢えて図式的に展開してくれます。
コナトゥスはスピノザがいう自己保存の努力(力能)。これは神=自然の現れ、その一部としての力能ってことでしょうか。
「内在平面」とは、これはさらによく分からないのですが、いわゆる経験と超越の間の分割線(「/」)を持たない純粋平面ということ、みたいにWikiには書いてあります。
ちくま文庫のドゥルーズ『ヒューム』の後書きにも触れられていた二元論的な枠組みの「間」をどう繋ぐか(いわゆる脱構築するか)的ポイントがここでしょうか?
とにかく突然難しく、つまりは面白くなります。
注終了ーーーーーーーー
「哲学は純粋な無人島を記述できるか?」
國分→できる!
千葉→できない!
存在の秩序はさまざまな潜在性としてある。
國分
でも、ドゥルーズは純粋に記述できると思ってるんじゃない?夢物語のような内在性として考えていたのではないか?
それは哲学は一元論であり得るか?(ということ)
超越論的経験論。
死の欲動も発生として見る。
純粋な発生としての無人島を構想していたのでは?
何でも発生から考え、いかなるものも想定しない。
「出来事」しかない!
千葉
これは同意。
(しかし)私は二元論者。二元論は実践的になる。
國分
(そういう意味では)フーコーは二元論者。
「知と権力」とか「言うと見る」
「言葉と物」は共産党批判。相互影響を叙述していく人間主義。明らかにフーコーは上部構造と下部構造というマルクス主義のアンチテーゼだった。
ドゥルーズのフーコー評
「二つの領域にまたがっているものがある。それが権力」
「権力は欲望の形態だ」
ドゥルーズはそう考えていた。
千葉
ピーター・フォルワード?は
ドゥルーズは解脱だ、という批判をしていた。英米系はフーコーの方が実りがある(と考えている?)
國分
(まあ実践的なんだけど)フーコーはあるところで思考をストップしている気がする。
考えるってことは政治ではなく倫理なんだ。
<考える=世界を変える>
発生=出来事→(強制)→考える→世界が変わる
(ところが、たとえば)フーコーは、18世紀の身体論において、
君主制においては八つ裂き刑のような「見せしめ」刑があった。
今そんなのがあったらそんなにみんな見に来ませんよ。やじゃないですか。
でも、民衆が見に来るんですこの欲望はどこからくるのか。
この欲望はなんらかの形で作られていたはず。
見ることの欲望=協力
になっている。だが、フーコーは権力を問うために有る程度でストップしている。
欲望の体制をどう分析し、どう介入するか。
千葉
欲望一元論(ですね)。
フーコーの権力論はマルクス主義をひきずっている。欲望の体制委はなんらかの形で規定される、といったが、無人島は無規定ではないか。
國分
無人島と欲望一元論
ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリに分ける。
foxydog注ーーーーーー
ここから少々意味不明になります。もうちょっと勉強しないとつながらないのですが、メモだけ残しておきます
注終了ーーーーーーーーー
千葉
欲望も歴史的に規定されていく。
同一性と差異 秩序付け
秩序付けからはずれていく。
國分
社会的領域と欲望
社会的領野で欲望が動く。それをつきつめると無人島。
フーコーは権力論=二元論のいきずまりを感じたのではないか。
晩年の「自己への配慮」はむしろ倫理。
僕(國分)はこれが好き。
原理なき原理
暴力的野蛮
良い加減
テキトーな基準でやめる
暴力的なある有限性
非意味的切断
繰り返し→(切断)→習慣
哲学的経験論じゃない、事実じゃん?!
この発想がドゥルーズにはあったと思う。
千葉
正義の倫理(原理・原則)
とは違うタイプの
ケアの倫理(かまう。ケアレスも必要!)
もう一つの厳密さがそこにある。
國分
フランスのスカーフ問題でドゥルーズが発言しているのが興味深い。
foxydog注ーーーーーー
スカーフ問題とは、ムスリムの女子生徒が学校でスカーフを着用したことに対し、学校においてはフランス国民は非宗教的でなければならないという観点から着用を禁止された事件のことか。
注終了ーーーーーーーー
ドゥルーズは、「少女に聞け」という。
どこまで、何をしたいのか聞くべきだ、と。
度合いを聞け!
