龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

クルマにおけるスポーツ、ということ(1)

2012年03月10日 12時16分59秒 | ガジェット
クルマに乗っておいて「スポーツ」ってなんだよ、と長い間思っていた。

スポーツっちゃとにかく身体運動だろう。
素人にとっちゃ当たり前の話だ。

運転する楽しさはもちろん知っている。私は職場からの坂道を降りてくるとすぐ、歩いて5分の所に住んでいた初任の時が、いちばんクルマを渇望していた。
なぜってもちろん、

「ここよりほかの場所」

にいつでもどこへでもこちらの意のままに連れて行ってくれるのがクルマだったからだ。

30年を越える運転歴を振り返ってみると、本当に目的地に行くためにクルマを運転した距離と、クルマを運転するために目的地を設定した距離と、どちらがどれだけ多いだろうか、という疑問が湧いてくる。

この疑問を持つ人と持たない人は、もうきっぱり区分できるんじゃないかな?
もちろんクルマ好き(すくなくても運転好き)は後者でなければならない(笑)。

独身の頃買った車はいずれもFFの2BOX(これ、死語かな?もう)。
ファミリアとアコード。
マツダがはじめて出したFFファミリアは、パワステなしだからハンドルが超重く、ダイレクトに地面の感触が伝わってきて面白かった。今でいうとBセグメントですね。アクセラとかゴルフとかティーダとか。

1年4ヶ月で通勤不使用なのに5万キロぐらい走った記憶があります。

彼女に会いに夜中往復150キロぐらい連日走っていたってこともありますが、基本「今、ここ」以外の場所を求める行為の仮の目的地が彼女だった、というだけのことかもしれません。クルマの方が主だった可能性も否定できない(苦笑)。

アコードはホンダの上級車種。コロナとかブルーバードのクラス(今でいえばCセグメント的位置づけですかね?)
で、当時としてはFFなのに上質の走り、みたいな惹句(広告コピー)に惹かれて買いました。
このクルマに乗っていて、冬場の山道で自損事故を起こし、その修理代が払えず彼女から借金をしたのが縛り(決めて)になって結婚することになりました。思い出深いクルマです(4年弱10万キロ)。

さてしかし、子供ができてからはほとんど全ての時間と距離についてクルマ以外の「目的」が付いて回るようになる。

それがイヤだったというわけではない。
ワゴン車を買って、親戚の子供をたくさんつれてディズニーランドにいったり、 友人の子供たちとキャンプにいったりした時は楽しかった。ディーゼルターボのエミーナ(エスティマ)は、人も物も沢山詰めて、しかも燃費が良かった。実用品として合格だったと思うし、船を運転するようなゆったりした操舵感は、それまで味わったことのないものだったし(約8年15キロ)。

けれど一人で走る時、もしくは「私」と「誰か」が対になって走る時、それはその時間と空間がずーっとどこまでも続いていて、永遠に運転していられたらいい、と思う。
ちょうど一人で(もしくは気の合う少数の仲間と)オンラインゲームで、寝落ちするまで戦闘や狩りをしている感とでもいったらいいだろうか。

私にとってクルマは、理念的にはそういう「場所」であり続けていたのだ。

子育てが終わっても、それは変わらなかった。荷物を積む便利さに味を占めて、ユーティリティースペースの大きくてしかもコンパクトなファンカーゴ(これも9年14万キロぐらいは乗りました)

だからクルマは、荷物が積めてどこまでも走れればそれで良かった。

クルマは25年ほど、そういう意味では「ここ」でも「あそこ」でもない「あいだ」の抽象的なゾーンの中に「私」を動的に定位してくれる装置だったわけである。

3/11からの避難

2012年03月09日 00時50分55秒 | 大震災の中で
3/11を外したい、とここのところずっと考えている。

3/2と3/9の「ア・ピース・オブ・警句」でも、小田嶋隆が同趣のスタンスで書いていた。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081022/174784/?rt=nocnt

