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住光子著『道元』について

2006-04-06 17:14:23 | Weblog
4月6日(木)晴れ【住光子著『道元』について】

3月22日のブログにご紹介した住光子著『道元-自己・時間・世界はどのように成立するのか』(NHK出版)について、紹介した以上もう少し補足しなくてはならない。特に疑問のある数箇所について述べたい。

住氏の坐禅のとらえ方として、その54頁に「禅宗においては、坐禅、すなわち、呼吸を調節しながら一定の姿勢をとっておこなう瞑想の修行が重視されたのであるが」との記述がある。道元禅師の坐禅は瞑想とは異なる。どのように異なるかの説明がいるところであるが、簡便に説明ができないのでご容赦願いたい。とにかく目を瞑って、いろいろと想像をめぐらすような瞑想ではない、ということを明記したい。

また12頁に「『正法眼蔵』は弾圧と都落ちという、通常の修行生活がままならない苦難の日々のなかでもっとも盛んに書かれている。」とあるが、「弾圧と都落ち」はさておいて、道元禅師にとって修行生活ならざる生活があったのであろうか。何処にあっても、何時であっても、どのような状況にあっても、道元禅師にとっては、修行生活でない生活はなかったのではなかろうか。修行を「通常の修行生活」というようにパターン化することはできない。

坐禅についても修行についても、道元門下としては、住氏のように安易にはとらえられない重要なキーワードである。

またこの書の根底にあるのは、47頁にもあるように、「仏教、とりわけ大乗仏教の基本教説であり道元思想の中心軸でもある無自性-空の立場」のように道元禅師の思想をとらえているのであるが、果たしてこのように断定することは可能であろうか。

曹洞宗総合研究センターから出された『宗学研究紀要』17号に掲載された金子宗元氏の論文には、道元禅師は「空思想の弊害である「撥無因果」を批判する為に、空思想をも批判する」」立場をとっていると書かれている。

筆者も「深信因果」巻を殊に参究したが、金子氏の論文によって理解を深めることができた。道元禅師は因果を撥無するような空思想に対しては批判の立場をとられている。

『正法眼蔵』の注釈書として、住氏の注釈も含め、幾人かの先人の書が世に出ている。それら注釈書をみてみると、それぞれ異論を唱えられる箇所や、注釈者の視点自体根底から反論を唱えられるものもあるだろう。はたしてどの注釈書がもっとも正しいものであるか、判定することは非常に困難なことであろう。

私のブログをご覧下さった方に対して、紹介した責任として上記のことを補足させて頂いた次第である。私としては住氏の注釈に対して疑問もあるが、さらに学ばせていただきたい視点も多々ある。他を批判することは容易いが、他に批判されるようなものを、世に提供することは誰にでも出来ることではない。違う視点があるからといって、即批判排除するようなことは避けたい。