4月28日(金)晴れ【教育に関する私論その1-可愛い子にはボンヤリさせよ】
最近、少年が母親を包丁で刺すという悲しい事件が起きた。母親が「勉強しろ」と口うるさいからというのが理由だという。それだけではなく、他にもいろいろと問題があるのだろうが、どのような理由があるにせよ親を刺すなどということは、想像だにできないほどのことである。
昨今、あまりに少年少女による残忍な事件が多すぎる。このことについて心を痛めない人は少ないだろう。親に対してのみならず、加害者となる子どもたちに対しても、本当に気の毒に思えてならない。どうして親殺しをしようなどという子どもに育ってしまうのか、考えてみたい。
このような事件が起きるたびにテレビでコメントされるN・O氏とは、同じキャンパスで学んだ者でもあるし、大学時代机を並べた友人たちの多くが教師、大学入学当初、私も教師志望であったので、教育について全くの門外漢でもないと思うので、教育、特に初等教育についての私論を、何回かに分けて述べさせて貰ってみたい。そのような資格的なことよりも、私は心底子どもたちが心配なのだ。
今の子供は忙しすぎる〈可愛い子にはボンヤリさせよ〉
小学生ぐらいまでは、あまり勉強ばかりさせないほうがよいと、つくづく思う。勉強塾やらなにやら、またテレビゲームやら、子供たちは常に忙しく何かをしすぎている。
百ます計算の陰山英雄先生も、子供の学力を上げるために大事なこととして、ぼーっとする時間、をあげていた。このことは『月刊プレジデント』で読んだのであるが、今手元にないので正確さに欠けるが、確かにこの項目があり、驚くと同時に我が意を得たりとも思った。ボーッとしている時間はとても大事だと思う。
藤原智美氏の『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』(祥伝社)という本の中に、やはりボーっとしている時間の大事なことが書かれている。この本は今、幼児の描く絵に、腕のないお母さんの絵が多いことに奇異な感じを受けた著者が、その原因を探ろうと試みた書である。現代の幼児に起こっている異変に目を向け、その問題点に気づかないと、「あと数年でこの事態が、とりかえしのつかない亀裂を、この社会と人間関係におよぼすと残念ながら確信せざるをえない。」と危惧している。
今回はこの書のなかから、ボーっとしている時間に関して書かれていることを、まず取り上げてみたい。「なぜ子どもに「未来」を強要してはいけないか」の章に〈退屈をすごす技術こそ生きる力になる〉という項目がある。そこにカナダのヘヤー・インディアンのことが紹介されている。「彼らは仕事をするときも、遊んでいるときも、かならず手を休めて一息入れるという。それは意識的にする行為で、そのとき彼らは横になったり、瞑想にふけったりする」それは「人格の統合を行うことが存在のために必要」だと彼らが考えているからであり、休むことはそのために必要であるということになるのだという。
「彼らにとって、ボーっとしている時間は、働いているときより、遊んでいるときより、ずっと重要で人間的な時間なのだ。だからこそ、だれかがただ漫然と景色をながめているようなときでも、けっしてそれを邪魔してはいけないというのだ。それは彼らのなかでは、神との対話、とも理解されている。いま子どもたちからこうした貴重な時間が奪われている。」(『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』215頁)
と、このように記されている。私もこの頃の子どもたちに、ボーッとしている時間が足りないのではないかと、想像していた。藤原氏の本を手にしたのは、この書のタイトルから、おそらく今の子どもたちの問題点について言及されている書であろうと推察したからであるが、藤原氏もボーッとしていることの大事なことをとりあげているので、やはりそうであろうと、あらためて確信したのである。
振り返ってみれば、ほんの五十年前であるが、私の子どもの頃はテレビもなければ、テレビゲームもない幸運な時代であった。裏山に登ってボンヤリと町を見下ろす時間は十分にあった。川のほとりで川面を見ている時間も十分にあった。漫画を読むのに疲れたら、頬杖をついて、ボーっとして外を見ている時間も十分にあった。
残念ながら、私には科学的根拠についての論究はできない。しかし頭を休めてボーッとしたとき、天地のエネルギーが脳に吹き込んでくるような感じさえする。ヘヤー・インディアンの人々も「神との対話」とさえ理解しているではないか。
いつもなにかに追われている子どもたちに必要なことは、ボンヤリする時間ではなかろうか。「勉強しなさい」と小うるさく言うのはやめて、「ボンヤリしなさい」と言ってあげてはどうだろう。百ます計算の陰山英雄先生がおっしゃっているということは、説得力になろうか。藤原智美氏も言っている。ボンヤリすることの大事さを。
一人子どもにボンヤリさせるだけでなく、親も一緒にボンヤリしてはどうだろう。子どもが幼児の時から、親が一緒に大海原をともに眺め、山に行っては雲海や、眼下に広がる町を眺めたり、お家の窓から空を眺めたり、ボンヤリ時間を共に過ごしたら、そんな時間の積み重ねが、親と子の絆を深め、親を刺し殺そうとするような気の毒な子どもを生み出さない、確実な一つの方法であると思うのである。
大人もボンヤリ時間を持とう。天地からのエネルギーですよ。大人にも余裕が必要でしょう。