3/11は「無理すんなよ」の日にしよう、ってのがいい。

ブログ「考えるネコ、走るイヌ【福島市の生活】」
にも、友人がこう書いていた。
「仕事から逃げるように鶏ガラスープを作る」
http://plaza.rakuten.co.jp/gato814/diary/201203030000/

いいフレーズだ。

また、別の友人のブログにもこんなことが書いてある。

>今回の震災以降、人間と自然という二元論が多用されてイライラさせられた。
>しかし、震災があぶり出したのは、そのような二元論のお気楽さではなかったか。
>自然は人間にとっては、ついに対象化できない。
>それに対しては畏れるしかないし、祈るしかない自然について忘れるべきではない。
「yam*kaw*se*ninのブログ」
http://blogs.yahoo.co.jp/yamakawasennin/folder/430689.html#12214785



私は手になじむ方法、逃避と逃走で3/11をやり過ごそうとしている。



孤独死について

2012年03月09日 00時38分26秒 | 社会
「孤独死」のニュースがTVで流れている。

でも、ちょっとひねくれて言わせてもらえば、死ぬときはおそらく、誰だって「一人」なのではないか。

一人で生きることが出来て初めて、「孤独死」がクローズアップされる。

一番の課題は都会の中での「孤立」ではなくて、一人で生き、一人で死ぬことがこれから「当たり前」になっていくであろう変化に対して、社会の「瞳」や「システム」が追いついていない現状なのではないか。

別に親しくもない隣近所の人に毎日チェックされたら、私が独居老人だったとして、うんざりするだろうと思う。
もちろん、近所づきあい=人間同士のお付き合いは大切だが、「死んだ時」を素早く察知するとか「死ぬ前」に察知して病院送りにするのを主目的としてチェックを入れられても、正直挨拶に困る。

セキュリティシステムとか、要請があればそんなにコストをかけずに医療や行政が、「独居老人」もしくは「弱者寄り添い世帯」を支えることは可能なはずだ。

敢えて「個」=「孤」を選ぶ都会の隠棲者の静謐を乱す必要はなくて、さまざまな形の支援を提供するオープンな行政政策は、ネットワークを利用すれば、システムとして安価に実現できるんじゃないかなあ。

隣近所とか、無理でしょう、もはや。
市役所だって全世帯の動向をいちいち日々手作業でフォローするのはありえない煩雑さだろう。

ただ、そういう行政サービスを自ら利用することができる、情報や人的ネットワーク、積極さ、余裕がある人はたいていその他の面のセーフティーネットも持っていて、「孤独死」というか周囲から隔絶した形で最期を迎えてしまう個人や世帯は、行政の支援システムの前提から既にこぼれ落ちてしまっているのが現状なのかもしれない。

そこの根っこは深いのかもしれない。

そういう境遇にある多くの人は、病院に行くことを望まずに死を迎えるわけでもないだろうし、食べ物すら手にいれられずにいることを自ら選択しているわけでもないだろう。

基本的な生存権を支える支援「システム」のネットワークを整備し、道具としてそれが使えるようにすることと、そういう支援の「情報」が、生存権に直結しているのだという私達自身の自覚(と行動)が必要になる。

難しい。
「今まで通り」じゃダメ、なことは分かる。だったら、どうすることが前に進むことになるのか。
考えて、一歩進む。
それが必要だねぇ。

やっぱり、何について考えていても、考えているうちに、東日本大震災と原発事故のことに思考が自然と還ってきてしまう。
「今まで通りじゃだめだ」
と思いつつも、
「普通に生きること」
に懸命で、そのことでいささかならず「疲弊」しているという自覚を抱えて、とりあえず「1周年」からは逃避したい、とも思っている。

「孤独死」した人は、こんな風にいっときニュースになって、その後忘れられていくことを望んだわけでもないだろう。
彼らは本当はどうしたかったのか。
誰かに助けてもらいたかったのか。
私達生きている側の人間は、何をすべきだったのか。そして何をしていくべきなのか。
亡くなった人達には何かできることはなかったのか。どうしてそこにたどり着いてしまったのか。

