龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

『図書館の魔女』上巻を読んでいる。

2015年04月27日 14時56分42秒 | メディア日記
高田大介の『図書館の魔女』講談社

の上巻を読んでいる。
ハイファンタジーというのだろうか、最初からどこか中世の匂いがする世界が設定されていて、そこで物語が進行していく種類の作品である。

そういう設定の場合、序盤はサラッとよみながしながら雰囲気を味わうのが普通だ。

確かに世界観に浸る、というのは物語でもゲームでも同じだ。

だが、物語においては、世界観だけを味わうことは、通常できない。

想像力の自由を確保して虚構を広げる役割と、同時に別世界を緻密に構築するリアリティとを同時に満足させてくれる「お約束」のようなものとして、テイストを味わいつつもまずはストーリーの展開をワクワクして追っていくものだろう。

ところが、この物語は少し様子が違っているようだ。
学者肌の物語作家には共通するのだが(ル・グィン、上橋菜穂子など)、その世界観自体の提示がすでに作品の大切なパフォーマンスの一部になっている、ということはある。

さてしかし、この作品は、その段階、というかそのレベルでとらえるだけでも足りない気がしてくる。

そう、たとえばフンケの『魔法の声』シリーズのような手応えがあるのだ。

とはいっても、言葉を蝶番のように「使って」作品の内と外を行ったり来たりしつつ物語が進行する、という、物語のフレームを利用した仕掛けがある、というのではない。

それ(物語と言葉)は図書館において「重なって」いるのだ。

「なんだ、それは言葉についての、言葉を題材にした物語ではないか」

と思われるかもしれない。

まあ、大枠、大域的にいえばざっくりそうともいえるが、それだけでもない。微細な音や文字、手話を巡る身体と精神を同時に抱えた叙述のなかから、それでなくては生まれ出てこない
「言葉=物語」
の実践がそこにある、とでもいおうか。

大きくは「政治」もまた「言葉」が紡いでいく「物語」でもあるが、「言葉」はまた小さくは皮膚や身体と共に紡がれていくものでもある。

そう、それは単なる「言葉」でもなければ単なる「物語」でもない。

というより、単なる「物語」が存在しないように単なる「言葉」もまた存在しないものであろう。

まどろっこしいメモを書いているのは承知の上で、このあたりの消息を考えながら読みたいな、とも思うような、そんな文章、でもあるのだ。

例えば、いわゆる魔法物語がともすれば「近代的」な成長の物語に終わってしまいがちなのは、呪文が最終的に「個人的な能力」として(作品によって)とらえられてしまうからだ。

酒見賢一の『陋巷に在り』が、たんなる古代中国を舞台にした超能力話(もちろんそう読んで楽しんでもらって全く問題ないエンタテイメントなんですが)に終わらないとしたら、そのフィールドの可能性はどういうところに広がっていくのだろう、というようなこともちょっと考えさせられる作品として、この『図書館の魔女』は読めるような気がしてくる。

つまり、とりあえず、私には、この本を飛ばし読みすることができない。

物語の落としどころがどこになるのかは分からない。

それを知る前に、この冒頭200ページの印象を書いておきたかった。

圧倒的にお薦めです(2013年の出版時点で気づかなかったことが悔やまれるほどに)。




YouTubeを観る愚かさ、面白さ。

2015年04月27日 13時45分10秒 | メディア日記
YouTubeは、なるべく観ないようにしている。

特に、昔懐かしいプログラムを観るのが良くない。

新着動画はまだいい。それが面白くても面白くなくても、そこで閲覧を止めることができる。

だが、昔聴いていた音楽を一旦再生し始めると、関連する動画が次々に表示されてしまい油断するといつの間にか一大懐メロイベントになってしまう。

さらに危険なのは、昔のテレビ番組だ。

特に普段思い出りたりはしない、だからすっかり忘れているようなテレビ番組が実は脳味噌の中にしっかりと刻まれていて、その中の一つをYouTubeで再生しようものなら、その瞬間に記憶が刺激されて、止めようがなくなってしまうのだ。

今日は休日勤務の振り替えで家にいて、読みさしの本を手に取る前、何気なく週一回届いていたYouTubeのお知らせメールを配信停止しよう、とその「おすすめメール」を開いたのが運の尽き。

漫才「ナイツ」の傑作ネタ(野球)を観たのだが、そういえばポイゾンガールバンドに中日ネタがあった、というのを思い出し、2004年M1の南海キャンディーズ、笑い飯、と進んでいってしまった。

2004年のM-1グランプリのことなど、全く記憶になかったはずなのだが、驚くべきことに、彼らのネタをほとんど全部、流れの中で思い出していくのだ。

YouTube、恐るべし。

だが、それ以上に、その10年前にたった一度観ただけなのにそのネタのほとんどを(演者が演じ始めると当時に)思い出してしていく脳みその動きにびっくりさせられた。

例えば南海キャンディーズの火に怯えるサイ、のネタに対する審査員のコメントまで、その「シークエンスの中」で記憶として甦ってくるのだから。
もちろんそれは、最初から自分で再現できるようなレベルではない。しかし、次に何が起こるか、は体の中から感じが立ち現れてくる、という感覚がまちがいなくあるのだ。

ちょうどピアノやバイオリンの発表会で、暗譜ほしているけれど必ずしも全体の楽譜が入っているというわけはではなく、しかしながら弾き始めてしまえば次が何なのかは分かる、というような。

YouTubeを観て午後を過ごすのは、本当に勿体ない無駄な時間の費やし方だ、とも思うけれど、新しいものだけに頭が反応するというわけでもない。
普段のネットサーフィンとはひと味違った「引き込まれ」具合だった。

さて、ちょっとでかけようかな。