風月庵だより

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山口の旅5ー湯田温泉 中原中也

2007-11-10 23:30:49 | Weblog
11月10日(土)雨【山口の旅5ー湯田温泉 中原中也】(生家跡に建てられた中也記念館、中也忌前夜)


今週もアッという間に時が過ぎました。風邪もようやく本格的に治ったような感じです。さて山口の旅についてまだ書き足りないことがあります。僅か四日の旅でしたのに、山口という土地には多くの魅力的なことが詰まっているような印象があります。

山口には中原中也(1907~1937)がいました。中也は湯田温泉の生まれです。この度私は、長門のお寺と周防のお寺を訪ねるのに、その中間に宿をとりました。それが湯田温泉です。私が湯田温泉に泊まって、宿のすぐ近くの中也記念館を訪ねた日は、明日が丁度中也の命日という時でした。中也が亡くなったのは昭和12年10月22日です。可愛がっていた長男が前年に急死してから、神経衰弱になり、ついに翌年には結核性脳膜炎に罹り30歳を一期に終えました。

汚れつちまつた悲しみに……
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
 

あなたもこの詩を知っている一人ではありませんか。

中也は明治40年4月29日、父謙助も医者であり、母福が養女になった母の叔父も医者という家の長男として生まれました。しかし、文学的な萌芽は早く、はや小学生の頃より短歌に入選したりしていました。山口中学時代には短歌の同人誌を出版。しかし神童と呼ばれていた中也でしたが成績は下がる一方で、山口中学を落第し、京都の立命館中学に転校します。そこで高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』に出会い、中也が詩の世界に入っていくきっかけとなったようです。このとき中也、16歳、そして翌年には新劇女優、長谷川泰子と同棲生活に入りました。京都時代に富永太郎と知り合いランボーやヴェルレーヌに開眼させられるのです。

富永が東京に帰ると、中也も泰子と共に上京します。親たちの希望からは益々遠ざかっていく中也であり、18歳のこの年、中也は詩人として生きることを決意します。小林秀雄と交友を始めたのもこの年、そして愛人泰子が小林の元に去って行ってしまったのも大正14年のこの年のこと、そして詩人中也に影響を与えた富永は、この年に亡くなっています。

同人誌「白痴群」を河上徹太郎、大岡昇平、古谷綱武らと出版するのは22歳のとき。「サーカス」の詩を発表。あの「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というブランコの揺れる音を表した言葉がなんとなくもの悲しく感じられる詩です。

その後の中也の年譜は飛ばしますが、26歳で結婚します。結婚式を挙げたのが湯田温泉の西村屋という宿です。(宿の案内書きのその一条に引かれてこの宿屋に泊まりました。)
その後上京して昭和9年、27歳のときに詩集『山羊の歌』を刊行、『ランボウ詩集』を刊行するのは亡くなる一ヶ月前、そして詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託してまもなく中也は鎌倉の病院で永眠したのです。死出のベッドで、手を握る母、福に「おかあさん、おかあさん」と呼びかけ、「僕は本当は親孝行だったのですよ」と言って目を瞑ったのだそうです。

「文学は人間の仕事だ。学問ではない」と中也の言葉。

母の期待を裏切って詩人になってしまった中也、30歳の若さで母より先に逝く中也、しかし中也死して70年、人はいまだその人の名を忘れず、母福の名も、中原の家名も文学史に刻まれている。

高校時代の恩師佐藤喜一先生の『鉄道の文学紀行』(中公新書)にも湯田温泉に中也の碑石を訪ねる話が載っていましたので、湯田温泉には一度は来てみたいと思っていましたが、この度はそれも叶いました。大寧寺様のお陰です。

帰郷(の一節)

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置きなく泣かれよと
    年増婦としまの低い声もする

あゝ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ


とりとめのない中也の紹介になってしまいましたが、書き換える時間がありませんので、このままでお許しを。

この湯田温泉では何人かの人との出逢いがありました。東京から来ていたERIKOさん、九州からの戸高さん、そして朝の散歩で出会った有富さん、お元気でありますように。