取り返しの付かないこと、を考えていくと、いつしか同じ場所にたどり着く。
しかし、その「取り返しのつかない」という意味での「人為のリミット」=「裂け目」の前に立ちつつ、なおも思考しようとする時に見える世界像を、なぞっていく必要がある、と感じる。

「孤独死」がなにか簡単な問題にすり替えられるのだけは避けたいと思うのだが、うまく形にできないままだ。






ガソリン代の高騰と燃費の比較。

2012年03月08日 21時58分28秒 | ガジェット
普通のガソリン車を購入したら、とたんにガソリン価格が上昇しはじめた。

憂鬱な話だ。

一説には「現行プリウスはトータル燃費20km/lを下らない」とも聞く。
http://kuru-ma.com/toyota/prius.html

近いワゴンタイプでいえばプリウスαも東京→福岡1000キロの高速走行で約20km/l。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20120307/1039948/?ST=life&P=7

高速中心だとこの程度だが、どちらも街中だと燃費がた落ちのガソリン車に比べてさらに有利、ということになるのだろう。

燃費は運転の仕方、使い方、道路状況に因るので、一概にどうこう言えないが、実質燃費8万キロで11km/lジャスト(ハイオク)のロードスターを運転する身としては気になる。

加えて新規購入したレガシィの燃費も大いに関心事だ。

レガシィは街中渋滞気味だと6km/l~8km/l、高速巡航だと13km/l~15km/lぐらい。
一部ワインディングを含む長距離高速中心
東京~東北道~那須~日光~関越道~東京のコース500キロ走って11.7km/l
http://ecocar.autoc-one.jp/nenpi-review/351699/

現行ロードスターと1km/lも違わない。やれやれ。レガシィの方は、レギュラー仕様だからその分ちょっと違うだけだ。

現在レギュラーガソリンが1リッター142円ぐらい。

走行年間15000キロとすると
       使用燃料 ガソリン代
レガシィ  1282 182,051円
プリウスα 500     105,750円

その差年間約7万6千円。同僚が買ったプリウスαは乗りだし価格が私が買ったレガシィより40万近く高かったから、6年弱で追いつかれるぐらい。

おお、思ったほどの大差じゃかった(ほっ)。

レガシィの購入目的は高速ロングツーリングが主体だから、快適性と運転の楽しさを考えるとそれほど愚かな選択でもなかったか。

それにしても、全く関係ないジャンルで絶対購入しないものなのにどうしても気になってしまう。

「燃費」というイメージの持つ力は強大だ。

さてでも、2012年春現在、本気で燃費を考えるなら、

軽自動車か、HV車か、欧州で人気の新型ディーゼルか、ほぼこの3つしか選択肢はないと思う。
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819696E3E4E2808A8DE3E4E2E0E0E2E3E09F9FEAE2E2E2

走行燃費と車体価格でいえば、HVではフィットシャトルHVがベスト。

同僚が買ったFITシャトルHVは、既にしてレガシィより乗り出しで60万安いから、最初から勝負にならない。

新型ディーゼルでは間違いなく本命はマツダのCX-5に搭載されているスカイアクティブディーゼル。

カタログ値と実質燃費の差がほとんどなく、軽油のコスト差まで考えればランニングコストはプリウスαに勝つかも。
HVは渋滞の時に燃費がすごくよく、むしろ距離の稼げる高速で意外に燃費が伸びない。

今時のガソリン・ディーゼル車はオートマのプログラムがすごくよくなっていて、実燃費はそんなに(高速道路では)HVと変わらないのだ。

マツダはこれ、ヒット商品になるかもしれない。

日本人のディーゼル嫌いがどこまで解消されているか、興味深いところ。補助金とかなんかを考えると、280万円ぐらいで手に入るらしい。オーディオ分値引きしてもらえるぐらいだと、本当にお値打ち。

でも、結局トータルコストでいえば新型の低燃費軽自動車が圧勝かな。

売れるわけです。

さて私は、むしろ積極的に「運転する贅沢」を味わわなくちゃ!