その欲望はどこに由来しているのかを考えなければいけない。
個別対応、折衝、ネゴシエーション、プラティック=実践
ドゥルーズのカント批判でもある。
自己破壊のマネージメント
自己の調子
他者との調子
を整えていく
ドゥルーズはサドがあんまり好きじゃない。
革命は「かならず悪い方向にいく」
そういう意味ではネグリ=ハートとは違う。
千葉
ドゥルーズはモザイク的(普通の哲学なんだけどね)
國分
超越論的領野でさえ、経験論で考えるのがドゥルーズ
経験的習慣づけが必要。
(自己へのテクノロジーを含めての)
(千葉?)
度合いのいい加減さをつかって、カント・デカルトが止めたものをもっとつきつめていく。
過激ないい加減さ。
発生論へ。
ドゥルーズを体系的に見る
いい加減さの体系性=経験論
既に早い時期、蓮實重彦の
『批評あるいは仮死の祭典』
で
「つないでは切り離す身振り」
が指摘されている。
「と」・「&」の発想(ヒュームに由来する)。
「と」のポテンシャルが既に着目されていた=当時の批評的読解水準はそこまで言っていた。
それを哲学的読解が<経験的な側面において?>引き継いでいくことを考えてもよいのではないか。
(以上)
質問1
ドゥルーズ初期にはヒューム論での法律・制度への関心がみられる。それは後年変わったのか?
千葉
質問の意味が分からない(笑)
ヒュームは認識論ではなく、社会実践的哲学。
國分
法律には条文と判例があって、実は実践的「運用」がポイント=創造性
そこに
「やすりでけずるように」
という側面がみられる。
法=法則→自然の法則
存在それ自体の法則性
自然を社会のように。
質問2
今日はあまりスピノザの話題がでなかったので。
『批評と臨床』にドゥルーズのライプニッツ評とスピノザ評があった。
ライプニッツには光と影がある、スピノザには光だけがある、といったものだったが、どういうことか?
ライプニッツは、モナドとモナドの間に必ず隔たり=共約不可能性がある。
スピノザは直感知。無限に広がる。
例としては、海のざわめきについてライプニッツは、
海のざわめきを聞いているとしても、一つ一つ音を立てているものが統覚される。
それはモル的総合。
クリアに聞こえているのは混雑し、ぐちゃぐちゃだからクリアに聞こえるのだ。
デカルトは、明晰判明ということをいう。
それに対してライプニッツの明晰さは、波のざわめき=無限の要素を纏めたクリアさ。
だから、必ず影がある。
『差異と反復』はほとんどライプニッツで押している。
スピノザは光しかない。
千葉
ドゥルーズは、ライプニッツ的な認識が基本。
むしろ一つ一つご聞こえたらビョーキ。
バラバラに感じるのは、たとえば自閉症の人がシャワーを一本一本針のように感じる、そういう感じに近いだろう。
ライプニッツ的なものがドゥルーズのベース。
それがうまくまとまってるかのように、光であるかのように、夢のように、というところがスピノザであろう。
質問3
全体性を自己破壊して別の仕方でのまとまりを目指すと言うが、それは(結局)再構築するってことではないか?
國分
中途半端というか、同じに見えるということか?
そういう意味では、前と後で何も変わらない、と見えることはあり得る。
一見。
それじゃダメじゃないか、という異論は「あり」だと思う(千葉・國分ここで声をそろえる)。
(それじゃあ中途半端だ、十分変化してない!とい批判は)ありです。
でも、僕らはこちら(ドゥルーズの)側に立つ、ということです。
もう一つ。
ライプニッツについての海のざわめきの例では、「クリア」というコトバの意味のレベルが違うのでは?
