4月25日(火)日中雷雨、後晴れ 【福知山線脱線事故から一年、ご遺族の方に】
107名が犧牲になってしまった事故から一年がたちました。亡くなられた方々のご冥福を祈ります。そしてご遺族の方々に、哀悼の意を表したいと思います。多くのご遺族が、娘さんや息子さん、家族の死を受け入れられずに、苦しんでいらっしゃる姿を報道を通して見受けます。まことに辛いことです。
「早く帰ってきておくれ」という言葉さえかけているご遺族の記事も目にしました。本当に生き返って欲しいと思わずにはいられないことであろうと、思います。あの事故が起きる前に時間を戻したいと、何度となく思われたことでしょう。どうしてこんなことにと遺影の前で、何度つぶやいたかわからないことでしょう。
ご遺族の苦しみを本当に悼む気持ちで一杯ですが、私は今から二十年ほど前の話を思い出さずにはおれません。それは、私が住んでいた寺の信者さんの娘さんのことです。彼女はバイクを運転して仕事に行く途中、大型トラックにはねられて、亡くなってしまったのだそうです。大学を卒業して就職したばかりの時だったそうです。
私がその寺に入る十年ほど前に既に亡くなられていました。私はその寺に入ってから、毎月その娘さんの月命日にお伺いして、ご供養を続けていました。十年たってもお母さんの悲しみは消えることはありません。諦めているとはいえ諦めきれないものがあります。口数の少ないお父さんもご供養の時には、いつも傍に坐られて娘さんを偲んでいました。仏間に飾られた娘さんの写真はどこか寂しそうでした。
私は長い間テレビも新聞も見ないし、時々は一週間以上の断食をしたり、山に籠もったりしていますので、決して霊能者ではありませんが、不思議な体験もあります。いつの頃からか、夜になって辺りがすっかり静かになり、墓所の塔婆が風に揺れる音だけがかすかに聞こえるなかで、あの世の人たちが訪ねてくることがありました。そのように私が感じただけかもしれませんが、私にはそう表現するしかできない経験でした。
その娘さんは苦しいことを私に訴えます。いつも大型トラックにバイクごと巻き込まれる、事故のその場面の繰り返しから逃れられないのだというのです。どうしたらこの苦しみから抜け出せるのでしょうか、と訴えます。毎晩、私の話せるできる限りの話をしました。死を受け入れることを説得しました。おそらく死を受け入れられないのであろうと思いました。トラックに巻き込まれる前に戻りたいのではなかろうか、と思いました。
しかし死んでしまった今となっては、それはなんとしても無理なことなのです。時は決して戻ることはできません。本当に残念なことですけれど、生き返ることは不可能であることを毎晩話しました。死を受け入れられたら、きっと楽になると思う、仏様の光に導かれて、安心してね。安心しておまかせしましょう。必ず楽になるから。そしてお父さんやお母さんをお守りできるほどのエネルギーになれるかもしれない、と私は言ったような気がします。他にもいろいろと話したように思いますが、その頃のことを夢のように思い出します。
あれは夢だったのかもしれません。でもその娘さんのお墓をお参りしていたとき、私の右腕が空に向かっていくつもの円を描き、軽くなって空に空にあがっていく感じがしたあの感覚は忘れられません。「庵主さん有り難う、楽になりました」そう聞こえました。
福知山線の事故で、突然に命を絶たれてしまった方々は、本当に辛かった事と思います。その死を受け入れることは、なかなかに受け入れがたいことでしょう。この世の家族に「帰ってきてくれ」と切ない思いで叫ばれると、なおさらにその死を受け入れがたいことであろうと、察せられます。しかし、この世の人も辛いでしょうが、その死を受け入れてあげたほうが、亡くなった人が楽になるのではなかろうか、と思うのです。きっと光に包まれて楽に楽になるのではないかと思うのです。
「お父さんも頑張るから、安心してくれ」「お母さんもなんとか頑張っているから、」と声をかけてくださったなら、きっと亡くなられた娘さんが、息子さんが、家族が、楽になるのではないかと思うのです。決して涙は渇れないでしょうけれども、でも頑張って生きるよ、君と一緒のつもりで生きるよ、と声をかけてくださったなら、どんなにか娘さんが、息子さんが、家族が、安心して軽くなるのではないかと思うのです。
息子さんが、娘さんが、電車のどの位置で、どのように亡くなられたかということを、知っても、それをはっきりとさせても、かえってそこに縛り付けるような気がしてしまいます。無念さが増すばかりです。いくら調べてもわからないとしたら、どうぞそのことの追求は諦めてはくださいませんか。
いつか私たちもみんなその時が来ます。そのうち皆亡くなる時がくるのです。その日まで諦めてつつなんとか頑張って生きて参りましょう。