アニバーサリーリアクション

2012年03月08日 20時47分41秒 | 大震災の中で
職場で、「アニバーサリーリアクション」の危険があるから注意してほしい、という連絡があった。
そう言われるまでは考えていなかったけれど、3月になってから、このブログ更新がとどこおっている。
意識しないうちに、回避=逃避モードに入っていたのかもしれない。

音楽とクルマに関心が行くっていうのは、そういうことかなあ。

父親の一周忌の「人寄せ」をお彼岸に内輪でやるのだけれど、はっきりした葬儀をせずに、身内のお通夜と読経だけで見送った区切りのつかなさは、これもまた微妙な陰影を醸し出しているような気も、する。

いや、だが一方では、「区切り」ってなんだろう、とも思うのだ。
震災前と震災後、父親が死ぬ前と死んだ後で、

「何も変わっていない」
と思う自分と
「取り返しがつかぬほど別のところに来た」
という思いとが交錯し続けている、ような気もする。

「アニバーサリー」というけれど、それはもちろん、季節感などという具体的なものとは別に、社会=人間があるスパンで物事を考えるその切り分けの身振りに依拠することで作り出された「時空間」での話だ。

半分はそのサイクルに沿って「私」は確かに生きているけれど、そういう「サイクル」こそが裂け目を帯びたのが、そのときだったとするなら、1年後のその日に向けて「盛り上がる」ためには、いささか「素直さ」が底をついていると言わねばなるまい。

今はむしろ、少し休もうと思う。
気持ちを休めて、忙しい年度末&年度初めの仕事をこなしていこうと思う。
喧噪をやり過ごしたら、また、ここで考えていくことにする。

たぶん、何もしないで普通にしていることに、既に「疲れ」を感じているのだ。

このまま無気力になるわけにもいかないから、最後の武器である「多動児的」なる身体反応にお出ましを願って、しばらくその辺をうろうろしてみるつもりです。

でも、だんだんゆっくりじっくり腰を据えて「仕事」をしなければならない時期になってきているとも思う。



声楽アンアンサンブル福島大会のCD

2012年03月04日 13時26分44秒 | 大震災の中で

が届きました。

第28回声楽アンサンブルコンテスト福島大会
日時:平成23年12月9日~11日
場所:福島市音楽堂
高校金賞受賞は以下の10団体。

郡山東高校混声合唱団
郡山高校女性合唱団
喜多方高校C
福島高校B
福島東高校B
橘高校B
郡山高校A
安積黎明高校B
安積黎明高校A
安積高校B

なんといっても最優秀だった郡山東高校混声合唱団の

Le chant des oyseaux(鳥の歌)

が圧巻。

なにしろ福島音楽堂は残響響の時間が長いので、16人以下の制限があるアンサンブルコンテストを楽しむにはむしろもってこいなのです。(確か三月には全国大会もあるんじゃなかったかな?)

だから私のような素人の合唱好きにとって、音楽堂&少人数アンサンブルは、とっても響きがよくて最高の組み合わせのようなのです(NHKの合唱コンクールも昨年ここでやったのですが、大人数の合唱では、残響が長すぎて何がなんだかわかりませんでした)。

最優秀だった郡山東の鳥の歌は、途中まるで「ケチャ」みたいな鳥の声を擬した掛け合いがあり、それがとってもパワフルでかつ歯切れが良く、新鮮でした。

きれいなだけ、よりも強い印象でしたね、やっぱり。演奏者にとっては響きをも計算しなければならないから、響けばいいってものでもないんでしょうが。
さて、この前合唱の指揮者さんと昼食をとる機会があって、
「合唱は、CDはもとより学府も売れないから、いい曲でも出版されないんだ」
という話をききました。

作曲者も、演奏してもらえないとしょうがない(何も残らない)から、有名な団体に依嘱して演奏を録音し、残してもらいたい、ってこともあるのだそうです。

作曲家に高校生の団体が作品を依嘱するってのはなんだか贅沢、と思っていましたが、作曲家の方にとっても場合によっては必要なことだったりするのですねえ。

考えてみれば、演奏するべきステージがどれだけあるのかって話にもなりますよね。

そういえば、ネットなどでも
「ようやくあの曲が出版される!」
なんて話題を読んだ事があります。
当たり前じゃん、と思っていたけれど、いい曲が流通するとは限らないんですね。

