井上光晴の娘で小説家の井上荒野が父親をモデルにして書いた小説『あちらにいる鬼』を読み出した。
小説家の娘が小説家だ、というのはこういうことか、と、なんだかテキスト戸は別のところで感心してしまっているような気分になる。
しかし同時に、小説家の娘である小説家が、その父親である小説家と恋愛する小説家との関係を書く、ということになるといささかややこしいことになるのは当然でもある。
「不覚にも」といってもいいかもしれないが、この小説を読み出した瞬間、心が取りさらわれてしまったような気がしてきた。
今や知っている人も少ないと思うが、井上光晴は「文学伝習所」という小説添削イベント&同人雑誌サポートのようなことを全国展開でやっていた。
私の師匠に言わせると、「自前の顧客開拓」という意味もあり、もともと組織のオルグなどもしてきた井上光晴ならではの活動だね、という側面もありそうで、まあなんだかんだいって何人かの友人もそれに参加していたので、一度私も泊まりがけでその講義&添削イベントに参加したことがある。
つまり、ひろーく解釈すれば私も井上光晴の「弟子」と言えないこともない。
ふつうの作家だったらそんなことを考えもしないだろうが、井上光晴と出会うと、こちらがなんだかそういう気分になる。
その井上光晴!あの井上光晴が、あまりにも鮮やかに描かれているのだ。瀬戸内寂聴(晴美)をモデルとする登場人物が井上光晴的主人公に惹かれていく、そのメカニズムは、幾分か私が井上光晴に対して抱いた感情の動きと重なってすらいて、井上荒野、やるなあ、という思いが強く湧いてくる。
まだ1/4しか読んでいないとば口ののところだが、あまりにもびっくりしたので書き留めておく。
誰かに感想をぜひ聴いてみたい種類の小説だ。
今年はけっこう本についていうと「当たり」の年かもしれないな……。
もちろん、ぐいぐい引き込まれるのは、この井上荒野という作家の個別な力には違いないのだけれど、この井上光晴をこんな風に描けるのはこの作者しかいないと言う意味で、娘であることの意味はとてつもなく大きいのだろう。
瀬戸内晴美の書いた小説を一冊も読み通したことがないから、これが本当は瀬戸内寂聴(晴美)の作品であるとしたどうだろう?と空想することは不可能でもないが、そんなことすら思わせるような主人公の描写なのだ。井上光晴と言う作家を見たことがあれば、 「そう、それ!」とおもわず叫ばずにはいられないような描写が散りばめられていて、すっかり忘れていた井上光晴への 「熱」が、何の関係もないこちら側に発生してしまうことに戸惑いを覚える。つまり、この小説を読まされるということは、幾分かは 「みはる」(愛人)であり、どれほどかは 「笙子」(妻)に読者が憑依してしまうことなのだ。
やれやれ。
今年の収穫、と言わざるを得ない。
傑作だ。
機会がある人にはぜひ、とお勧めしたい一冊。
スゴい。