という質問が確かにあったのですが、わたしが質問の意図が分からなかったので省略します。
(以上で終了)
これは三年前の対談なのかな?でも、この二人とドゥルーズに関心があるかたには便利かと。
もちろん間違いだらけの私的メモです。くれぐれも念の為。
『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』(1)イントロダクション
2012/03/19 23:50:00
イントロダクション3/17新宿朝日カルチャーセンターで行われた講座の受講メモです。内容は必ずしも保証できません。あくまで忘備録的メモとして。
1,國分氏によるイントロダクション-------------------------國分氏千葉氏は1月に博士論文を東大に提出したばかり。國分氏は『思想』にドゥルーズ論を連載中(第2回が5月号掲載予定?) ドゥルーズは1925年フランス生まれ。50年代~60年代に有名になり、世界中でポストモダン(ポスト構造主義)の一派と呼ばれていた。 日本での紹介は浅田彰の『逃走論』。それは間違いなく社会現象であり、デファクトスタンダード(千葉)でもある。 その中の今村仁司と浅田彰の対談を見ても、当時としては(軽やかな側面を強調した嫌いはあるにしても)なかなかの水準の紹介だったと評価すべき、とざっくりとした確認。 つぎに、映画を見たい。
「アベセデール・デ・ドゥルーズ」
(アルテチャンネルという仏の放送局で放送→ビデオ化→2004にDVD化)
アルファベット=単語を提示されて、それについて答える形式。以下ドゥルーズの語りを國分氏が同時訳。ドゥルーズ「ふだんはこういうこと(準備をあまりせずにインタをうけること)はしない。救いはこのインタは封印され、死後にのみ公開されることだ。アーカイブになったようなものだ。純粋な精神になってしまったようなものだ」
A animal(動物)インタビュアー「ペットは嫌いですよね。ノミ・ダニばっかり話してますよね」「イヌよりネコの方がいいっていってますよね。」ドゥルーズ「(省略)→この部分はYouTubeにあるので、アベセデール・デ・ドゥルーズで検索を」
B boisson(飲み物)インタビュアー「よく飲みましたよね。そして止めましたよね」ドゥルーズ「アル中だった。飲むって量の問題なんだ。(食べ物は量の問題ではない)。よく人はアル中を馬鹿にする。『止められるよといいつつやりつづけていて飲み続ける。意味が分からない』と。(だが)飲んでいるときに人がたどりつきたいと思っているのは最後の一杯なんだ。そこにたどりつくためにあらゆることをするってことなんだ。」
○國分氏(解説) ここにはよくドゥルーズのありようが現れている。ここに沈潜しているということ。ドゥルーズは欲望を重視していた。にもかかわらず最後の一杯にたどり着きたいのだ。
C culture(文化)インタビュアー「あなたは教育がない人間だといってますね。仕事に役立つためでしかないといっていますね。他方毎土曜には展覧会・映画に行って努力している。それはプチパラドクスですね」ドゥルーズ「私はインテリが嫌いだ。教養あるものと出会うとすくみおびえてしまう。こわい。いやだ。知識人ってのはなんでも知っている。で、なぜ自分が『教養がない』というかというと、知識の蓄えがないからだ。発表しないものは何もない。どんなことを勉強するときも、何かこれこれのために、と勉強しているんだ。そして全部忘れてしまう。6年10年後にまたやろうとすると楽しいんだけど、忘れている。例外はあって、スピノザは暗記してる。けど、それは例外。 知識人はしゃべってるばっかで、きたない。書くことはキレイだ。 自分は確かに映画を観たり展覧会にいったりする。 私は待ち構えている。動物が獲物を待ち構えるように。自分は出会いを待っている。人ではない。人と会うと失望する。」
