6月26日(金)晴れ暑し【末寺をとろうとする本寺の問題】
住職である尼僧さんが年老いて、病気で入院しました。すると、本寺の和尚さんが、そのお寺を自分の隠居所としたいと言ってきて、信徒総代さんが困っているというのです。同じように住職である尼僧さんが入院しましたら、そのお寺を壊してしまって駐車場にしてしまった本寺があるのだそうです。
こういう問題はどうしたらよいのでしょうか。私も自分が住職をしていたお寺の境内を、本寺が勝手に近所のホテルの駐車場にしてしまいました。そんなことやらで、私の場合は見切りをつけて寺を出ました。
そもそも尼僧の寺が男僧の寺の下に組み込まれて、本寺末寺の関係にされてしまったのは江戸時代からです。それが現在までも本末の仕組みとして残っているのです。封建制度の名残りが、今でも仏教寺院の仕組みの中に厳然として残っていること自体おかしなことですが、さらに、中には横暴な本寺もあって、それが許されているという制度自体不思議です。
このような理不尽が平気で許されてよいものではありません。しかし、このような横暴な本寺は少ないとは思います。自分の県では尼僧は大切にされている、と、山口県の方々がおっしゃっていました。私も器之為璠禅師の研究のために、山口県には時々訪問して大事にしてもらっていますので、そう言われると我がことのように嬉しく思います。しかし、日本のどこかには問題のある本寺があるのも事実です。末寺は本寺の勝手にはできないことを、今の内にきちんと制度化しておきませんと、今に尼僧が住職のできるお寺が、無くなってしまうのではないかと、私は危惧しています。
いかに人間として立派な本寺さんであっても、尼僧の住職が亡くなれば、その寺の管理をしなくてはなりませんので兼務ということになります。これをやめにして、尼僧が心血を注いで守り通したお寺は尼僧団が管理し、しかるべき尼僧の跡取りができたときはその尼僧にまかせるというような制度化が必要 ではないでしょうか。尼寺を低く見て、男僧寺になったら、格が上がったというようなことを他から耳にしてショックを受けた尼僧さんもいますが、そのようなことに負けないようにしたいものです。
男女差別の考えは、仏教界においては制度上は無くなったとはいえ、まだまだ意識の上では無くなってはいないでしょう。それは日本の社会が生み出している空気です。女性自身でさえ、女性を男性より劣っているようにみる傾向が日本人の中にあります。世界を見てみますと、アジアは特に女性を低くみる傾向があるようですが、女性自身意識改革しなくてはならないでしょう。広い目さえ持てれば、男女差別の愚かしさは当然のようにわかるでしょう。
本当に道を行じている僧侶の方々には、男僧尼僧にかかわらず、男女差別の考えはお持ちではないと思うのです。勿論、男女の区別はあります。道元禅師には男女差別のお考えはなかったといわれています。当時の男性としては珍しいお考えだと賞讃されます、道元禅師の弟子であった尼僧の研究に取り組んでいますので、それは実感しています。
ちょっと問題がずれますが、男女の区別はありますから、私は尼僧には尼という呼称をつけてよいと考えています。今は男女の区別なく、和尚、大和尚とつけますが、尼僧は、尼和尚、尼大和尚でよいのではないかと考えています。私が死んだら、小さな卵塔に「風月劫外尼和尚之墓」と刻んでほしいと思っています。
さて、さて、末寺本寺の話から、男女差別の話になり、私の墓の話にまでなり失礼致しました。
苦労した尼僧さんが、本寺に苦しめられないように、心ある御寺院の皆様、お力添えくださいますよう。