ここまで(第6章の前半まで)は面白い、で済んでいたが、いよいよ話が佳境に入ると、なかなか難しいところにさしかかる。
第6章後半部分、P
P153
つまり現実的本質とは<しかじかの行為をなしつつある自己に固執するコナトゥス>であり、<行為のコナトゥス>としての側面と、<自己の有への固執のコナトゥス>としての側面を共に備えている。
あたりになると、これはもう、コナトゥスってなんだったっけ?と見直さなければならなくなる。
コナトゥスとはラテン語のconutusで、「努力(する)」という意味だが、ここで木島さんは
「全ての個物の核心に位置する傾向、または力を指すための術語」
と説明している。これが、意志も目的も持たないというのだ。
スピノザ解釈としてはその通りなのだろうが、意志も目的も持たない「力」とはいったいなんだろう?ということになる。まあ、神=自然の摂理の表現、なんでしょうけど。
この本の副題「自由意志も目的論もない力の形而上学」という主題に関わる記述がここから展開されていく。
一般的な人間の行為に目的があることはスピノザも当然認めているわけだが、それは人間主体の自由意志とかを認めたり、予め可能性として目的を設定したりはしない、そういう種類のものではない「力」をここで考えて行くということなのらしい。
スピノザを論じる人はみーんなそういうことを言うし、そうなんだろうなあ、とは思うけれど、このままここで突き放されては哲学ヲタクのトリヴィアルな学問の場所に放置されてしまいそうだ。
木島ースピノザが言うところの意志も目的も持たず、自己に固執する力と自己の核心に存在する傾向性から、人間の営みをどう捉え直していくのか。
話はギリギリついていけるかどうか、というところにさしかかってきた。
第7,8,9章は明日以降の楽しみになる。