○國分氏(解説) モノと出会うということをプラティック(実践)としてドゥルーズは持っていた。 ドゥルーズは晩年フーコーとのやりとりで、フーコーが快楽を言うのに対して、それは中断だからダメだという。ドゥルーズは欲望をプロセスとしてとらえ、獲物を待ち構える契機を大切にしていた。 これが大事だと思う。 たしかに「ガタリ」との出会いはありますね。 でも、二人は会って話さない。 ガタリがドゥルーズに手紙を出し、その手紙をドゥルーズが読む。そして書く。 つまり、ドゥルーズは「ガタリになって」書いているのでは?(國分氏の仮説) 「書く」ことが(によって?)生成変化を求めることになっている。欲望のプロセスを作動してくれるものを待つ。(以上、國分氏の映画紹介)この項続きます。
『様々なドゥルーズ 対談:國分功一郎×千葉雅也』講座メモ(2)
2012/03/20 06:44:00
2,展開(動かないドゥルーズ)
千葉(國分さんのドゥルーズは)ドゥルーズ単独の印象がある。
(かつて日本で受容されたドゥルーズの印象は)「ドゥルーズ=ガタリ」ユニットへの印象で、それ(國分さんのドゥルーズ)とは違う。
浅田彰が紹介したのはガタリが「入って」いる。ガタリはいわゆる「活動家」(政治的?と言う意味か foxydog注)。あちこち飛び回り権力を渡り歩いて展開していくタイプ。
國分「ドゥルーズはある種の独我論者だ」って浅田はいっている。
千葉 ドゥルーズは動かない。受動的、依存症、アディクション。そのことも含めて、80年代に(既に)捉えられていた(そういう意味でも浅田彰は時代を抜いていた)。しかし一方では、ドゥルーズは独特の耽美主義に陥る、ドゥルーズ=ガタリは生産的だ、という評価もあった。
(浅田彰がそう評価している、ということか?ちょっと不明foxydog注)。
数年前、國分さんと行ったシンポジウム「ドゥルーズの逆説的保守主義」でもそういう話が出たが、ドゥルーズがベケット論で指摘している「尽き果ててしまう、消尽してしまう」という批評表現のような側面が、ドゥルーズにもある。(そして実は)ドゥルーズ=ガタリのいわゆる躁状態の中にも、ドゥルーズの「だらけた身体」がある。「器官なき身体」とのかかわりがある。ドゥルーズは肺が悪かった。抗生物質耐性菌に罹患していた、いわゆる「結核の思想家」である。68年~69年にかけて博士論文の審査の時期に片肺摘出の手術を受けている。そのため、博士論文の審査は厳しく追及されなかった。時代が時代だから、いつ中断されるかも分からなかった(学生運動の季節だったため)ということもあったかもしれないが(笑)。身体が思うように動かない。意志や意図を持って身体を操作するのではなく、その統御(オーガナイズ=組織化)をはずれる。それは共通感覚の失調をもたらす。ドゥルーズは「欠如」より「疲労」に興味がある。だるーくなっていく。どちらかといえば(彼の言説は)鬱質の話ではないか。沈殿に逆説的クリエイティヴィティを見いだす、というような。
國分 ドゥルーズは「非主意主義」(ショウペンハウエルとは対極)。むしろ出会いによって自分の中から発動する。芸術至上主義的、詩的に構築するという意味ではアドルノ的では?ドゥルーズの独我論は自我もない。ちょうど「無人島」(ドゥルーズ自身の比喩?)にいると他者がいない、という意味で。他者を想定するからモノや世界がある、といえる。「自己が想定できる対象」を想定することができなくなると、自我もありえないし、主体もありえない。その結果、無人島にいる→無人島になる=自我なきBodyすなわち「器官なき身体」!(つまり)他者がいなくなると自我が島と一体化する。ドゥルーズはまた、自分の子供の頃のことを出発点としない。(子供の頃こういうことがあったから、的な精神分析的トラウマをエンジンにしないということか?foxydog)ドゥルーズの出発点は22、3歳の頃のディビッド・ヒューム論。ヒュームは一般には保守主義者と見なされているが、そこにラディカルなものをみていたヒューム、をドゥルーズは論じている。(この辺り、國分さんの連載中のドゥルーズ論のポイントの一つである「自由間接話法」との具体例としての関連も聞きたかったが聞けませんでしたfoxydog)ドゥルーズの「いかにして精神が主体になるかだ」という指摘。精神は観念のまとまり・あつまりであり、それがシステム化したとき初めて主体が生じるのだ。デカルトのコギトはそこで志向が止まっている。しかしヒュームはむしろ突き詰めてラディカルに考え抜く「経験論」だった。経験→習慣→主体の生成つまり、ドゥルーズは保守主義をラディカルに読み直した。