いろいろ難しいですね。

でもやっぱり人間の声は最高です。




澤正宏教授の退官記念発表概要

2012年03月04日 01時13分52秒 | 大震災の中で

西脇順三郎の研究の第一人者、福島大の澤正宏先生が3月で退官するにあたり、最終講義に代えての発表が2/18、福島大学で行われました。
その時のメモをメディア日記(下記)にアップしました。

詩についての講義なのでメモだけじゃ分かりにくいかも、ですが、最近自分で聞いたことさえ忘れてしまうので本当の忘備録として。

メディア日記
「西脇順三郎の詩に見られる流浪・漂泊の表現」(概要メモ)
http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980346

興味深かったのは、西脇順三郎はヨーロッパ文学・文化に深い造詣がありながら、キリスト教と距離を取りつつ、文学的意匠(シュールレアリスムみたいな)としてでもなく、日本の近代詩的な抒情(藤村的な)とも無縁なところで、「思考のスタイル」としての詩の達成を成し遂げたってところでした。

西脇といえばまずなによりもちりばめられた博該な知識に圧倒されるという印象があって、「とても読めないなあ」と敬遠気味にしていたけれど、今回の講義を聞いて興味がわいてきました。

まず、戦後の詩の方からでも触ってみようかしら。



新型レガシィツーリングワゴンを買った(4)

2012年03月01日 01時05分56秒 | ガジェット
 やっとクルマ自体の話にたどりついた。

スバルの新型レガシィツーリングワゴンは、スバルファン、従来のレガシィファンには評判の悪いクルマだ。
大型化・高級化しすぎた、デザインが悪く内装も安っぽい、日本市場を無視して北米市場のニーズに合わせたなどなど。
「乗ってみれば悪くないのだが」
と留保は付くものの、「最適化」という時代の流れに逆行している、という批判は強い。

売れ行きもそれほどよいというほどではないらしい。

もっとも、売れないということではロードスターは月産200台程度だろうから、その10倍ぐらいは売れている。
売れる売れないと善し悪しは別だが、まったく需要がなければ市場から消えるだけだろう。
そういう意味では、消えない程度には売れているということか。
しかし、レガシィはスバル(富士重工)の主力車種だから、そこそこ売れるだけではいかんはず。

ハイブリッドカーか軽か新型ディーゼルか、しか話題に乗らない時代でもある。

そんな流行らないクルマを、なぜ「衝動買い」することになったのだろう。
ずっとそのことを考えている。
自分にとっての「衝動」とはどこから来るのかってことだ。

ベンツCクラスも乗った。マークXも乗った。BMWも乗った。
それぞれ良いところがあるクルマだ。

でも、「衝動買い」はしなかった。

若い頃ならば「欲しい」という気持ちが勝っていただろう。盛り上がってしまえば後先関係なく、それこそ「衝動買い」をしていただろう。

ところが最近は、いったんそんな「気分」になった時でも一度立ち止まって考えるようになった。

無駄な買い物はしないようになった、という言い方もできる。衝動が弱くなった、という見方も可能かもしれない。

さてでは、「衝動買い」は無駄な買い物なのか?

役にたてば「衝動買い」ではないのか?

うむむ。

じゃあレガシィの何が良かったのか、その選択基準は何か、といえば、
「長距離を安心して、疲れずに走れる」
という一点に尽きる。

瞬間的な出会いの「衝動」で伴侶となったロードスターは、長時間運転してもまだ足りない、いつまででもハンドルを握っていたいというタイプのクルマだ。
なにせ屋根を開けてハンドルを切ってカーブを曲がっていればそれで幸せになれるクルマだし、「人馬一体」というか、重心が自分自身の中にある(個人的には、これがスポーツってことなんだと私は思っている)という感覚は希有なものである。
2シータ-ライトウェイトオープンスポーツという文化そのものに乗っている、といってもいいだろう。そのいささかチープな感じをも含めて、唯一無二のものなのだ。

