風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

現代人はなぜ不安なのか

2006-11-14 23:27:54 | Weblog
11月14日(火)晴れ【現代人はなぜ不安なのか】

ドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883~1967)は、社会的存在としての人間(現存)と 本来的な人間(実存)の間の乖離かいりが大きくなり、それが現代人の意識の中で不安を増大させる、と言ったそうである。分かりやすい提言であると思う。

しかし〈現存〉と〈実存〉の乖離というよりは、むしろ〈現存ー社会的存在としての人間〉しか眼中にないところに現代の不安があると私は言いたい。

小中学生や高校生のみならず、いかなる理由があろうとも校長先生までが自殺するとは、一体世の中はどうなっているのかと、言うかも知れないが、〈実存ー本来的な人間〉のことを全く忘れ去っている現代の風潮を見れば、推察しうることではある。(ヤスパースのいう実存の意味は神へと向かう人間存在を意味するので、私の意味する本来的な人間の意味とは異なるが)

せめて食事を頂くときには、子供たちに合掌を教えたい。難しいことを言おうとは思わない。身近なところから実存をを取り戻そう。人はなぜこの世に生命を受け、生命はなぜ終わるのか、精子と卵子の結合だけでは割り切れない、心臓が止まるからだけでは割り切れない、生命の不思議の前に素直にひれふすところから出発したい。

私は全ての人、人に限らず一切が、宇宙の命であると言いたいが、それぞれいろいろな表現があるだろう。ちょっとこの世にこの体を頂いて遊びに来ているのだから、もう少し悠々と生きてはどうだろうか

釈尊はなんと言われたか。全ては空と看破し(仏教的に言えば、覚さとられ)、縁起によりて成り立っていることをお説きになられた。実体がないのであるから、無限に変化し続けるとも表現できよう。自分を固定することは過ちである。いかようにも変わりうるところに、救いがあるともいうことができよう。
自分はダメだと固定化しない。自分を殻の中に閉じこめない。昨日の自分に押しつぶされない。昨日失敗しても今日やり直しがきくし、今日ダメなら、明日がある。とこんなふうに自分の気が楽になるように解釈することも可能であろう。

不安になったら寺の門を敲いてみよう。教会のドアを開けてみよう。平和な宗教の門を覗いてみよう。優しそうな人と話してみよう。人が嫌なら花でも鳥でも石にさえ話してみよう。そして自分は宇宙からちょっとこの世に遊びに来ているのだと思ってみよう。社会の動きに振り回される必要などまるでない。華やかな世界の動きに取り残されているなどと心配することはない。華やかな世界も、宇宙時間から見れば、一瞬の儚い夢のようなもの。今日、食べて、働いて、夜になったら寝る。それだけで充分。どこにも不安を感じる必要などなんにもないのだから。

馬祖の弟子、大珠慧海禅師(唐代、生卒年不詳)は「饑来喫飯、困来即眠(饑え来れば飯を喫し、困来れば即ち眠る)」お腹が空いたら食べるし、疲れたら寝るだけのこと、と言われた。これが功を用いること、つまり努力することだと言われている。それ以外のことはおまけのように受けとめればどうだろう。

おまけのことができなくても不安がる必要もない。「饑来喫飯、困来即眠(饑え来れば飯を喫し、困来れば即ち眠る)」これさえできれば充分なのだ。

*慧海禅師から2世代後の臨済義玄禅師(?~867)は、さらに「仏法無用功処。祇是平常無事。屎送尿著衣喫飯。困来即臥」(仏法功を用いる処無し。祇ただ是れ平常無事。屎、尿を送り、衣を著け飯を喫し、困来たらば即ち臥す」と、慧海の言を踏まえ、新たな見解を述べている。