千葉
点で考える→デカルト
線の中間で考える→ヒューム<自己の統一性はいつ解体するか分からない>ラディカルに世界を不安定化させている。
かつての日本におけるドゥルーズ受容(浅田彰『逃走論』の「スキゾ・キッズ」)は、大まかに言うと
国家・社会・世間=パラノイアック
個人=スキゾフレニック
という図式の上で既存権力から逃げ延びて敵の権力にはまらずかってな動きをすればいいだった。これは言ってしまえば個人主義のススメ、賢い消費者のススメだった。そこでのポピュラーなドゥルーズ像は
1,世間VS個人を前提にしている。まあ、これはこれで間違っちゃいないが。しかしそれだけではない。
2,1での個人はちゃんとしている。でも、ドゥルーズは身体が動かない。 「脱領土化」・「脱中心化」というキーワード。
1の「世間→個人の逃走」は分かりやすく健康。一方、2の自分自身(私・自我)からの逃走はある種の自己破壊。つまり自己解体の契機をはらんでいる。この1と2は不可分であるとドゥルーズ=ガタリはいう。このヤバサ。self-destruction.役割分担と自己が認識することはペアになっている。世間や社会、世界がなければ、自己が世界や社会を認識することもできない、という意味で。芸術とは、それを崩すこと。「向かっていく」がやりすぎちゃまずい、と(ドゥルーズ=ガタリは)言っている。
「(変化は?)ハンマーでめった打ちするような仕方ではなく、やすりをかけるように、でなければならない。」
ここが魅力的なレトリックだと私(千葉)は考えている。人生訓的な「度合いに気をつけろ」ドゥルーズの直観には、そういうことがある。やりすぎはいかん、と。「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはならない」手前での踏みとどまりということ。☆「動き」とは自己・自我から離れて他人に憑依するようなこと。
國分(でもそれは)どちらかというと、そのバランス感覚はドゥルーズ=ガタリの方じゃない?マゾッホとサドの超越論的探求「ここでやめたいというところでやめてはいけない」ってフロイト読解でしょ?欲望というものは止めてはいけなくて、中断しない……
千葉ちがう。 超越論的探求には二つある。サド→死=止まらないマゾ→宙づり=微妙サド=フロイトでやっちまう、止められない。でもそれだけじゃないという話。快楽になるとはじけちゃうからダメだっていうこと。宙吊り=やりすぎないことが必要。性急に快楽を求めてはいけない。
國分そうか。分かった。フーコーはハードSM(だしまくり哲学)ドゥルーズはソフトSM(寸止めの哲学)なんだ!(ということで前半1時間終了)この項つづく。※
『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』講座メモ(3)
2012/03/20 09:42:00
3,千葉雅也氏の博士論文より
千葉 動きすぎてはいけない。ほどほどの自己解体でもう一度まとまり直す。そういう感覚は芸術のプロセスに触れたことがあれば分かる。「別の仕方で」(レヴィナス)まとまりをつけること、といってもいい。つまり---ここから---
1常識的まとまり=全体性良識的全体性 ↓
2自己破壊・研鑽
↓
3別な仕方でのまとまり(哲学的には個体性)
---ここまで---ここまで含めて「逃走」である。ドゥルーズには孤独な行為志向がある。ちょうど一個の島が大陸から離れていく感じ(國分注?)つまり、「離れていくこと」の志向が存在する。それに対して、ガタリ的な側面はイタリアの共産主義的「新たな連帯」を意識している。
つまりは<離れていくこと>分離するドゥルーズ
↑<しすぎてはいけない> 連関している ドゥルーズ
↓<繋がっていくこと>繋がるドゥルーズ
foxydog注----ここで言われているのはドゥルーズが「分離」でガタリが「連帯」ではないので念のため。ドゥルーズが、「ガタリによって書く」という側面で顕れているのが繋がっていくドゥルーズ、ということです。注終了--
(日本における)つながりのドゥルーズについていえば、
