風月庵だより

猫関連の記事、老老介護の記事、仏教の学び等の記事

報徳の開発僧

2007-11-18 22:53:05 | Weblog
11月18日(日)晴れ【報徳の開発僧】(耕雲)

『村の衆には借りがある』(ピッタヤー・ウォンクン著、野中耕一編訳 シャンティ国際ボランティア会販売)を読んで:この本はタイの開発僧かいほつそう プラクルー・ピピット・プラチャーナート師(ナーン和尚)を紹介した書である。

貧しいタイの農村に住むナーン和尚は、村の人々がどうしたらその貧しさから抜けられるのか、貧困問題に取り組んだ僧侶である。いくらお米をつくっても、借金の返済に持って行かれてしまい自分たちは食べるお米もない村の衆。それでも僧侶にはタンブン(徳積み)として お布施を持ってきてくれる村の衆。ナーン和尚は、この村の衆によって托鉢して食べさせて貰い、お布施をもらって生かされている事に対して、「僧侶は村の衆には借りがある」といつも言われているのだという。そして村の衆の貧困問題を解決することにナーン和尚はいくつかの改革案を出して、それを村の衆と共に実行して村を救ったのである。

先ず、ナーン和尚は40人の村人を集めて、瞑想止観を行じた。そうして煩悩を減らし、欲望を押さえることを仏教の智慧を以て教え導いたのである。「農村問題を解決するためには、いくらお金や物を与えても解決はしないこと。そして人間を開発かいほつすれば、お金はなくとも解決できる」村人に智慧がつけば、博打をしたり、悪習に耽ってお金を浪費することも自ずとなくなるであろうし、なにより自分だけがよければよいという利己的な考えを捨てて、みんなで助け合おうという心をおこすことができると和尚は考えたのである。

そして和尚は村に寺のお金を全て出して、肥料組合を作った。村人たちは高い肥料を買わされ、その支払いに多額な借金をしているから、まずそれを救おうと考えたのである。次にそれぞれの力に応じて籾を供出し、それを集めて籾を貸し出す組織を作った(これを「サハバン・カーウ」という)。経済状態のよい者には、貧しい人々へ貸してあげるようにし、最初の段階では自分はただ供出するだけという条件をつけた。これは善行であることをナーン和尚は教えたのである。持つ者は持たざる者を助ける、当然の助け合いの教えである。それを気持ちよく村人ができるように止観を行じさせて教え導いたのだ。和尚は籾を集めておく倉庫を造るのに、お寺に寄付されたお金も全て差し出した。村の衆の生活が豊かになれば、お寺の本堂もいつかは必ず建つ。

「友好の米作り」も和尚が推奨した方法である。困っている村に他の村の衆が弁当持参で米作りを手伝いに行く。労働の対価を求めないボランティア米作りである。自分たちさえよければよいというのではなく、みんなで助け合って共に生きていく生き方を教えたのである。ナーン和尚の導きで、多くの貧しかったタイの村々が、生き返っていることをこの書を読んではじめて知った。そしてこの運動はナーン和尚一人に留まらず多くの僧侶たちの賛同者を得て、推進されているという。

村の開発を進めるのには、一人一人の人間としての目覚めが大事であり、仏教の修行の根本である瞑想止観を用いたことは、なによりも学ぶべき特筆すべきことであろう。枝葉末節の方法論だけでは、どのような改革案が出されても、その場限りで人間の欲望に振り回されて、続かないだろう。しかし、何のために何故、どのようにするのか、お互いがお互いのために、自分たちで力を合わせて村作りをしていくのだ、という根本のところを和尚は教えてくれたのである。貨幣経済の弊害に流されない人間の生活がナーン和尚によって取り戻されていることに感動を覚えた。

お隣のミャンマーでは人々を救おうとする僧侶たちが迫害され、いまだ多くの僧侶が拘束され、おそらく拷問を受けていることを比べると、隔世の感ありである。

もう少し書きたいのですが、母がお灸をしてと言うので、このへんで諦めます。十分な紹介はできませんし、書き換えられませんが、このような方こそ僧侶といえる方であろうと思います。爪の垢でも飲みたいところです。