ちくま新書から
國分功一郎『近代政治哲学-自然・主権・行政』
が刊行されました。
これがメチャメチャ面白いんです。
まあ、國分先生のファンである私の言うことだから2割引ぐらいで考えてもらっていいんですけれど、それでも私の中では今年の上四半期ベスト3に入ります。
1位は佐藤正午『鳩の撃退法』(上下)
2位は上村菜穗子『鹿の王』(上下)
3位が國分功一郎『近代政治哲学』
かな。他に何を読んだかあまり覚えていなかったりするんですが(笑)。
あ、でも今読んでいる最中の牧野英二さんの『カントを読む』も楽しい本です。
山内志朗氏の『哲学の誤読』も読み中ですが、例によって『普遍論争』でもおなじみの山内節の抑揚についていけていません。
やっていることはスコトゥスの「存在の一義性」におけるドゥルーズの誤読とか、なんだか面白そうな内容なんですが、さっぱり要領を得ない。
わざと難しく書いている、というのとは違うのは分かるんだけれど、こちらの教養不足は当然としても、それだけじゃなくてその屈曲した文体に「んー!」てなります(笑)。
レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』はとっても面白いし、國分さんの講座がベースにあるので理解しやすいけれど、もはや古典扱いだから別格。
というわけで、とりあえず『近代政治哲学』のお話。
ジョン・ボダン→ホッブズ→スピノザ→(ロック)→ルソー→ヒューム→カント
という流れで近代の政治哲学における「自然権」と「主権」について明確な道筋をつけようとする1冊。新書ですから、初学者(まえがきによれば大学1年生対象の講座が基になっているとのこと)にとっても読みやすく、きわめて明快です。
とくに、ホッブズからスピノザへのところと、ルソーからヒュームのところは、個人的に國分先生のスピノザ講座とドゥルーズ講座(&学会発表)の内容から記憶している断片を当てはめていくことができるので、ちょっとした「ライブ」の快楽を感じてしまいました。
ホッブズでよく早わかりでも解説される
希望の平等(みんな似たようなものだ)から自然状態=戦争状態が導き出され、だから「せーの」でその「自然権」(國分せんせによれば「自由という事実」)を放棄(lay down:銃を床に置く、などの意味)して権力を一人の人間もしくは合議体に譲渡する。
という道筋も、
その「設立のコモンウェルス」はむしろホッブズのテキストに内在する論理に従うなら後付けの方便であって、
銃を突きつけられて従うか命を奪うか、と迫られた時、その契約は有効だ
というところから導かれる獲得のコモンウェルスこそがホッブズの権力生成の論理だ、と解説する國分先生の「読み」は、そこからスピノザの書簡にある有名な、
「ホッブズと私の違いは、自然権は放棄できないということです」
につながっていきます。
つまり、自然権が自由という事実なら、放棄などできない、ただlay downしているだけだ、というのですね。
國分先生の論では、そこでホッブズがスピノザにつながっていくのですが、このあたりはホッブズの専門家にも話をちょっと聴いてみたいところです。
確かに自然権を「せーの」で放棄して権力をゆだねるっていう図式よりも、銃をつきつけられたら言うことをきくしかないよね、そうやって国ができたんだから、しょうがないじゃん、っていうことを後から理論づけるための「設立のコモンウェルス」だよっていう説明の方が、腑に落ちる感じはしますけど。
スピノザを近代政治哲学の流れの中に明確に位置づけて論じてもらえたこの本は、個人的には本当にありがたいものでした。
あとはヒュームのところの読みがちょっと個人的には「なーるほど!」だったんですがそれはまた後で。
とりあえず、めちゃめちゃお薦めです。ぜひどうぞ。
特に、私のように政治哲学素人っていう人は、とりあえずの見取り図、考える手がかりとして最適なんじゃないかなあ。
國分功一郎『近代政治哲学-自然・主権・行政』
が刊行されました。
これがメチャメチャ面白いんです。
まあ、國分先生のファンである私の言うことだから2割引ぐらいで考えてもらっていいんですけれど、それでも私の中では今年の上四半期ベスト3に入ります。
1位は佐藤正午『鳩の撃退法』(上下)
2位は上村菜穗子『鹿の王』(上下)
3位が國分功一郎『近代政治哲学』
かな。他に何を読んだかあまり覚えていなかったりするんですが(笑)。
あ、でも今読んでいる最中の牧野英二さんの『カントを読む』も楽しい本です。
山内志朗氏の『哲学の誤読』も読み中ですが、例によって『普遍論争』でもおなじみの山内節の抑揚についていけていません。
やっていることはスコトゥスの「存在の一義性」におけるドゥルーズの誤読とか、なんだか面白そうな内容なんですが、さっぱり要領を得ない。
わざと難しく書いている、というのとは違うのは分かるんだけれど、こちらの教養不足は当然としても、それだけじゃなくてその屈曲した文体に「んー!」てなります(笑)。
レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』はとっても面白いし、國分さんの講座がベースにあるので理解しやすいけれど、もはや古典扱いだから別格。
というわけで、とりあえず『近代政治哲学』のお話。
ジョン・ボダン→ホッブズ→スピノザ→(ロック)→ルソー→ヒューム→カント
という流れで近代の政治哲学における「自然権」と「主権」について明確な道筋をつけようとする1冊。新書ですから、初学者(まえがきによれば大学1年生対象の講座が基になっているとのこと)にとっても読みやすく、きわめて明快です。
とくに、ホッブズからスピノザへのところと、ルソーからヒュームのところは、個人的に國分先生のスピノザ講座とドゥルーズ講座(&学会発表)の内容から記憶している断片を当てはめていくことができるので、ちょっとした「ライブ」の快楽を感じてしまいました。
ホッブズでよく早わかりでも解説される
希望の平等(みんな似たようなものだ)から自然状態=戦争状態が導き出され、だから「せーの」でその「自然権」(國分せんせによれば「自由という事実」)を放棄(lay down:銃を床に置く、などの意味)して権力を一人の人間もしくは合議体に譲渡する。
という道筋も、
その「設立のコモンウェルス」はむしろホッブズのテキストに内在する論理に従うなら後付けの方便であって、
銃を突きつけられて従うか命を奪うか、と迫られた時、その契約は有効だ
というところから導かれる獲得のコモンウェルスこそがホッブズの権力生成の論理だ、と解説する國分先生の「読み」は、そこからスピノザの書簡にある有名な、
「ホッブズと私の違いは、自然権は放棄できないということです」
につながっていきます。
つまり、自然権が自由という事実なら、放棄などできない、ただlay downしているだけだ、というのですね。
國分先生の論では、そこでホッブズがスピノザにつながっていくのですが、このあたりはホッブズの専門家にも話をちょっと聴いてみたいところです。
確かに自然権を「せーの」で放棄して権力をゆだねるっていう図式よりも、銃をつきつけられたら言うことをきくしかないよね、そうやって国ができたんだから、しょうがないじゃん、っていうことを後から理論づけるための「設立のコモンウェルス」だよっていう説明の方が、腑に落ちる感じはしますけど。
スピノザを近代政治哲学の流れの中に明確に位置づけて論じてもらえたこの本は、個人的には本当にありがたいものでした。
あとはヒュームのところの読みがちょっと個人的には「なーるほど!」だったんですがそれはまた後で。
とりあえず、めちゃめちゃお薦めです。ぜひどうぞ。
特に、私のように政治哲学素人っていう人は、とりあえずの見取り図、考える手がかりとして最適なんじゃないかなあ。