1月14日(日)晴れ【人の面前で犬さえ叱るな】
道元禅師の著作のなかに『対大己五夏闍梨法たいたいこごげじゃりほう』(『対大己法』)がある。これは五夏(法臘五歳ー夏安居を五度経験)以上の阿闍梨あじゃり(禅門では五夏以上の僧)に対しての作法、つまり自分よりも叢林そうりんにおいて僧として五年以上先輩に対しての礼儀作法について書かれた書である。
五夏以上の阿闍梨を大己というのだが、大己の前では大声を出してはいけない、とか大己が食べ始めないのに食べ始めてはいけない、とか大己よりも先に寝てはいけないとか、大己よりも先に坐ってはいけない等々、六十二条にわたって礼儀作法が書き連ねてある。叢林においては大事な修行の項目である。現代の社会でも学びたいことは多々ある。
この中に次のような一条がある。
第五十一 在大己前、不可呵罵応呵罵者。
第五十一 大己の前に在って、呵罵かばに応じる者を呵罵すべからず。
第五十一 大己の前では、たとえ叱るに値する者でも叱ってはならない。
先輩が叱らないのに、でしゃばって叱るな、という意味にもとれるだろう。私がこの度、興味を持ち且つ教育に関係することとしてログに書こうと思ったのは、『対大己法』に関する解説書にあった〈「狗でさえ人前では叱るな」と『礼記らいき』には記されている〉という記述にある。
他の人の前で叱られる場合、叱られたそのことを反省するよりも、他の人に対して格好悪いというプライドが働いてしまい、せっかくの叱責が効を奏さないだろうと私も思っていた。実はある方がよく他人の前で息子さんをひどく叱責していたが、その息子さんは父親を恨むようになってしまった、という話を私は知っている。父親としては愛情と思ってしたことだろうが、いつも多くの他人の前で、大声で叱責を受けた息子の心に育ったのは父親に対しての怨念であった、という残念な話である。私は息子さんに大いに同情するのだが、皆さんはどうだろうか。
私は子どもの頃、近くのおばさんに、食事をするとき肘を突いて食べてすごく叱られたことがある。そのときしっかりとそのことを学び、骨の髄までその教えが入り込んで、今でも感謝している。思えばそのとき他の人は誰もいなかった。本当に叱ってあげたいことがあれば、ストレートにそのことだけが本人に入り込むように、他の人の面前では叱らない方がよいのではなかろうか。
家族でも、会社でも、社会でも他人の前で恥をかかさない、ということになるだろうか。別の意見の方もいらっしゃるだろうが、私の意見は経験をとうしてそう思うのである。さてそこで『礼記』の裏付けを見つけたいと思って、明治書院から出ている『礼記』上中下の三冊を繙いた。一通り目を通したが見つからず、二度目にようやく目に入った語
尊客之前、不叱狗。
尊客の前には、狗を叱せず。
尊客の前では、犬にも叱声をあびせてはいけない。
『礼記』「曲礼きょくらい上」にある。おそらくこのところを解説書ではあげていたのであろう。この場合も『対大己法』のように目上の人、もしくは敬う人の前、となっている。礼儀を重んじた時代は特に君子、尊客、先生等に対しは細かい作法がこまごまと決められていたようである。どうもこの一文は犬の尊厳の為ではなく、尊客の前で叱声を揚げることを戒めている文のようである。
この時代は君子、尊客、先生を第一として礼儀が決められているのであるが、現代においては教育をする子弟の尊厳に目を向けるように考えることが肝要であろう。真に子どものことを心配するならば、弟の前で兄を叱らず、兄の前で弟を叱らず、兄の前で妹を叱らず、親もそれぞれの子どもの尊厳と教育を考えて、その子一人を目の前にして、叱るという心構えを持つことが大事ではなかろうか。真に教育の大変なことに頭の下がることだが、悲劇をなんとか回避できないかと願う昨今である。
*『礼記』:五経の一つ。周末から秦・漢時代の儒者の古礼に関して集めた書。孔子の行った礼儀も多く集められている。目上の人に対しての礼儀作法から、服装から、葬儀のときの儀礼など細かく記されている。戴聖(前漢の学者)が編集した「小戴礼」49編を今では『礼記』と言っているが、はじめは85編あった。
道元禅師の著作のなかに『対大己五夏闍梨法たいたいこごげじゃりほう』(『対大己法』)がある。これは五夏(法臘五歳ー夏安居を五度経験)以上の阿闍梨あじゃり(禅門では五夏以上の僧)に対しての作法、つまり自分よりも叢林そうりんにおいて僧として五年以上先輩に対しての礼儀作法について書かれた書である。
五夏以上の阿闍梨を大己というのだが、大己の前では大声を出してはいけない、とか大己が食べ始めないのに食べ始めてはいけない、とか大己よりも先に寝てはいけないとか、大己よりも先に坐ってはいけない等々、六十二条にわたって礼儀作法が書き連ねてある。叢林においては大事な修行の項目である。現代の社会でも学びたいことは多々ある。
この中に次のような一条がある。
第五十一 在大己前、不可呵罵応呵罵者。
第五十一 大己の前に在って、呵罵かばに応じる者を呵罵すべからず。