foxydog注----ここから、日本におけるドゥルーズ受容の問題点、というかその修正の話になります。つまり、「動きすぎてはいけない」(千葉)というドゥルーズの側面から、浅田彰がかつて提示した「逃走」のイメージを修正していく感じかと。注終了-----
「アンチ・オイディプス」は、反フロイトだったが、精神分析になじみ深いフランス人とは違い、日本人にはわかりにくかった。日本でドゥルーズ=ガタリといえば「リゾーム」。リゾーム(地下茎)とは、上下の階層をぶちこわしてあらゆるものが水平に繋がっていくイメージ。これはネグリ=ハートの「帝国」的な70年代の欲望的な「新しい群衆」とも関わっている。76年「リゾーム」はフランスで出版され、日本でも、ドゥルーズの著作としては初めて同時代に訳された。それだけに(日本における)影響も大きかった。それまでに訳されていたのは、早い時期としては『マゾッホとサド』、『ベルグソン』『プルーストとシーニュ』などがあったが、なんといっても「リゾーム」。ここから、浅田彰の『逃走論』の流れが出てくる。ドゥルーズ=ガタリの概念に、いくつかの「原理」があるのだが、その中で二つ重要なものをあげると、第1原理異質なモノが接続していく(ネグリ=ハートのいう「世界的連帯」)第4原理非意味的切断の原理(突然切断されてもかまわない)この二つが重要。そもそも(浅田彰が使用したレトリックとしての)パラノイアック/スキゾフレニックという区別は、パラノ→巨大な意味づけの体系スキゾ→そこから逃れるイメージの連鎖ということ。しかし、逃走もまた問題あり。前者の極端な展開は機械化=全体化に対して後者も、自分独自の意味づけを極端に進行すると、巨大な妄想となり、もう一つのパラノイアになってしまう。つまり後者の脱組織化の全体化は、カオスであって(foxydog注:あくまでたとえ、と断った上で、症状としての統合失調症に触れている)結果、前者の全体性と同様、ファシズムに極めて近いことになる。これはマズい。つまり、ネグリ=ハートの「マルチチュード」は、結局カウンター帝国になるのでは。繋がることも大切。だが同時に無関心も大切。(以上、千葉氏の博論の「動きすぎてはいけない」のさわり)この項つづきます。
『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』(メモ4)
foxydog
2012/03/22 16:03:23
ここから、私の理解力を超えていきます。
でも、ある意味ここからが面白いところでもあるわけで、意味不明なメモの部分もありますが、?をつけながら書いて行きます。ご容赦のほど。
國分
「無人島になる」のではなく、「無人島である」として、つまり存在論としてドゥルーズを僕(國分)は読んでいる。
僕(國分)の理解としては、
そもそも社会はリゾームなのだ。
それに無理矢理ハイアラーキーなシステムを作ってるんだ。
そういう風にドゥルーズの存在論として読んではどうか?
人間はモノを考えるのではなく、いやおうなく考えさせられる……ある種の自己破壊
(となると)
行動原理として「別の仕方でのまとまり」はどうやって可能なのか?
実践的には本を読めばいい?(國分)
國分の暫定解
習慣は経験から独立している。
原理は反復して出てくる。
(それは反復そのものではなく)そこからたどり着いた習慣として現れる。イデーとして現れる。
千葉
(たしかに)この実践の努力は存在者全てが、存在者としてやっている。
コナトゥスのバランスというか。
統制的理念としての純粋理念
「内在平面」ってこと。
※foxydog注ーーーーーー
ここ、いきなりトリップして、ドゥルーズ哲学のキモの部分に触れた感じがあります。
全部は分からないけれど、このあと
二元論(千葉)か一元論(國分)か、とこのあと二人は話を敢えて図式的に展開してくれます。
コナトゥスはスピノザがいう自己保存の努力(力能)。これは神=自然の現れ、その一部としての力能ってことでしょうか。
「内在平面」とは、これはさらによく分からないのですが、いわゆる経験と超越の間の分割線(「/」)を持たない純粋平面ということ、みたいにWikiには書いてあります。
ちくま文庫のドゥルーズ『ヒューム』の後書きにも触れられていた二元論的な枠組みの「間」をどう繋ぐか(いわゆる脱構築するか)的ポイントがここでしょうか?
