風月庵だより

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山口の旅6-防府 阿弥陀寺

2007-11-11 20:34:34 | Weblog
11月11日(日)曇り午後一時雨【山口の旅6-防府 阿弥陀寺】(阿弥陀寺仁王門)

山口の旅でまだ書くことがあるということは、いかに山口という土地には、魅力的な場があるかということではなかろうか。私にだけ限ったことではないと思う。

さてバスで徳山に向かう途中、「重源の郷」という看板が目に入った。山口に来る2日前の学術大会で、重源ちょうげん(1121~1206)に関することも発表をしたばかりなのでその看板は私の目をひいた。いつものことではあるのだが、自分が関心を持ったことや、言ったことや、書いたことについて、それに関することを直後に更に詳しく知るという経験をよくする。興味や関心事に関することは、キャッチするアンテナが立つ、ということなのだろう。俊乗房重源上人にしても宗派が違うのでたまたま舎利に関する研究をしなければ、それほどに気にとめなかったかもしれない。

重源が、兵火によって焼失(1180)した東大寺の復興のために大勧進として活躍したことは知られている。その木材の調達を果たしたのが、この山口の周防であった。重源が周防に入ってすぐに建立(1180)したという東大寺別院という阿弥陀寺が防府にある。東京に帰る前にここをお参りした。大学時代の先輩が近くにお住まいで、先輩の奥さんが車で案内をしてくださった。

参道には紫陽花が植えられている。花の時期には三万人もの見物客が訪れるそうだが、私が訪れたときはひっそりとしていた。長い参道を登り切って山門を一歩入ると、山の静謐な空気に包まれて、阿弥陀寺の諸堂があった。本堂は享保16年(1731)に再興されたものだそうで、古色をおびていて、その建物を見ただけでも癒されるような佇まいである。

本堂に入るのも自由で「舎利礼文」をあげたり仏像を拝んだり、ゆっくりとお参りをすることができた。「舎利礼文」の研究をしなかったならば、おそらく阿弥陀寺は訪ねることはなかったであろう。阿弥陀寺の本尊は阿弥陀如来立像であるが、向かって右側の脇侍として弥勒菩薩坐像、左側には大日如来坐像が安置されている。随分面白い組み合わせなのではなかろうか。東大寺の別院なので華厳宗であるはずだが、仏像の前には密檀があり多宝塔やら舎利塔やら独鈷やら密教の儀式に用いられる法具が並べられている。また本堂の裏にも護摩堂がある。他宗派のことは本当に分からないことが多いが華厳宗は密教の護摩もたくのであろうか。

さて、ここには重源が祀ったという国宝の舎利があるはずで是非拝みたいと思っていた。丁度作務に出てこられたご住職にお願いして宝物館にご案内していただいた。重源上人の坐像も拝ませていただき、重源が鋳造させたという鉄宝塔(これが国宝)やら木食さんの観音菩薩像や、永仁七年(1299)の墨刊銘のある大般若経六百巻もお見せいただいた。そしていよいよ仏舎利、それは水晶三角五輪塔(これも国宝)のなかに納められていた。この中に五粒の舎利。やはり水晶でできているような舎利である。鼠色のような舎利も一粒。この舎利を祀って重源は舎利会を開催し、妙なる光明を放つ仏舍利の霊異を民衆に見せて、東大寺復興のための寄進を募っていたのであろう。今やそのお役目も終えて、舎利と舎利塔はガラスケースの中に納められている。やはりどのような宝でも見物の対象になってしまっては、その命は終わりである。舎利塔と舎利を祀って、また舎利会を催し、世界の平和を祈って貰いたいと、ガラスケースの中を見て思ったことである。

現在の奈良の東大寺は重源上人のご苦労によって立派に復興を遂げたのであるが、この阿弥陀寺も現在までに何回か火災にあったようである。また最近でも鉄砲水が出て経堂など被害にあったそうである。しかし紫陽花の花のお力もあろうが、大般若経の修復には何千万円もかかってしまったそうだが、無事に修復ができたそうだ。お寺の維持はなかなか大変ではあるが、阿弥陀寺は本堂に至るまでの参道が長く紫陽花の頃はさぞや景観であろう(この紫陽花参道をつくりあげるには昭和50年からのご苦労がある)。三万人の参拝客によって支えられているようである。いやいや実は誰も知らないけれど、実は仏舍利の功徳かもしれませんね。見えないところで霊験を発揮しているのかもしれません。

これで山口の旅シリーズは一区切りといたします。大寧寺さんの近くの仙崎に、金子みすずさんの記念館がありそこも訪れましたが、それについてはまたいつか折りあらば書きたいと思いますが、一応これにて東京に戻ることに致します。山口の旅にお付き合いいただき有り難うございました。