風月庵だより

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禅でいうところの神通

2006-11-30 00:13:56 | Weblog
11月29日(水)晴れ【禅でいうところの神通】

先日知り合いのお寺に開山忌のお手伝いに出かけた。そのお寺の子供さんたちは生まれたときから知っているので、お伺いするたびに成長する姿に出会うことがなによりも嬉しい。一番上の男の子は今年、中学三年生、身長も随分伸びていつの間にか見上げるほど高くなった。
彼に「手を洗いたいのだけれど」と言ったら、こっちにどうぞ、と洗面所に案内してくれた。ハンカチを袋に入れてきてしまったと思い、後ろを向いたら、「はい」とタオルを用意してくれていた。

「あ、神通力だね」と私は思わず言った。

それにつけて潙山霊祐いさんれいゆうと仰山慧寂きょうざんえじゃく、香厳智閑きょうげんちかんの話を思い出した。

〈原文〉
師睡次仰山問訊。師便回面向壁。仰山云。和尚何得如此。師起云。我適来得一夢。汝試為我原看。仰山取一盆水与師洗面。少頃香厳亦来問訊。師云。我適来得一夢寂子原了。汝更与我原看。香厳乃点一碗茶来。師云。二子見解過於?子。(『景徳伝燈録』巻9?山霊祐章T51ー265c17)
〈訓読〉
師、睡ねむる次ついで、仰山きょうざん問訊す。師、便すなわち回面し壁に向う。仰山云いわく、和尚何ぞ此くの如くす。師起きて云く、我、適来一夢を得ん。汝試みに我が為に原うらなって看ん。仰山、一盆の水を取りて師の洗面に与う。少頃しばらくして香厳、亦た来りて問訊す。師云く、我、適来一夢を得、寂子じゃくし原了うらないおわれり。汝、更に我に原看を与えん。香厳乃ち一碗の茶を点じ来る。師云く、二子の見解、鶖子しゅうしを過ぐ。
少し語注を付けた方がおわかり頂きやすいかもしれない。
○問訊もんじん:挨拶をすること
○適来せきらい:いましがた
○原うらなって看ん:原の読み方であるが、原夢という言葉があり、夢を占うことなので、この原は「うらなう」と読んでみた
○寂子じゃくし:慧寂のこと
○鶖子しゅうし:舎利弗のこと。神通第一の目連と並び称される智恵第一の釈迦十大弟子の一人

〈和訳〉
師の潙山が眠っていたとき、仰山が挨拶にやってきた。師はくるりと顔を壁の方に向けた。仰山は「和尚さんはどうなさったのですか」と尋ねた。師は起きて言われた。「わしは先ほど夢をみた。おまえさん、わしの代わりにこの夢をうらなってご覧」と。仰山はお盆に水を入れて持ってきて、師が顔を洗うために差し出した。しばらくしたら、香厳がやってきて、挨拶をした。師は言われた、「わしはいましがた夢を見た、慧寂はこの夢うらないを済ませたところだ。おまえも占ってみてごらん」と。香厳はお茶を淹れて持ってきた。師は言われた、「二人の見解は舎利弗よりも勝れている」と。

私の本師はご提唱ていしょうの折、神通の話としてよくこの話を持ち出して話された。潙山のこの話しの場合、舎利弗は智恵第一といわれる弟子なので、神通第一の十大弟子の一人である「目連よりも勝れている」と潙山が表現してくれているとより明白になる神通の一例といえよう。

また龐蘊居士ほうおんこじは「運水搬柴是神通うんすいはんさいこれじんつう」水を運び柴を搬ぶ、是が神通である。日々の営みを勤めることが神通だと言われている。龐蘊居士は馬祖道一ばそどういつの法嗣である。馬祖は「平常心是道へいじょうしんぜどう」を唱え、禅の修行は日常の生活とかけ離れたものでないことを説いた禅師である。潙山は百丈懷海ひゃくじょうえかいの弟子であり、百丈はやはり馬祖の弟子である。

禅でいう神通はこのように、それぞれの生活を、目覚めた目を持って行ずることなのである