12月17日(日)曇り【千の風になって】
たまたまテレビをつけたら、9.11のテロでお父さんを失った少女が、「千の風になって」の朗読をしているところだった。この少女だけでなく、肉親を失った悲しみをこの歌によって癒されている人々をアメリカやイギリス、そしてアイルランドまで、本田多江さんという人が訪ねるという番組であった。途中からだったので本田多江さんという方がどのような事情でお父さんを亡くされたのかは分からなかったが、彼女もお父さんを亡くされて、深い悲しみを抱いていた。
世界の各地にこの歌によって、肉親を失った悲しみを乗り越えている人々がいる。言葉の持つ力を感じる詩である。これはアイルランドのテロによって倒れたイギリス兵のステファンという青年(享年21歳)が、自らの死を予感していたのかもしれないが、その母親宛の手紙に残した詩であるという。和訳し日本で作曲をした新井満さんも、はじめのうちは作詞家について不詳と書いていたようである。
このテレビ番組は新井満さんの監修であった。電通に長く勤められていた方なので、番組制作については専門家であるが、特にこの番組については深い思い入れがあることだろう。新井満さんには『自由訳 般若心経』という著書もあり、その内容も亡きお母さんに対しての報恩の書であり、宇宙と生命とのシンフォニーが聞こえてきそうな一冊の書である。そのような書を書いている人の監修なので、この番組には生命を見据える目を、私は感じた。
これは再放送のようなので、おそらく多くの方が観たのではなかろうか。このブログにご訪問の皆さんもとうにご存じの詩でもあろうが、新井満さんの訳詞と英文の原文を掲載しておきます。これは「うたごえ喫茶のひ」さんのブログから転載させていただきました。
「千の風になって 」
【作詞】ステファン
【訳詞】新井満
【作曲】新井満
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
あの大きな空を
吹き渡っています
A THOUSAND WINDS
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.
When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.
*この原詩のさらに原詩があるという情報を得ました。それはメアリ・フライさんという方の詩だそうです。ところどころ異なるようです。
*ステファンさんのファミリーネームを記憶しそびれました。ご存じの方がいらしたらコメント下さい。
*ネイティブインディアンの人の食前の祈り:「命の惠みが、命を育み、命が引き継がれていることに感謝します」最後の箇所は記憶違いかもしれないが、食前の祈りの素敵な言葉だと思った。
*大変重要なコメントがありましたので付記させていただきます。これは私の仏教者としての未熟な点を露呈することにはなりますが、このブログの管理人の姿勢をご理解頂き、その上でお読み頂いた方がよいと思いますので、敢えて開いておきます。また仏教の教理としても重要な点であると思います。
Unknown (大問訊)
2006-12-20 13:19:05
はじめまして。時折、寄せていただいております。
さて、この歌は、宗学的に見て、可でしょうか?
それとも、やはり、曹洞宗も霊を認め、死を道徳的なレベルにしかかんがえていないのでしょうか?
ご教示ください。
Unkowunさんへ (風月)
2006-12-20 15:45:46
ご質問有り難うございます。大変に大事なご質問と受け取ります。
「この歌は、宗学的に見て、可でしょうか?」について:
宗学的と限らず、仏教的に見れば、この歌は不可でしょう。なぜならばお釈迦様は、全ての事物に実体の無いことを覚られ、実体があるとするアートマン思想を否定されたのですから、死後の実体があるようなとらえ方であるこの歌は仏教的教理から言えば、不可となります。
「曹洞宗も霊を認め」について:
曹洞宗としては霊魂を実体視する立場はとっていないでしょう。
「死を道徳的なレベル」に考えるという質問に対して:
霊的存在を認めますと、死は道徳的レベルになってしまうということになるでしょう。しかし霊的存在を認めていませんので、死は単に道徳的レベルとしてしか考えないということではないと言えましょう。しかしこのようなご質問を下される方にこそ、お教えを乞いたいところであります。
さてご質問に対しての答えはこのようになりますが、それでは曹洞宗の僧侶である私がこの歌を肯定する立場としてログに掲載していますのは、仏教教理からは外れていることになります。
私のとらえ方にこのような心情的、文学的な香りを否定しきれない考えがあります。また私自身目に見えるだけの世界を世界としていない経験からの考えがあります。このような考えは、仏教の教理の学びが足りないことにあるかもしれませんが。
たまたまテレビをつけたら、9.11のテロでお父さんを失った少女が、「千の風になって」の朗読をしているところだった。この少女だけでなく、肉親を失った悲しみをこの歌によって癒されている人々をアメリカやイギリス、そしてアイルランドまで、本田多江さんという人が訪ねるという番組であった。途中からだったので本田多江さんという方がどのような事情でお父さんを亡くされたのかは分からなかったが、彼女もお父さんを亡くされて、深い悲しみを抱いていた。
世界の各地にこの歌によって、肉親を失った悲しみを乗り越えている人々がいる。言葉の持つ力を感じる詩である。これはアイルランドのテロによって倒れたイギリス兵のステファンという青年(享年21歳)が、自らの死を予感していたのかもしれないが、その母親宛の手紙に残した詩であるという。和訳し日本で作曲をした新井満さんも、はじめのうちは作詞家について不詳と書いていたようである。
このテレビ番組は新井満さんの監修であった。電通に長く勤められていた方なので、番組制作については専門家であるが、特にこの番組については深い思い入れがあることだろう。新井満さんには『自由訳 般若心経』という著書もあり、その内容も亡きお母さんに対しての報恩の書であり、宇宙と生命とのシンフォニーが聞こえてきそうな一冊の書である。そのような書を書いている人の監修なので、この番組には生命を見据える目を、私は感じた。
これは再放送のようなので、おそらく多くの方が観たのではなかろうか。このブログにご訪問の皆さんもとうにご存じの詩でもあろうが、新井満さんの訳詞と英文の原文を掲載しておきます。これは「うたごえ喫茶のひ」さんのブログから転載させていただきました。
「千の風になって 」
【作詞】ステファン
【訳詞】新井満
【作曲】新井満
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています
あの大きな空を
吹き渡っています
A THOUSAND WINDS
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.