福知山線の事故でお亡くなりの皆様に、心からご冥福を祈らせていただきます。
107名が犧牲になってしまった事故から一年がたちました。亡くなられた方々のご冥福を祈ります。そしてご遺族の方々に、哀悼の意を表したいと思います。多くのご遺族が、娘さんや息子さん、家族の死を受け入れられずに、苦しんでいらっしゃる姿を報道を通して見受けます。まことに辛いことです。
「早く帰ってきておくれ」という言葉さえかけているご遺族の記事も目にしました。本当に生き返って欲しいと思わずにはいられないことであろうと、思います。あの事故が起きる前に時間を戻したいと、何度となく思われたことでしょう。どうしてこんなことにと遺影の前で、何度つぶやいたかわからないことでしょう。
ご遺族の苦しみを本当に悼む気持ちで一杯ですが、私は今から二十年ほど前の話を思い出さずにはおれません。それは、私が住んでいた寺の信者さんの娘さんのことです。彼女はバイクを運転して仕事に行く途中、大型トラックにはねられて、亡くなってしまったのだそうです。大学を卒業して就職したばかりの時だったそうです。
私がその寺に入る十年ほど前に既に亡くなられていました。私はその寺に入ってから、毎月その娘さんの月命日にお伺いして、ご供養を続けていました。十年たってもお母さんの悲しみは消えることはありません。諦めているとはいえ諦めきれないものがあります。口数の少ないお父さんもご供養の時には、いつも傍に坐られて娘さんを偲んでいました。仏間に飾られた娘さんの写真はどこか寂しそうでした。
私は長い間テレビも新聞も見ないし、時々は一週間以上の断食をしたり、山に籠もったりしていますので、決して霊能者ではありませんが、不思議な体験もあります。いつの頃からか、夜になって辺りがすっかり静かになり、墓所の塔婆が風に揺れる音だけがかすかに聞こえるなかで、あの世の人たちが訪ねてくることがありました。そのように私が感じただけかもしれませんが、私にはそう表現するしかできない経験でした。
その娘さんは苦しいことを私に訴えます。いつも大型トラックにバイクごと巻き込まれる、事故のその場面の繰り返しから逃れられないのだというのです。どうしたらこの苦しみから抜け出せるのでしょうか、と訴えます。毎晩、私の話せるできる限りの話をしました。死を受け入れることを説得しました。おそらく死を受け入れられないのであろうと思いました。トラックに巻き込まれる前に戻りたいのではなかろうか、と思いました。
しかし死んでしまった今となっては、それはなんとしても無理なことなのです。時は決して戻ることはできません。本当に残念なことですけれど、生き返ることは不可能であることを毎晩話しました。死を受け入れられたら、きっと楽になると思う、仏様の光に導かれて、安心してね。安心しておまかせしましょう。必ず楽になるから。そしてお父さんやお母さんをお守りできるほどのエネルギーになれるかもしれない、と私は言ったような気がします。他にもいろいろと話したように思いますが、その頃のことを夢のように思い出します。
あれは夢だったのかもしれません。でもその娘さんのお墓をお参りしていたとき、私の右腕が空に向かっていくつもの円を描き、軽くなって空に空にあがっていく感じがしたあの感覚は忘れられません。「庵主さん有り難う、楽になりました」そう聞こえました。
福知山線の事故で、突然に命を絶たれてしまった方々は、本当に辛かった事と思います。その死を受け入れることは、なかなかに受け入れがたいことでしょう。この世の家族に「帰ってきてくれ」と切ない思いで叫ばれると、なおさらにその死を受け入れがたいことであろうと、察せられます。しかし、この世の人も辛いでしょうが、その死を受け入れてあげたほうが、亡くなった人が楽になるのではなかろうか、と思うのです。きっと光に包まれて楽に楽になるのではないかと思うのです。
「お父さんも頑張るから、安心してくれ」「お母さんもなんとか頑張っているから、」と声をかけてくださったなら、きっと亡くなられた娘さんが、息子さんが、家族が、楽になるのではないかと思うのです。決して涙は渇れないでしょうけれども、でも頑張って生きるよ、君と一緒のつもりで生きるよ、と声をかけてくださったなら、どんなにか娘さんが、息子さんが、家族が、安心して軽くなるのではないかと思うのです。
息子さんが、娘さんが、電車のどの位置で、どのように亡くなられたかということを、知っても、それをはっきりとさせても、かえってそこに縛り付けるような気がしてしまいます。無念さが増すばかりです。いくら調べてもわからないとしたら、どうぞそのことの追求は諦めてはくださいませんか。
いつか私たちもみんなその時が来ます。そのうち皆亡くなる時がくるのです。その日まで諦めてつつなんとか頑張って生きて参りましょう。
福知山線の事故でお亡くなりの皆様に、心からご冥福を祈らせていただきます。