他方、レガシィツーリングワゴンは、徹底的に道具としての技術を多層化した商品である。その結果、自社が育ててきた4代目までのレガシィの文化から離れてしまった、と批判されてしまったわけだ。

言われてみれば、今までは日本規格の唯一無二な4WDツーリングワゴンという「文化」を背負っていたのに、その企業とユーザーが共有していた「文化」に敢えて背を向けて、機能のレイヤー化を果たした「商品」という感じがしなくもない。

それでも、いったん中・高速コーナーでハンドルを切れば、レガシィの名にふさわしいいかにも水平対向エンジンの低重心と4WDらしい安定した曲がり方をしてくれる。
音は静かで滑らかな加速をし、アイサイト2.0という先進の安心装備がたった10万円で付加される。
クルマも広くなったし(といっても1BOXワゴンよりは幅は狭いし背も低いから、拡大しすぎというほどではない)、高級化といっても200万円台半ばから購入できる。

そんなにまで悪評さくさくにならなくてもいいのでは?

機能的には十分すぎるほどなのに、雑誌やWEBの専門家試乗レポートでも、一般の人の口コミでも「不満足」なコメントがずらりと並ぶ。

ここには、クルマ文化の受容についての大きなギャップがありそうな気がするのだが、問題はそのこと自体ではない。

第一、私はクルマ文化なんぞというものについては素人もいいところなのだし、新型レガシィが如何にその自社=自車の伝統を踏みにじったか、なんてことは、昔のクルマをよく知らないのだから、コメントのしようもない。

とりあえずは、機能と値段から見て圧倒的にお買い得だ、と思ったからつい買ってしまったというだけのことだ。

でもそれがどうも、「他人がどう思おうと、自分が良ければいい」とかいった匙加減の問題の枠組みに納めることができないような気がしてきたのである。
だから、こんな風にしてぐだぐだといろんなことを書いている。

ロードスターの時は、いくら周囲があきれても、こんな気持ちにはならなかったのだ。
考えてみれば、今までのクルマの選び方は、結局のところ、雑誌や評判のいいクルマを選んできたような気がする。

初のFF化でカーオブザイヤーを受賞した「ファミリア」
ホンダの主力車種で当時人気だった「アコード」×2
ミニバン人気の走りだった「エスティマ」
コンパクトカー流行の元祖「ビッツ」
そのユーティリティーカーモデル「ファンカーゴ」
クルマ愛好家に愛される「ロードスター」

自分では意識していなかったけれど、結果としては世間で評判のいいクルマばかり選んでいたような気がする。
1,クルマなど本質的にはどれでもいい、ということは分かっていて、
2,自分が欲しいものを選んでいるつもりでいて、
3、結果としてはいつも、他者が高く評価するものを選んでいた
ということなのだろう。


こうして自己分析をしてみると、評判の良いクルマの中で、自分の「衝動」との無意識的な擦り合わせをしていたような気がする。
それが、「ロードスター」では、自分の衝動と、クルマ愛好家というかエンスージアストたちのコメントが幸福な一致を見た。

さて、この新型レガシィツーリングワゴン購入は、そのいずれのパターンでもなさそうだ。
確かにレガシィは国産4WDの老舗スバルのブランドとして、昔から乗ってみたいクルマの一つだった。

だが、いざその機会が巡ってきたら、あまり(に)評判がよろしくないのである。

技術的に評価できる部分は多くあるはずなのに、トータルとしての「文化」、あるいは「アイデンティティ」を見失った、あるいは「時代に逆行している」といった否定的な批評が積み重ねられている。
不思議なクルマだ、と思っていた。そこまでけなさなくても、とも覆う。

そしてそうなると逆にまた、興味も惹かれる。

怖いモノ見たさで試しに乗ってみよう、と試乗したら、これがなかなかによろしいのだ。

室内は静かで、エンジンのフィーリングも滑らか。
出力を三段階に切り替えるスイッチがあって、燃費優先→加速重視→飛ばしたがりモード、と切り替えられる。
室内の広さはセカンドシートを後ろにスライドさせたミニバンに近いほど。
CVTという無段変速機もヘタなATよりスムーズで自然。
そして安全装備のアイサイト搭載。
いったんハンドルを切ってカーブを曲がれば超がつくほどの安定性を感じさせてくれる。

