1月27日(木)晴れ 寒いです【聖徳太子考(8)『三経義疏』】
はや本年の一月も27日です。まことに速いです。迅過ぎますね、時の過ぎるのが。
一日も早く聖徳太子様に関しての宿題を書き上げねばと思いながら、『三経義疏』についての学びがなかなか手ごわく、時間がとれませんので、概略だけ書きまして、お許しいただきたいと思います。
『三経義疏』は『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』のことですが、これを聖徳太子がお書きになったか否かの論争がありました。『三経義疏』を太子がお書きになったのかどうかについてを学んでみたいと思います。
この時代は和文で書かれた書はありません。ひらがなもカタカナもまだない時代ですから、義疏は当然漢文です。このような初歩的なことを書きまして、御来訪の皆様には、自明のこととして失礼かもしれませんが、ご容赦。それで、あまりに内容的にも文章も優れているので、これは中国人が書いたか、渡来僧が書いたのではないかという説もあったようです。しかし、『日本書紀』にも聖徳太子が『勝鬘経』を講義なさったことが書かれているそうですし(私はこの書にあたっていませんので伝聞表現です)、義疏の漢文は「和風の漢文脈」であるという表現を『聖徳太子鑚仰』(中外日報社発行 昭和54年)を読んでいましたら、見つけました。
また、昨年、石井公成駒澤大学教授(現名誉教授)が「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」と題されてオンライイン講義をなさいました。その折に義疏に使われている漢文は中国人は書かない「変格漢文」であると具体例を多く指摘されました。そして『駒澤大学佛教学部論集』第52号掲載の「聖徳太子は「海東の菩薩天子」たらんとしたか」の中で、「三経義疏は日本の同じ人、それも「憲法十七条」を書いたのと同じ人が書いたと見て差し支えありません。」と書かれています。
聖徳太子は、梁の武帝をよき手本として、ご自分も「菩薩太子」たらんとなさり、『維摩経』を講義し、『勝鬘経』を講義し、『法華経』を講義なさり、それを義疏として書き残されたー「三経義疏は聖徳太子の事績であることは確実であり」と石井公成教授は『駒澤大学佛教学部論集』第52号で、多くの事例を紹介して書かれています。おそらく先生はここだけではなく、聖徳太子関係の多くの論文の中ですでにお書きになっていると思いますが、私は勉強不足で恐縮です。石井公成先生が、聖徳太子様の研究をなさっていたことも知りませんでした。駒澤大学で先生の講義を拝聴できなかったことは残念に思っています。
『中外日報』の2021年4月21日版にも「勝鬘経義疏は聖徳太子作が有力ー「菩薩天子」梁の武帝を模範と仰ぐーとして論をお書きになっています。
もう少し『三経義疏』について学んでみたいので、今日はこのへんで失礼いたします。だらだらと書きまして申し訳ありません。
*52号の21頁に、私には大変興味ある一文がありました。「自らの居処であった豊浦宮を改めて尼寺である豊浦寺とし、日本で最初に出家して迫害された尼たちを保護していたことも見逃せません。」の一文です。私は最近曹洞宗尼僧団の「おたよ里」という機関誌に「苦難の尼僧史」という一文を寄稿しましたが、そこにこの尼僧さんたちのことを書きました。この方々が聖徳太子様によって、保護されたことを知り、感無量です。