とにかく突然難しく、つまりは面白くなります。
注終了ーーーーーーーー
「哲学は純粋な無人島を記述できるか?」
國分→できる!
千葉→できない!
存在の秩序はさまざまな潜在性としてある。
國分
でも、ドゥルーズは純粋に記述できると思ってるんじゃない?夢物語のような内在性として考えていたのではないか?
それは哲学は一元論であり得るか?(ということ)
超越論的経験論。
死の欲動も発生として見る。
純粋な発生としての無人島を構想していたのでは?
何でも発生から考え、いかなるものも想定しない。
「出来事」しかない!
千葉
これは同意。
(しかし)私は二元論者。二元論は実践的になる。
國分
(そういう意味では)フーコーは二元論者。
「知と権力」とか「言うと見る」
「言葉と物」は共産党批判。相互影響を叙述していく人間主義。明らかにフーコーは上部構造と下部構造というマルクス主義のアンチテーゼだった。
ドゥルーズのフーコー評
「二つの領域にまたがっているものがある。それが権力」
「権力は欲望の形態だ」
ドゥルーズはそう考えていた。
千葉
ピーター・フォルワード?は
ドゥルーズは解脱だ、という批判をしていた。英米系はフーコーの方が実りがある(と考えている?)
國分
(まあ実践的なんだけど)フーコーはあるところで思考をストップしている気がする。
考えるってことは政治ではなく倫理なんだ。
<考える=世界を変える>
発生=出来事→(強制)→考える→世界が変わる
(ところが、たとえば)フーコーは、18世紀の身体論において、
君主制においては八つ裂き刑のような「見せしめ」刑があった。
今そんなのがあったらそんなにみんな見に来ませんよ。やじゃないですか。
でも、民衆が見に来るんですこの欲望はどこからくるのか。
この欲望はなんらかの形で作られていたはず。
見ることの欲望=協力
になっている。だが、フーコーは権力を問うために有る程度でストップしている。
欲望の体制をどう分析し、どう介入するか。
千葉
欲望一元論(ですね)。
フーコーの権力論はマルクス主義をひきずっている。欲望の体制委はなんらかの形で規定される、といったが、無人島は無規定ではないか。
國分
無人島と欲望一元論
ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリに分ける。
foxydog注ーーーーーー
ここから少々意味不明になります。もうちょっと勉強しないとつながらないのですが、メモだけ残しておきます
注終了ーーーーーーーーー
千葉
欲望も歴史的に規定されていく。
同一性と差異 秩序付け
秩序付けからはずれていく。
國分
社会的領域と欲望
社会的領野で欲望が動く。それをつきつめると無人島。
フーコーは権力論=二元論のいきずまりを感じたのではないか。
晩年の「自己への配慮」はむしろ倫理。
僕(國分)はこれが好き。
原理なき原理
暴力的野蛮
良い加減
テキトーな基準でやめる
暴力的なある有限性
非意味的切断
繰り返し→(切断)→習慣
哲学的経験論じゃない、事実じゃん?!
この発想がドゥルーズにはあったと思う。
千葉
正義の倫理(原理・原則)
とは違うタイプの
ケアの倫理(かまう。ケアレスも必要!)
もう一つの厳密さがそこにある。
國分
フランスのスカーフ問題でドゥルーズが発言しているのが興味深い。
foxydog注ーーーーーー
スカーフ問題とは、ムスリムの女子生徒が学校でスカーフを着用したことに対し、学校においてはフランス国民は非宗教的でなければならないという観点から着用を禁止された事件のことか。
注終了ーーーーーーーー
ドゥルーズは、「少女に聞け」という。
どこまで、何をしたいのか聞くべきだ、と。
度合いを聞け!
