クルマに乗っておいて「スポーツ」ってなんだよ、と長い間思っていた。
スポーツっちゃとにかく身体運動だろう。
素人にとっちゃ当たり前の話だ。
運転する楽しさはもちろん知っている。私は職場からの坂道を降りてくるとすぐ、歩いて5分の所に住んでいた初任の時が、いちばんクルマを渇望していた。
なぜってもちろん、
「ここよりほかの場所」
にいつでもどこへでもこちらの意のままに連れて行ってくれるのがクルマだったからだ。
30年を越える運転歴を振り返ってみると、本当に目的地に行くためにクルマを運転した距離と、クルマを運転するために目的地を設定した距離と、どちらがどれだけ多いだろうか、という疑問が湧いてくる。
この疑問を持つ人と持たない人は、もうきっぱり区分できるんじゃないかな?
もちろんクルマ好き(すくなくても運転好き)は後者でなければならない(笑)。
独身の頃買った車はいずれもFFの2BOX(これ、死語かな?もう)。
ファミリアとアコード。
マツダがはじめて出したFFファミリアは、パワステなしだからハンドルが超重く、ダイレクトに地面の感触が伝わってきて面白かった。今でいうとBセグメントですね。アクセラとかゴルフとかティーダとか。
1年4ヶ月で通勤不使用なのに5万キロぐらい走った記憶があります。
彼女に会いに夜中往復150キロぐらい連日走っていたってこともありますが、基本「今、ここ」以外の場所を求める行為の仮の目的地が彼女だった、というだけのことかもしれません。クルマの方が主だった可能性も否定できない(苦笑)。
アコードはホンダの上級車種。コロナとかブルーバードのクラス(今でいえばCセグメント的位置づけですかね?)
で、当時としてはFFなのに上質の走り、みたいな惹句(広告コピー)に惹かれて買いました。
このクルマに乗っていて、冬場の山道で自損事故を起こし、その修理代が払えず彼女から借金をしたのが縛り(決めて)になって結婚することになりました。思い出深いクルマです(4年弱10万キロ)。
さてしかし、子供ができてからはほとんど全ての時間と距離についてクルマ以外の「目的」が付いて回るようになる。
それがイヤだったというわけではない。
ワゴン車を買って、親戚の子供をたくさんつれてディズニーランドにいったり、 友人の子供たちとキャンプにいったりした時は楽しかった。ディーゼルターボのエミーナ(エスティマ)は、人も物も沢山詰めて、しかも燃費が良かった。実用品として合格だったと思うし、船を運転するようなゆったりした操舵感は、それまで味わったことのないものだったし(約8年15キロ)。
けれど一人で走る時、もしくは「私」と「誰か」が対になって走る時、それはその時間と空間がずーっとどこまでも続いていて、永遠に運転していられたらいい、と思う。
ちょうど一人で(もしくは気の合う少数の仲間と)オンラインゲームで、寝落ちするまで戦闘や狩りをしている感とでもいったらいいだろうか。
私にとってクルマは、理念的にはそういう「場所」であり続けていたのだ。
子育てが終わっても、それは変わらなかった。荷物を積む便利さに味を占めて、ユーティリティースペースの大きくてしかもコンパクトなファンカーゴ(これも9年14万キロぐらいは乗りました)
だからクルマは、荷物が積めてどこまでも走れればそれで良かった。
クルマは25年ほど、そういう意味では「ここ」でも「あそこ」でもない「あいだ」の抽象的なゾーンの中に「私」を動的に定位してくれる装置だったわけである。
スポーツっちゃとにかく身体運動だろう。
素人にとっちゃ当たり前の話だ。
運転する楽しさはもちろん知っている。私は職場からの坂道を降りてくるとすぐ、歩いて5分の所に住んでいた初任の時が、いちばんクルマを渇望していた。
なぜってもちろん、
「ここよりほかの場所」
にいつでもどこへでもこちらの意のままに連れて行ってくれるのがクルマだったからだ。
30年を越える運転歴を振り返ってみると、本当に目的地に行くためにクルマを運転した距離と、クルマを運転するために目的地を設定した距離と、どちらがどれだけ多いだろうか、という疑問が湧いてくる。
この疑問を持つ人と持たない人は、もうきっぱり区分できるんじゃないかな?
もちろんクルマ好き(すくなくても運転好き)は後者でなければならない(笑)。
独身の頃買った車はいずれもFFの2BOX(これ、死語かな?もう)。
ファミリアとアコード。
マツダがはじめて出したFFファミリアは、パワステなしだからハンドルが超重く、ダイレクトに地面の感触が伝わってきて面白かった。今でいうとBセグメントですね。アクセラとかゴルフとかティーダとか。
1年4ヶ月で通勤不使用なのに5万キロぐらい走った記憶があります。
彼女に会いに夜中往復150キロぐらい連日走っていたってこともありますが、基本「今、ここ」以外の場所を求める行為の仮の目的地が彼女だった、というだけのことかもしれません。クルマの方が主だった可能性も否定できない(苦笑)。
アコードはホンダの上級車種。コロナとかブルーバードのクラス(今でいえばCセグメント的位置づけですかね?)
で、当時としてはFFなのに上質の走り、みたいな惹句(広告コピー)に惹かれて買いました。
このクルマに乗っていて、冬場の山道で自損事故を起こし、その修理代が払えず彼女から借金をしたのが縛り(決めて)になって結婚することになりました。思い出深いクルマです(4年弱10万キロ)。
さてしかし、子供ができてからはほとんど全ての時間と距離についてクルマ以外の「目的」が付いて回るようになる。
それがイヤだったというわけではない。
ワゴン車を買って、親戚の子供をたくさんつれてディズニーランドにいったり、 友人の子供たちとキャンプにいったりした時は楽しかった。ディーゼルターボのエミーナ(エスティマ)は、人も物も沢山詰めて、しかも燃費が良かった。実用品として合格だったと思うし、船を運転するようなゆったりした操舵感は、それまで味わったことのないものだったし(約8年15キロ)。
けれど一人で走る時、もしくは「私」と「誰か」が対になって走る時、それはその時間と空間がずーっとどこまでも続いていて、永遠に運転していられたらいい、と思う。
ちょうど一人で(もしくは気の合う少数の仲間と)オンラインゲームで、寝落ちするまで戦闘や狩りをしている感とでもいったらいいだろうか。
私にとってクルマは、理念的にはそういう「場所」であり続けていたのだ。
子育てが終わっても、それは変わらなかった。荷物を積む便利さに味を占めて、ユーティリティースペースの大きくてしかもコンパクトなファンカーゴ(これも9年14万キロぐらいは乗りました)
だからクルマは、荷物が積めてどこまでも走れればそれで良かった。
クルマは25年ほど、そういう意味では「ここ」でも「あそこ」でもない「あいだ」の抽象的なゾーンの中に「私」を動的に定位してくれる装置だったわけである。