風月庵だより

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初七日のご供養

2006-07-28 12:25:26 | Weblog
7月29日(金)曇り蒸し暑い【初七日のご供養】

今日は先日ご葬儀を勤めさせて頂いた方の初七日である。遺児たちに初七日なので、そのつもりでご供養をするように連絡をした。私の方でもご供養をした。

初七日のご供養をご葬儀の後に済ませるようなことが行われているが、果たしてこのようなやりかたはいかがなものだろうか。四十九日までの中陰の間、故人の後生を願って供養をするわけだが、ご葬儀の慌ただしい見送りとは異なり、遺族も故人もその死を刻々と受け入れていくためにも、心をこめてご供養に勤めたい大事な時の流れである。

形式だけの初七日のご供養を、ご葬儀の後に執り行うことはやめにした方がよいと思う。ご葬儀を受け入れるだけで、故人本人も遺族も手一杯であるはずだ。ご葬儀はご葬儀で完結すべき、全力で執り行うべきご供養であろう。

初七日に多くの方にご参列いただけなくとも、家族だけでも心をこめてご供養するほうが、形だけの初七日を終えてしまうよりもよいのではなかろうか。僧侶が供養にうかがえれば、それに越したことはないが、家族のご供養に勝るものはないと思う。

この度、葬儀屋さんのやり方にあらためて思ったことがあるので、書かせて頂きたい。

僧侶が使える時間が初七日のご供養も入れてあまりに短いので、どうしてかと訝った。余程火葬場まで遠いのか、なんらかの理由があるのであろうか、と思ったが、火葬場は近いという。予約の時間も確認した。それならば焦るようなことはしたくないと考えた。やるべきこと、言うべき事はさせてもらった。そしてその後を見ていると葬儀屋さんのマニュアルにでもあるのであろうか、遺族をさらに泣かせるような芝居がかったことをさせ、葬儀屋さんがいろいろとマイクでお言葉を述べている。これに要した時間がかなり長かったのである。

いつも感じることだが、ご葬儀は葬儀屋さんペースで行われている。またご葬儀にはお金がかかるというが、葬儀屋さんに払うお金が高いのではなかろうか。必要以上に祭壇を飾り立てているようにも感じる。最期ぐらいは少しでも豪華に飾ってやりたいという遺族の思いを利用してお金儲けをし過ぎているのではなかろうか。

ご葬儀のあたふたとした時間が終わった後で、冷静になってから、なんでこんなにお金がかかってしまったのだろうか、と人々は思うのではなかろうか。そしてご葬儀はお金がかかる、僧侶が高すぎるというような印象を持つのではなかろうか。実は葬儀屋さんに払うお金がかなり多いのである。

この流れをもはや変えることはできないであろう。そこで僧侶抜きのご葬儀などということにさえなり、研究されたマニュアルに則って葬儀屋さんだけのご葬儀というご葬儀もこの頃は行われているようである。葬儀の歴史を考えたときに、果たしてどのようなご葬儀がよいのかは言い切れないが、商売としてのご葬儀に堕すようなことにしてはならないだろう。そうさせないためにも、またご葬儀の導師を勤める役を担っている以上、僧侶は責任を持って精進修行しなくてはならないだろう。他人事ではなく自らのこととしてその思いを新たにした。

私が導師を勤めさせて頂くことを潔しとしないのは、自身の修行が未熟なことにもよるが、私が死んだ後のことに責任が持てないことにもよる。ご葬儀をさせて頂いた家の後々の法事を勤められないからである。この度の遺児たちが一人前になるまではなんとか生きたいと願っているが、こちらの都合どうりにはこればかりはいかないことである。何時、無常の時が訪れるかわからない。

つくづく安易に生きている身を反省するばかりである。葬儀のためではなく、一人の人間として修行しなくては、而今、此処で。




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4 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2006-07-28 13:43:07
> 管理人様



どうにも、実態として葬儀社が中心になっているのに、葬儀代のことで文句が行くのは僧侶ということで、このような考え方は改めていただかなくてはならないでしょうね。



どこかのお寺では、護持会がそのまま檀信徒の葬儀を執り行うこともあるようですが、僧侶の側こそ葬儀社抜きの状況をとっくに模索していて当然なのかもしれません。
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tenjin和尚さんへ (風月)
2006-07-28 23:25:10
お寺が中心で葬儀社はその補助であるほうが、まだ良いように思いますが、火葬場の手配や細かい手配がありますので、喪儀社のように仕事として動いてくれる人はたしかに必要になります。



もう少し隣組や護持会など地域社会が助け合ったやり方を取り戻せたら、だいぶ葬儀代も少なくなるのでは、とも思いますが、これほど葬儀社が入り込んでいると、なかなか排除することは至難のわざだと思います。



葬儀社のなかにも良心的な会社もあるようですから、十把一絡げには論じられない問題ですし、現実問題を抜きにした机上の空論でもいけませんし。



しかしtenjin和尚さんも言われるように、葬儀についての文句が僧侶に向けられることは改めていただきたいものですね。



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葬儀は僧侶の独擅場であるべき (うさじい)
2006-07-29 08:06:12
葬儀の後行うのは、本来、初七日ではありません。「開蓮忌」のはずです。



東京ではあまり見かけませんが、富山、群馬、奈良、志摩町では6尺の開蓮忌塔婆を立ててました。いきなり繰り上げ初七日などといわれた日には、この塔婆の意義がなくなってしまいます。

これも、葬儀社主体の葬儀に少しも異を唱えずにきた寺側の失敗でしょう。



私は、郷に入っては郷に従えの言葉どおり、6年間この地域の葬儀方法を黙ってみてきました。その結果、根底に故人に対する敬虔な気持ちは無く、会葬者にばかり気を使うおかしなやり方でしたので、それを覆しました。



親族は、正面を向かせます。葬儀社のやりたい放題にはさせません。勿論、司会者には余計な言葉はしゃべらせません。マイクの使用は最小限(始めと最後だけ)で厳かに行います。



葬儀社に200万も支払い、僧侶のお布施が5万ということがありましたが、文句は言いません。

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うさじいさんへ (風月)
2006-07-30 23:29:55
師匠は三年間はじっと我慢してみるように、それから自分の思うようにやってみるのもよかろう、とよくおっしゃっていましたが、六年間の我慢の後ですから、説得力もあったと思います。



遺族に正面を向かせるという方法は私も大賛成です。



お互いに少しでも良心的僧侶として、師の後を歩みましょう。



いつもコメント有り難うございます。



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