When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.
*この原詩のさらに原詩があるという情報を得ました。それはメアリ・フライさんという方の詩だそうです。ところどころ異なるようです。
*ステファンさんのファミリーネームを記憶しそびれました。ご存じの方がいらしたらコメント下さい。
*ネイティブインディアンの人の食前の祈り:「命の惠みが、命を育み、命が引き継がれていることに感謝します」最後の箇所は記憶違いかもしれないが、食前の祈りの素敵な言葉だと思った。
*大変重要なコメントがありましたので付記させていただきます。これは私の仏教者としての未熟な点を露呈することにはなりますが、このブログの管理人の姿勢をご理解頂き、その上でお読み頂いた方がよいと思いますので、敢えて開いておきます。また仏教の教理としても重要な点であると思います。
Unknown (大問訊)
2006-12-20 13:19:05
はじめまして。時折、寄せていただいております。
さて、この歌は、宗学的に見て、可でしょうか?
それとも、やはり、曹洞宗も霊を認め、死を道徳的なレベルにしかかんがえていないのでしょうか?
ご教示ください。
Unkowunさんへ (風月)
2006-12-20 15:45:46
ご質問有り難うございます。大変に大事なご質問と受け取ります。
「この歌は、宗学的に見て、可でしょうか?」について:
宗学的と限らず、仏教的に見れば、この歌は不可でしょう。なぜならばお釈迦様は、全ての事物に実体の無いことを覚られ、実体があるとするアートマン思想を否定されたのですから、死後の実体があるようなとらえ方であるこの歌は仏教的教理から言えば、不可となります。
「曹洞宗も霊を認め」について:
曹洞宗としては霊魂を実体視する立場はとっていないでしょう。
「死を道徳的なレベル」に考えるという質問に対して:
霊的存在を認めますと、死は道徳的レベルになってしまうということになるでしょう。しかし霊的存在を認めていませんので、死は単に道徳的レベルとしてしか考えないということではないと言えましょう。しかしこのようなご質問を下される方にこそ、お教えを乞いたいところであります。
さてご質問に対しての答えはこのようになりますが、それでは曹洞宗の僧侶である私がこの歌を肯定する立場としてログに掲載していますのは、仏教教理からは外れていることになります。
私のとらえ方にこのような心情的、文学的な香りを否定しきれない考えがあります。また私自身目に見えるだけの世界を世界としていない経験からの考えがあります。このような考えは、仏教の教理の学びが足りないことにあるかもしれませんが。
その番組は見ることができませんでしたので、どのような歌なのか解りませんが、詞を読んでいるだけでも作った方の優しさが偲ばれます。
死を覚悟した青年の母へのお別れの言葉なので、真実があるから、人々の心に訴えかける力があるのでしょう。
しかしこのステファンさんのご家族はきっとあまりに周りが騒ぎすぎるからでしょうか、引っ越しをされて外部との接触は断っているそうです。
静かにしておいてあげて欲しいですね。
さて、この歌は、宗学的に見て、可でしょうか?
それとも、やはり、曹洞宗も霊を認め、死を道徳的なレベルにしかかんがえていないのでしょうか?
ご教示ください。
「この歌は、宗学的に見て、可でしょうか?」について:
宗学的と限らず、仏教的に見れば、この歌は不可でしょう。なぜならばお釈迦様は、全ての事物に実体の無いことを覚られ、実体があるとするアートマン思想を否定されたのですから、死後の実体があるようなとらえ方であるこの歌は仏教的教理から言えば、不可となります。
曹洞宗としては霊魂を実体視する立場はとっていないでしょう。
「死を道徳的なレベル」に考えるという質問に対して:霊的存在を認めますと、死は道徳的レベルになってしまうということになるでしょう。
さてご質問に対しての答えはこのようになりますが、それでは曹洞宗の僧侶である私がこの歌を肯定する立場としてログに掲載していますのは、仏教教理から逸脱していることになります。
私のとらえ方にこのような心情的、文学的な香りを否定しきれない考えがあります。また私自身目に見えるだけの世界を世界としていない考えがあります。これのような考えは、仏教の教理の学びが足りないことにあるかもしれません。