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7月16日(木)晴れ【道元禅師、山城を出発】
道元禅師が、山城の興聖寺を出発して、越前に向かわれたのは『建撕記(けんぜいき)』によると7月16日頃のようです。もっとも陰暦ではありますが。
たまたま大久保道舟先生の『道元禅師伝の研究』を読んでいましたら、そんなことが書かれていましたので、たまたま今日は7月16日ですから、ちょっと記事にしました。大久保先生の記述によりますと、京都を離れなくてはならなかったのは、比叡山の僧たちによる圧迫がさらに強くなったためのようです。
道元禅師が永平寺に移錫されないで、京都にとどまられたなら、曹洞宗の歴史は随分異なった展開をしたことでしょう。歴史に「もしも」はありませんが。事実の積み重ねが歴史ですが、正確な事実が分からないことも多いですね。道元禅師のご両親は、? 越前に行くのにどの経路を通られたか?等等、わずか800年前のことなのに不明なことが多くあります。
さて、道元禅師が山城の興聖寺を出発なさったのは、寛元元年(1243)の7月16日頃。当時、禅師44歳。
宋から帰朝なさった後、ようやく宇治に興聖宝林寺を建立なさったのが天福元年(1233)で、諸事落ち着いた頃ではないかと思われます。果たして比叡山の僧たちが移錫の原因なのでしょうか。それとも車馬喧しい京を離れるのが目的だったのでしょうか。私は研究不足なので、どちらか分かりませんが、『建撕記』には後者の説明があります。前者が原因であるとしますと、北越に移錫なさる禅師のご心中を察すると辛いものがありますが、後者ですと、弟子たちと共に、煩わしい俗事俗人から逃れて、真の仏道修行ができる地を求めて移錫なさる意気軒昂な姿が想像できます。
寛元々癸卯年七月十六日比京御立在也同月末志比荘下着在正法眼蔵三十二巻奥寛元元年閏七月初一日在越宇吉峰頭示衆云々
寛元々癸卯年七月十六日比(ころ)、京を御立ち在る也。同月末、志比の荘に下着在り。正法眼蔵三十二巻の奥に、寛元元年閏七月初一日、越の宇吉峰頭に在って示衆す云々、と。
七月十六日頃京を発って、同じ年の七月一日に北越の吉峰寺で正法眼蔵の示衆をなさっているのはおかしいと思われるかもしれませんが、「閏」とありますので、この年は七月がもう一回あったことになります。陰暦ではそのようになっているようです。何月を閏月にするかは、宮廷の暦博士が決めるのだそうです。
今日は、2007年に新潟中越沖地震が発生した日です。被災なさり、それまで築いた生活を一瞬にして失った皆さんのご苦労が偲ばれます。道元禅師の北越行きも、比叡の僧の圧迫によるものでしたなら、その辛さがダブって偲ばれることになります。7月16日に因んでの記事を書かせていただきました。
*禅師の北越移錫について:『伝光録』に「(前略)栄西僧正(中略)宗風を興さんとして興禅護国論等を作て奏聞せしかども、南都北京より支へられて純一ならず云々」という一文があるので、栄西禅師も南都北京に邪魔をされたということを鑑みれば、道元禅師も同じような目に遭ったということが推察されるのではないか、という具体的な例として挙げられるだろうと、tenjin和尚より教えられました。なお「支へられて」は、古語で、支え立て=邪魔すること、支え言=悪し様に言うことと同じ意味の支えです。
道元禅師が、山城の興聖寺を出発して、越前に向かわれたのは『建撕記(けんぜいき)』によると7月16日頃のようです。もっとも陰暦ではありますが。
たまたま大久保道舟先生の『道元禅師伝の研究』を読んでいましたら、そんなことが書かれていましたので、たまたま今日は7月16日ですから、ちょっと記事にしました。大久保先生の記述によりますと、京都を離れなくてはならなかったのは、比叡山の僧たちによる圧迫がさらに強くなったためのようです。
道元禅師が永平寺に移錫されないで、京都にとどまられたなら、曹洞宗の歴史は随分異なった展開をしたことでしょう。歴史に「もしも」はありませんが。事実の積み重ねが歴史ですが、正確な事実が分からないことも多いですね。道元禅師のご両親は、? 越前に行くのにどの経路を通られたか?等等、わずか800年前のことなのに不明なことが多くあります。
さて、道元禅師が山城の興聖寺を出発なさったのは、寛元元年(1243)の7月16日頃。当時、禅師44歳。
宋から帰朝なさった後、ようやく宇治に興聖宝林寺を建立なさったのが天福元年(1233)で、諸事落ち着いた頃ではないかと思われます。果たして比叡山の僧たちが移錫の原因なのでしょうか。それとも車馬喧しい京を離れるのが目的だったのでしょうか。私は研究不足なので、どちらか分かりませんが、『建撕記』には後者の説明があります。前者が原因であるとしますと、北越に移錫なさる禅師のご心中を察すると辛いものがありますが、後者ですと、弟子たちと共に、煩わしい俗事俗人から逃れて、真の仏道修行ができる地を求めて移錫なさる意気軒昂な姿が想像できます。
寛元々癸卯年七月十六日比京御立在也同月末志比荘下着在正法眼蔵三十二巻奥寛元元年閏七月初一日在越宇吉峰頭示衆云々
寛元々癸卯年七月十六日比(ころ)、京を御立ち在る也。同月末、志比の荘に下着在り。正法眼蔵三十二巻の奥に、寛元元年閏七月初一日、越の宇吉峰頭に在って示衆す云々、と。
七月十六日頃京を発って、同じ年の七月一日に北越の吉峰寺で正法眼蔵の示衆をなさっているのはおかしいと思われるかもしれませんが、「閏」とありますので、この年は七月がもう一回あったことになります。陰暦ではそのようになっているようです。何月を閏月にするかは、宮廷の暦博士が決めるのだそうです。
今日は、2007年に新潟中越沖地震が発生した日です。被災なさり、それまで築いた生活を一瞬にして失った皆さんのご苦労が偲ばれます。道元禅師の北越行きも、比叡の僧の圧迫によるものでしたなら、その辛さがダブって偲ばれることになります。7月16日に因んでの記事を書かせていただきました。
*禅師の北越移錫について:『伝光録』に「(前略)栄西僧正(中略)宗風を興さんとして興禅護国論等を作て奏聞せしかども、南都北京より支へられて純一ならず云々」という一文があるので、栄西禅師も南都北京に邪魔をされたということを鑑みれば、道元禅師も同じような目に遭ったということが推察されるのではないか、という具体的な例として挙げられるだろうと、tenjin和尚より教えられました。なお「支へられて」は、古語で、支え立て=邪魔すること、支え言=悪し様に言うことと同じ意味の支えです。
人それぞれ評価は有るでしょうが、私は評価したいと思います。
如浄禅師様から「嗣書」を授かる場面(実際はどうであったか解りませんが)など、泣き所と言いますか感動する場面が数箇所有りました。
迫害を受けて移錫される場面ももちろんあるわけですが、そのときの心中を察するに余りあるものが有り、穏やかならざるものが有りました。
鑑賞の印象につきましては、後ほどブログに書いてみようと思います。
多少、そのようなことはあり、京都はうるさいと思われて、『建撕記』にあるように修行に適した地を求めたのではないだろうか、と思うのです。
映画については、それぞれ評価の分かれるところですね。ブログに是非お書きください。お邪魔します。