第五十一 大己の前では、たとえ叱るに値する者でも叱ってはならない。
先輩が叱らないのに、でしゃばって叱るな、という意味にもとれるだろう。私がこの度、興味を持ち且つ教育に関係することとしてログに書こうと思ったのは、『対大己法』に関する解説書にあった〈「狗でさえ人前では叱るな」と『礼記らいき』には記されている〉という記述にある。
他の人の前で叱られる場合、叱られたそのことを反省するよりも、他の人に対して格好悪いというプライドが働いてしまい、せっかくの叱責が効を奏さないだろうと私も思っていた。実はある方がよく他人の前で息子さんをひどく叱責していたが、その息子さんは父親を恨むようになってしまった、という話を私は知っている。父親としては愛情と思ってしたことだろうが、いつも多くの他人の前で、大声で叱責を受けた息子の心に育ったのは父親に対しての怨念であった、という残念な話である。私は息子さんに大いに同情するのだが、皆さんはどうだろうか。
私は子どもの頃、近くのおばさんに、食事をするとき肘を突いて食べてすごく叱られたことがある。そのときしっかりとそのことを学び、骨の髄までその教えが入り込んで、今でも感謝している。思えばそのとき他の人は誰もいなかった。本当に叱ってあげたいことがあれば、ストレートにそのことだけが本人に入り込むように、他の人の面前では叱らない方がよいのではなかろうか。
家族でも、会社でも、社会でも他人の前で恥をかかさない、ということになるだろうか。別の意見の方もいらっしゃるだろうが、私の意見は経験をとうしてそう思うのである。さてそこで『礼記』の裏付けを見つけたいと思って、明治書院から出ている『礼記』上中下の三冊を繙いた。一通り目を通したが見つからず、二度目にようやく目に入った語
尊客之前、不叱狗。
尊客の前には、狗を叱せず。
尊客の前では、犬にも叱声をあびせてはいけない。
『礼記』「曲礼きょくらい上」にある。おそらくこのところを解説書ではあげていたのであろう。この場合も『対大己法』のように目上の人、もしくは敬う人の前、となっている。礼儀を重んじた時代は特に君子、尊客、先生等に対しは細かい作法がこまごまと決められていたようである。どうもこの一文は犬の尊厳の為ではなく、尊客の前で叱声を揚げることを戒めている文のようである。
この時代は君子、尊客、先生を第一として礼儀が決められているのであるが、現代においては教育をする子弟の尊厳に目を向けるように考えることが肝要であろう。真に子どものことを心配するならば、弟の前で兄を叱らず、兄の前で弟を叱らず、兄の前で妹を叱らず、親もそれぞれの子どもの尊厳と教育を考えて、その子一人を目の前にして、叱るという心構えを持つことが大事ではなかろうか。真に教育の大変なことに頭の下がることだが、悲劇をなんとか回避できないかと願う昨今である。
*『礼記』:五経の一つ。周末から秦・漢時代の儒者の古礼に関して集めた書。孔子の行った礼儀も多く集められている。目上の人に対しての礼儀作法から、服装から、葬儀のときの儀礼など細かく記されている。戴聖(前漢の学者)が編集した「小戴礼」49編を今では『礼記』と言っているが、はじめは85編あった。
現代社会のマナーとしても、ほとんど通用するものだと思います。実際、似通った部分も多いですし。
tenjin和尚さんがもしかしたら『対大己法』については紹介しているかもしれませんね。
できるだけ、人前では叱らないようにと思っていますが、家人には「もう少し考えた方がいいよ」と言われています。(汗)
礼儀については、教えていきたいと思っています。
対大己法は、いいテキストですね。
しかしじっくりとというときは、やはり、ちょっと来なさい、とか言って呼んで叱るのでしょう。カッコイイ父親像ですね。
本当にそうですね。
恥をかかせないように注意するということを心がけている人は少ないかもしれません。
学校でも職場でも逆に、恥をかかせて、冷や水を浴びせて矯正してやろうという態度があるように思います。
私も、我が子に対して気をつけたいと思いました。
私は何度となくそんな目に会いました。
正直、腹も立ったし、悲しくなったりしたものです。
何も大声で怒鳴る必要はないじゃないか・・・と。
ですが、おかげで、無闇に大声で怒鳴ることが相手をひどく傷つけてしまうということを学びました。
反面教師として、活かして行こうと思っています。
「対大己法」については、改めて読み返したいと思いました。
お子さんの場合、思わず叱ってしまうこともあるでしょうけれど、やはりアフターケアーがきちんとしていれば、大丈夫だろうと思ったりします。
本当に叱るときは、親も身のひきしまる感じがあるのだと拝察致します。
りょうさんへ
私は一度、本師に怒鳴られたことがあります。やはり他に人がいませんでしたので、これもビシッと骨の髄まで沁みました。
りょうさんの場合はなんとなく大変だったのだろうと拝察する次第です。やはりそのことの辛さは本人が一番良く知っていますので、反面教師としてりょうさんは、思いやりのある師匠になられると思います。