風月庵だより

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万年の松下に金鐘を打つ

2006-11-01 21:23:16 | Weblog
11月1日(水)晴れ【万年の松下に金鐘を打つ】

はや11月、風邪を引いてウロウロとしている間にも、時は確実に動いていく。時が動くとはいかに、と問えば実際に目の前に過ぎていく何かが見えるわけではない。「ときーっ!」とでも叫んで過ぎていく何かがあれば面白いのだが。谷岡ヤスジの漫画のように。


さて昨日、一昨日と学術大会という大会があり、風邪は引いていても、これだけはなんとしても勤めなくてはならない行事であった。御陰様にてなんとか論文発表を終えることができたので、一安心である。私の発表は永平寺に関する歴史のほんの一幕についての研究で、今から500年以上も前の話。

このブログを時々お読み下さる方にはお馴染みの器之為璠禅師のことについてである。今日はその論文発表とは異なるが、器之為璠の偈頌の中にある言葉で、私の好きな言葉を一つ紹介したい。それは「万年の松下に金鐘を打つ」と言う言葉である。

万年松下打金鐘図
何処行脚師僧。路入万年松裏。借問有甚来由。取払打金鐘子。

万年の松下に金鐘を打つ図
何処か行脚の師僧、路万年の松裏に入る。借問す、甚んの来由有りや。払を取りて金鐘子を打つ。

「万年の松下に金鐘を打つ」この言葉の出所は、石門蘊聡せきもんうんそう(九八五~一〇三二)という中国の宋代初期の禅僧と一人の雲水の問答がもとにある。「和尚さんの家風はどのようですか」と尋ねられた石門は「物外独騎千里象。万年松下撃金鐘(物外もつがいの独騎、千里の象。万年の松下に金鐘を撃つ)」と答えた。世間の葛藤を超越し、たった一騎で千里を走る象のように自在無碍な境界であり、常に緑の松の木の下で金の鐘を鳴らすように、久遠の命に生きるのが、石門の家風だ、と答えたのである。金の鐘を鳴らすということは仏道を参究し続ける姿をさすだろう。真実の道を探し続ける姿だろう。

「借問す、甚んの来由有りや」というのは、ちょっとお尋ねいたしますが、どうしてやって来たのですか、の意味。それに答えて、ただ金鐘を打ったのである。この行脚の師僧が久遠の命に生き続けている姿(=仏道に生きる姿)を象徴的に捉えている偈頌である。おそらく扇面にこのような絵が描かれていて、それに書き添えた偈頌であろう。

私はいつも俗っぽいことを述べてもいるし、現に世俗的なことに浸かっている俗僧ではあるが、「万年の松下に金鐘を打」ち続けていきたいと願っているのではある。

*松下は寺のあるところ、また寺そのものを意味している。
*石門のこの問答は『禅林類従』巻七(Z117-46d[92b])にある。
*石門は首山省念の法嗣。
*宋代の宏智正覚禅師(1091~1157)も石門のこの表現を好んだようだ。『宏智録』中にも三カ所の引用がみられる。「上堂云。体虚有照。鏡不対像而常明。用密無功。珠若在盤而自転。夤縁莫能相結。生死不可相移。所以道。当明中有暗。勿以暗相遇。当暗中有明。勿以明相対。比如前後歩。且作麼生得与麼相応去。良久云。物外独騎千里象。万年松下撃金鐘。」(『宏智録』巻三名著普及会版上巻1 76-85。大正蔵巻四T48-41b)(他T48-51a T48-58cにも有り)