最近、少年が母親を包丁で刺すという悲しい事件が起きた。母親が「勉強しろ」と口うるさいからというのが理由だという。それだけではなく、他にもいろいろと問題があるのだろうが、どのような理由があるにせよ親を刺すなどということは、想像だにできないほどのことである。
昨今、あまりに少年少女による残忍な事件が多すぎる。このことについて心を痛めない人は少ないだろう。親に対してのみならず、加害者となる子どもたちに対しても、本当に気の毒に思えてならない。どうして親殺しをしようなどという子どもに育ってしまうのか、考えてみたい。
このような事件が起きるたびにテレビでコメントされるN・O氏とは、同じキャンパスで学んだ者でもあるし、大学時代机を並べた友人たちの多くが教師、大学入学当初、私も教師志望であったので、教育について全くの門外漢でもないと思うので、教育、特に初等教育についての私論を、何回かに分けて述べさせて貰ってみたい。そのような資格的なことよりも、私は心底子どもたちが心配なのだ。
今の子供は忙しすぎる〈可愛い子にはボンヤリさせよ〉
小学生ぐらいまでは、あまり勉強ばかりさせないほうがよいと、つくづく思う。勉強塾やらなにやら、またテレビゲームやら、子供たちは常に忙しく何かをしすぎている。
百ます計算の陰山英雄先生も、子供の学力を上げるために大事なこととして、ぼーっとする時間、をあげていた。このことは『月刊プレジデント』で読んだのであるが、今手元にないので正確さに欠けるが、確かにこの項目があり、驚くと同時に我が意を得たりとも思った。ボーッとしている時間はとても大事だと思う。
藤原智美氏の『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』(祥伝社)という本の中に、やはりボーっとしている時間の大事なことが書かれている。この本は今、幼児の描く絵に、腕のないお母さんの絵が多いことに奇異な感じを受けた著者が、その原因を探ろうと試みた書である。現代の幼児に起こっている異変に目を向け、その問題点に気づかないと、「あと数年でこの事態が、とりかえしのつかない亀裂を、この社会と人間関係におよぼすと残念ながら確信せざるをえない。」と危惧している。
今回はこの書のなかから、ボーっとしている時間に関して書かれていることを、まず取り上げてみたい。「なぜ子どもに「未来」を強要してはいけないか」の章に〈退屈をすごす技術こそ生きる力になる〉という項目がある。そこにカナダのヘヤー・インディアンのことが紹介されている。「彼らは仕事をするときも、遊んでいるときも、かならず手を休めて一息入れるという。それは意識的にする行為で、そのとき彼らは横になったり、瞑想にふけったりする」それは「人格の統合を行うことが存在のために必要」だと彼らが考えているからであり、休むことはそのために必要であるということになるのだという。
「彼らにとって、ボーっとしている時間は、働いているときより、遊んでいるときより、ずっと重要で人間的な時間なのだ。だからこそ、だれかがただ漫然と景色をながめているようなときでも、けっしてそれを邪魔してはいけないというのだ。それは彼らのなかでは、神との対話、とも理解されている。いま子どもたちからこうした貴重な時間が奪われている。」(『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』215頁)
と、このように記されている。私もこの頃の子どもたちに、ボーッとしている時間が足りないのではないかと、想像していた。藤原氏の本を手にしたのは、この書のタイトルから、おそらく今の子どもたちの問題点について言及されている書であろうと推察したからであるが、藤原氏もボーッとしていることの大事なことをとりあげているので、やはりそうであろうと、あらためて確信したのである。
振り返ってみれば、ほんの五十年前であるが、私の子どもの頃はテレビもなければ、テレビゲームもない幸運な時代であった。裏山に登ってボンヤリと町を見下ろす時間は十分にあった。川のほとりで川面を見ている時間も十分にあった。漫画を読むのに疲れたら、頬杖をついて、ボーっとして外を見ている時間も十分にあった。
残念ながら、私には科学的根拠についての論究はできない。しかし頭を休めてボーッとしたとき、天地のエネルギーが脳に吹き込んでくるような感じさえする。ヘヤー・インディアンの人々も「神との対話」とさえ理解しているではないか。
いつもなにかに追われている子どもたちに必要なことは、ボンヤリする時間ではなかろうか。「勉強しなさい」と小うるさく言うのはやめて、「ボンヤリしなさい」と言ってあげてはどうだろう。百ます計算の陰山英雄先生がおっしゃっているということは、説得力になろうか。藤原智美氏も言っている。ボンヤリすることの大事さを。
一人子どもにボンヤリさせるだけでなく、親も一緒にボンヤリしてはどうだろう。子どもが幼児の時から、親が一緒に大海原をともに眺め、山に行っては雲海や、眼下に広がる町を眺めたり、お家の窓から空を眺めたり、ボンヤリ時間を共に過ごしたら、そんな時間の積み重ねが、親と子の絆を深め、親を刺し殺そうとするような気の毒な子どもを生み出さない、確実な一つの方法であると思うのである。
大人もボンヤリ時間を持とう。天地からのエネルギーですよ。大人にも余裕が必要でしょう。