問題なのは唯一燃費が悪いということぐらいか。

たしかに、機能満載のクルマなのに、燃費性能と適正なサイジングという時代のトレンド二つを見事に取り落としている(笑)。

自分の「衝動」と他者評価の幸福な一致が「ロードスター」だったとすれば、
自分の「衝動」と他者評価の典型的な不一致が「新型レガシィ」だったのかもしれない。

どちらのクルマも試乗しているうちに「あ、これだ」という感触があった。
それはどちらもハンドルを切ってGを感じた時のことである。

前者のクルマのそれは回頭性という変化の挙動のスムーズさであり、後者のクルマのそれはすぐれたライントーレス性というスタビリティの感覚だった。

どちらもそこに身体で感じる「価値」が存在していた。

それでいて、ロードスターはオープンスポーツという「文化」の物語が付加価値としてあり、他方レガシィはそれとは対極的に、長距離移動の快適性という道具としての機能が付加価値としてある。

ロードスターは、1週間とか10日とか時間をかけて高速で長距離を運転しつづけるには、曲がることが楽しすぎて疲れるし、音もうるさい。それでもなお運転しつづけたくなるのがロードスターではあるにしても。

だから、ロングツーリングをする最適解はやはりレガシィだったのだ。

それなら、アテンザワゴンでもアコードワゴンでもいいじゃないか
というのはその通り。

あるいは、運転を楽しむのではなく、むしろ長距離を安心して疲れずにゆったりと過ごすことに重きをおくならベンツCクラスステーションワゴンの方がいろいろ良いもしれないとも思う。アテンザはATの感触がスムーズではなく、Cクラスは4気筒1.8リッターターボの感触が必ずしもスムーズではない。アコードは考えもしなかった(笑)。

そんなこんなでレガシィのワゴンを購入。
これがムダな道楽なのか、ムダではあっても人生を豊かにしてくれる「贅沢」なのかは、たぶんこれからの負債の返し方にかかっているのかもしれない。その辺りが「消費」の満足に過ぎないのか「贅沢」の豊かさなのか、の分かれ目にもなるのだろう。どんな楽しみ方が出来るのか、が楽しみ、ということだね。


ちなみに、職場で同じ学年を担当している同僚も二人がこの二週間で新車を購入した。

一台はプリウスα、もう一台はフィットシャトルハイブリッド。

いずれも実燃費で17km/l~20km/lはいきそうなトレンドリーダーのクルマたちだ。

一リットルで7キロ距離に差があったら、1万キロだったら、7000キロ分高燃費車の方がお得という計算になる。
一リッター150円程度だとすると10万円の差。10万キロ走ったら、軽自動車一台分の差額が出る。

プリウスαは実際的グレードをえらべばそれなりに高額だから実はエコイメージ先行商品だが、フィットは低価格車だけに、燃費の差はそのまま経費の差だ。

高速道路を長距離区間、ゆったり流してクルージングを楽しみながら、どれだけ「贅沢」を味わうのか。

ドゥルーズの語るヒュームは、懐疑の情念におけるリミットとしての「道徳」を考察していた。
「贅沢」と「道徳」はなんの関係もないみたいだけれど、私は必ずしもそうではない、と考えている。
「衝動」が、単なる消費依存的な相対的差異の快感に還元される底のものではない、とするならば、そこに存在するべき「他者」について、もう少し考えてみる必要はあって、それはドゥルーズの語るヒュームのいる場所と、まんざら無縁というわけでもないのではないか、と思うのだ。

「衝動」に自己も他者もあるもんかい、ってことになるのだろうか。そうかもしれない。でも向こうからこちらがわに「還ってくる」ものが確実に存在すると思うよ。「衝動」は、単に内発的に自分の中から外にあふれ出るばかりのものではないはず。

この項目もぐだぐだしつつ続きます。