その欲望はどこに由来しているのかを考えなければいけない。
個別対応、折衝、ネゴシエーション、プラティック=実践
ドゥルーズのカント批判でもある。
自己破壊のマネージメント
自己の調子
他者との調子
を整えていく
ドゥルーズはサドがあんまり好きじゃない。
革命は「かならず悪い方向にいく」
そういう意味ではネグリ=ハートとは違う。
千葉
ドゥルーズはモザイク的(普通の哲学なんだけどね)
國分
超越論的領野でさえ、経験論で考えるのがドゥルーズ
経験的習慣づけが必要。
(自己へのテクノロジーを含めての)
(千葉?)
度合いのいい加減さをつかって、カント・デカルトが止めたものをもっとつきつめていく。
過激ないい加減さ。
発生論へ。
ドゥルーズを体系的に見る
いい加減さの体系性=経験論
既に早い時期、蓮實重彦の
『批評あるいは仮死の祭典』
で
「つないでは切り離す身振り」
が指摘されている。
「と」・「&」の発想(ヒュームに由来する)。
「と」のポテンシャルが既に着目されていた=当時の批評的読解水準はそこまで言っていた。
それを哲学的読解が<経験的な側面において?>引き継いでいくことを考えてもよいのではないか。
(以上)
質問1
ドゥルーズ初期にはヒューム論での法律・制度への関心がみられる。それは後年変わったのか?
千葉
質問の意味が分からない(笑)
ヒュームは認識論ではなく、社会実践的哲学。
國分
法律には条文と判例があって、実は実践的「運用」がポイント=創造性
そこに
「やすりでけずるように」
という側面がみられる。
法=法則→自然の法則
存在それ自体の法則性
自然を社会のように。
質問2
今日はあまりスピノザの話題がでなかったので。
『批評と臨床』にドゥルーズのライプニッツ評とスピノザ評があった。
ライプニッツには光と影がある、スピノザには光だけがある、といったものだったが、どういうことか?
ライプニッツは、モナドとモナドの間に必ず隔たり=共約不可能性がある。
スピノザは直感知。無限に広がる。
例としては、海のざわめきについてライプニッツは、
海のざわめきを聞いているとしても、一つ一つ音を立てているものが統覚される。
それはモル的総合。
クリアに聞こえているのは混雑し、ぐちゃぐちゃだからクリアに聞こえるのだ。
デカルトは、明晰判明ということをいう。
それに対してライプニッツの明晰さは、波のざわめき=無限の要素を纏めたクリアさ。
だから、必ず影がある。
『差異と反復』はほとんどライプニッツで押している。
スピノザは光しかない。
千葉
ドゥルーズは、ライプニッツ的な認識が基本。
むしろ一つ一つご聞こえたらビョーキ。
バラバラに感じるのは、たとえば自閉症の人がシャワーを一本一本針のように感じる、そういう感じに近いだろう。
ライプニッツ的なものがドゥルーズのベース。
それがうまくまとまってるかのように、光であるかのように、夢のように、というところがスピノザであろう。
質問3
全体性を自己破壊して別の仕方でのまとまりを目指すと言うが、それは(結局)再構築するってことではないか?
國分
中途半端というか、同じに見えるということか?
そういう意味では、前と後で何も変わらない、と見えることはあり得る。
一見。
それじゃダメじゃないか、という異論は「あり」だと思う(千葉・國分ここで声をそろえる)。
(それじゃあ中途半端だ、十分変化してない!とい批判は)ありです。
でも、僕らはこちら(ドゥルーズの)側に立つ、ということです。
もう一つ。
ライプニッツについての海のざわめきの例では、「クリア」というコトバの意味のレベルが違うのでは?
という質問が確かにあったのですが、わたしが質問の意図が分からなかったので省略します。
(以上で終了)