龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

終・『スピノザの自然主義プログラム』(木島泰三)を読む

2022年01月20日 07時00分00秒 | メディア日記

コナトゥスの説明の辺りから難しくなってしまって、木島泰三氏の敷いた道筋をまだ十分に理解できてはいない。

実際、私は今まで「コナトゥス」を「より良く生きる努力」といった風に理解していた。<志向性を持った力>が内在しているってイメージといっていいだろうか。この本の主張するスピノザは、その「コナトゥス」にともすれば忍び込んでくる「目的論的」な因果関係の先取りを徹底的に潰していく。

つまり、著者の言うコナトゥスはあくまで自己に固執する努力と、行為へと向かう力であって、何か「より良き」目的を持っていたりしないのだ。

え、じゃあ人間の「生きる志向性はどこへいっちゃうんだよ」とちょっと思ってしまうが、冷静に考えてくならば、この著者の主張は、かなり説得力があるようにも思えてくる。

目的を持ち、そこに向かって働きかける力、というイメージは、結果から原因を導き出す倒錯を招く、という指摘はなーんとなく分かる。

自由意志の否定と必然の肯定が、運命論を招き寄せるというのも、分かるような気もする。つまり、自由意志の否定が、不思議なことに、何か一つの結果を必然的にもたらしてしまうというニヒリスティックな運命論を招いてしまう危険に対して、スピノザの姿勢は十分に対抗できるのではないか、ということでもある。

必然と偶然の関係についての言葉の使い方も、もう少し自分で練習・訓練しないとまだ整理できない。

それでも、「あれかし」と祈ることが、目的から逆に現実を規定しようとすることではない、ということは分かるつもりだ。

今ある現実こそが唯一の現実だというこの著作におけるスピノザ像においては、「可能」の意味も当然変わってくる。

スピノザを読むにはOSを変えないといけない、という意味が、よく分かる。

もう少し整理しつつ、考えてみる必要があるけれど、

「全ては神の本姓の必然性により今あるごとく決定されている」

というスピノザの思想は、悲観的運命論とは全く別の「自由」と「力」に手が届くのではないか、という予感を持つ。

十分に頭が働かないのでそれをまだクリアに書けないのがもどかしいけれど。

目的を徹底的に排除した必然は、ある種の偶然とも呼べるのか。

哲学は、概念を捉え直しながら構築していくものだから、その辺りがついていけないんだろうと思う。
けれど、興味深い。

 

 

 


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (木島泰三)
2022-03-07 00:47:27
コメントはブログ内に反映されないので、前にお送りしたコメントの内容を正確に思い出せないのですが、人間の出来上がった能力を所与としてそこから思索を出発するか、そもそもそのような能力がこの世になぜ存在できているのか、という問いに向かうかの違い、という話をお伝えしたように思うので、その補足をしておきます。

この回のブログでは、次のような考察がありました。

「つまり、著者の言うコナトゥスはあくまで自己に固執する努力と、行為へと向かう力であって、何か「より良き」目的を持っていたりしないのだ。

え、じゃあ人間の『生きる志向性はどこへいっちゃうんだよ』とちょっと思ってしまうが、冷静に考えてくならば、この著者の主張は、かなり説得力があるようにも思えてくる。」

私が言わんとしているのは、自然の基礎的な過程(つまりは神=自然の基礎的な働き)には「意志も知性も属さず」(『エチカ』第1部定理17備考)端的に力のみが属する(同第1部定理34)、というスピノザの思想――これはもちろん、近代の機械論的自然観から超越神を取り除くという、我々の時代の常識と滑らかに整合するわけですが――、を自然の一部と見なされた人間(同第4部定理4)に適用したというだけのことで、つまり自然全般の基礎的な過程は目的論的には進んでおらず、人間精神もその例外ではない、というだけのことしか言っていません。これを超えて、人間という特異な様態がそれ自体のfoxydogs様のお言葉で言えば「人間の『生きる志向性』」のようなものを(何らかの自然的な基盤の上で)目指すということは、今の考察だけからは何ら否定されません。

