風月庵だより

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神通の花

2006-11-27 21:43:12 | Weblog
11月27日(月)雨後曇り【神通の花】

先日は神通力のある宝誌大士について書いたので、もう少し神通力のようなことについて触れてみたい。宝誌大士が梁の武帝のリクウェストに応じて現した觀音菩薩は、自分の顔を一皮剥いて、中にある觀音菩薩を示したというものだった。宝誌菩薩は觀音菩薩の化身であるという意味であろうが、それをみて心から回心するような、崇高な感じとはどうも思えない。

この場合宝誌大士は少し武帝をからかったのかもしれない。神秘的なものに対しての人間の誤った考えを諭したかったのではなかろうか。有り難いことや神秘的なことには胡散臭さがある。騙されるな、という宝誌大士一流の教えかもしれない。

聖フランチェスコの場合は、十字架上のイエス様から語りかけられ、このことによって回心(conversion)したのであるが、このような不思議の現れもある。。

さて次に急に次元が下がって恐縮であるが、私の経験についてちょっと書いてみたい。心に自分の顕在意識の声とは違う声が聞こえていた頃、不思議なことがいろいろとあった。その時の話の一つであるが、ある時香港に行くようにと、「心の声」(仮にそう名付ける)に言われて香港に行った。香港には友人たちが数人住んでいるのだが、彼らに会うようにと言うのである。

滞在したホテルで友人たちが訪ねてくるのを待っているとき、「お部屋に花がないのは寂しいから、花を飾りましょう」と「心の声」に言われた。もう辺りも暗いし、香港島側の静かな場所なので、近くに花屋は無さそうである。ところが「今外に行きなさい」と心に声が聞こえるので、それに従って外に出てみた。しかしホテルを出て坂を下がってみたが花屋はあるはずがない。何もないわね、と或る家の前を見ながら通り過ぎた。

「止まって、後ろを見て」と突然声が聞こえたので、おもむろに後ろを振り返ると、黄色の花が一抱えほど今通り過ぎた家の前に置かれていた。確かに数秒前に通り過ぎたときは何もなかった。この家の人が捨てたのではないか、と思ったが活き活きとした花であったし、心の声の指示でもある。狐につままれたような気がしたが、「どうぞ」と「心の声」に言われるので、それを持っていって、部屋に飾ったのである。

これは一つの例であるが、少なからず他にも面白い経験をした。しかし、私はこのようなことは危険であると後に考えたので、心に声が聞こえたり、不思議な現象が起きることを閉じて貰うようにしたのである。それには随分といろいろとあったが、ここでは省略させていただく。統合失調症の場合もやはり幻聴のようなことがあるようだが、私の場合は少し違うようであった。

自らの努力や自らの考えではない不思議なことが起こると、それを自分のパワーであるかのような錯覚に陥る。それは平凡な人間にとっては非常に危険なことである。聖フランチェスコのように自らを”I am a tool of Heaven.(我は神のしもべ、我は神の使い)" そのように自らを投げ出せる真の宗教者であり、愛の権化のような人に不思議な現象が起きてもなんら問題はない。しかしそうでない場合は危険きわまりないと私は考える。

私は私に任されたこの命を、私の足で、私の目で、明日をも見通せないこの目で、迷いつつ生きていくことを選びたい。

そして時々は四十九日の法要の時など、去りゆく人が伝えたい最後のメッセージをさりげなく伝えられれば、有り難いことだと思っている。

さてさて、今日駅前に短時間と思い自転車を駐輪しておいたら、無くなってしまった。たぶん不法駐輪車の集積場に持っていかれてしまったのだろう。三千円を持って行かなくては払い下げてもらえない。神通力を使えたら、そんな場所には置かなかったのだが。いや注意さえすれば良かったことです。神通力など無くても注意力さえあれば充分生きていけますよね。

ただ本当に神通力というものがあったとしたら、突然いなくなってしまった子供たちを探し出したり、吉田有希ちゃんを殺した犯人を捕まえてあげたい、二度と同じ事件が起きないためにも。