どんな事物も自己保存への慣性的な力に促されており、この力との関連で「その事物への善/悪」ということは有意味に語りうる、というのが第三部の考察からは導かれます。とはいえ、個物の局所的な関心を格別に配慮したり、格別に妨害したりする意志みたいなものを神=自然=物理法則は備えていない、と、スピノザ思想からすれば言うべきでしょう。

それから、自然学的な原理としてのコナトゥスそれ自身は目的論も自由意志もない「自己保存」への傾きしかない(しかもこの「傾き」も未来志向的なそれではない)と拙著では主張しましたが、拙著では同時に、人間には記憶や連想の能力ゆえに「促進へのコナトゥス」(快〈=促進〉を求め、苦〈=阻害〉を避ける)もまた自然(=必然)から生じてくる、という考察は立てておきました。加えて言えば、人間が自分固有のコナトゥス(内在的原因としての力)を反省することで、自分自身の今現在の本性がどのようなものであり、それを促進するのがどのようなものであるのかの指標も得られてくるものだろう、と私は解釈しています。

なので、私の解釈からは「じゃあ人間の『生きる志向性はどこへいっちゃうんだよ』とちょっと思ってしまう」という部分へのポジティブな応答は用意されています。

ただ、これを提起すると、逆に(?)、「ならばスピノザという古典をわざわざ読む意味はあるのか?」(日常的な自己改善と目的志向の力を別に否定しないとしたら)という、もっと深刻な疑問が生じるのかもしれません。これについては、古典をどのように活かすかについては、色々と開かれた選択肢があるのだろう、というしかないのではないかと思います。

乱文乱筆ご容赦下さい。
返信する
Unknown (foxydogfrom1999)
2022-03-07 03:58:40
木島先生、こんな片隅のブログに、しかも私のざっくりとした感想に、素早くしかも丁寧な応答(補足説明まで!)をいただき本当にありがとうございます。

引用開始
それから、自然学的な原理としてのコナトゥスそれ自身は目的論も自由意志もない「自己保存」への傾きしかない(しかもこの「傾き」も未来志向的なそれではない)と拙著では主張しました
引用終了
の部分、理解できたと思います!


今、秋保亘さんの「スピノザ」の終章を、速度を落としつつ読み直しを終えたところです。

主体として出来上がった思考から見ると〈外〉(秋保亘さん)と表現され、上野修さんの本では異様(だったかと)として語られるスピノザですが、「自然的な基盤」の側から(どちらかといえばより客観的に?)捉えた、のが木島先生の論ということでしょうか。

(引用開始)
同時に、人間には記憶や連想の能力ゆえに「促進へのコナトゥス」(快〈=促進〉を求め、苦〈=阻害〉を避ける)もまた自然(=必然)から生じてくる、という考察は立てておきました。加えて言えば、人間が自分固有のコナトゥス(内在的原因としての力)を反省することで、自分自身の今現在の本性がどのようなものであり、それを促進するのがどのようなものであるのかの指標も得られてくるものだろう、と私は解釈しています。
(引用終了)
これは、『自由意志の向こう側』でも近いお話をされていた記憶があります。運命と偶然など消化しきれていない話題もありますが、響き合わせて再読しながら、その木島先生の「応答」について改めて文章を味わいつつ咀嚼していきたいと思います。

これからスピノザを読むときにも、この「自然的な基盤」という先生の視点を頭に置きながら、改めて読みを進めていきたいと思います。

吉田量彦「スピノザ」読み始めました。普通にスピノザの紹介で話されていたことの文献根拠など、これも丁寧に触れられていて、濃密さを感じました。
今まで読んできた一般書の記述をいろいろ当てはめて、あーそういうエピソードの意味だったんだ、とか、これは不確かな逸話なのね、とか、あの人の論文はこういう風に位置付けて読んでるのね、とか、愉しい読書になりそうです。『神学政治論』のところはスピノザのテキストをまた読み直さないといけませんが。

それから、河村さんの新刊も注文済みです!

本当にありがとうございます。
また機会がありましたらお教えいただけるとうれしいです。
返信する
Unknown (木島泰三)
2022-04-04 02:28:10
コメントへのお返事、今気が付きました。レスポンス遅れて申し訳ありません。理解の補助に慣れたのなら幸いです。
河村さんの御著書、もうお手にとられている頃かもしれませんね。ご感想楽しみにしています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。