12月24日(月)【小茶のおばちゃん】
明日は小茶のおばちゃんの命日です。平成8年の12月25日おばちゃんはお亡くなりになりました。82歳でした。同じ年の同じ月の21日には私の本師も亡くなりました。年が明けた2月14日には映画が跳ねた後のテアトル新宿を借りきって小茶葬があり、おばちゃんを偲んだのが昨日のような気がします。あれから10年が経ちました。
大学時代の5年間(学生運動華やかな頃で、留年したので5年です)おばちゃんの顔を見ない一週間はなかったというほどよく通っていました。大学の映画研究会の先輩たちに連れて行かれたのがはじめでしたが、お金が無くてもおばちゃんの所に行けば、いつでも飲ませてもらえました。そしていつでもおいしいおむすびと煮染めの山盛りを食べさせてもらえました。
店が開く前から行っては、おばちゃんに人生相談に乗ってもらったり、終電が無くなってしまってよく小茶の二階に泊めてもらいました。明け方までおばちゃんは働いているにも拘わらず、ちょっと寝たかと思うと、いつのまにか河岸にその日の仕入れに行っているのには驚きました。
こちらは二日酔いで頭は痛いのに、大学には行かなくてはならないし、アルバイトにも行かなくてはならないし、おばちゃんに喝を入れられて、朝の新宿の街を歩いたことも何度あるか分かりません。私はそれほどの飲んべえではありませんし、あちこち飲み歩くというタイプではなく、小茶のおばちゃんだけが頼りの気の弱い、ちょっといきがっている女子大生といったところでした。
小茶のカウンター席にはあまり座ったことがなく、階段のところか、二階の三畳で、15人ぐらいいつもぎゅうぎゅうになって座り合っていました。それでもそこで映画の話をしたり、誰かがギターを弾いて歌を歌ったり、小茶に来さえすれば、必ず誰か友人に会えるそんな場でした。
そして誰かが必ずおばちゃんに怒られていて、「ああ、やだやだ、そんな人は来ないで」と言われてシュンとしている姿がありました。おばちゃんは潔癖性の人でしたので、くだらないことを言ったり、人の道に反するようなことをすると、嫌われます。喝はむしろおばちゃんの愛情といってよいかもしれません。喝を入れられた人はかえって喜んで通って来るという感じがありました。おばちゃんはお客さんにお愛想を振りまいたことは無いと思うのですが、いつも客で溢れていたのです。二坪ぐらいしかないのに、小茶は不思議な空間でした。
私が知っている頃のおばちゃんはいつも白い割烹着をつけて、ガス台の隣に坐って客の注文をこなしている姿です。時々おいしそうに吸う煙草は「しんせい」だったでしょうか。そのおばちゃんの前にはカウンター、頭上には二階に上がる階段があって、二階のお運びは、客の誰かしらが自然につとめている。おばちゃんの周りにいて飲んでいる、それだけで皆満足していた、そんなふうでした。
焼け跡の屋台から出発して、丁度私の生まれた昭和21年から、新宿で生きてきたおばちゃん、歌舞伎町一番街の店に移るときもお客さんのカンパが力になったそうですが、おばちゃんのためには誰でも喜んで力になったことでしょう。愛想は振りまかなくても、お客さんのためにおばちゃんほど尽くしてくれた人はいないでしょう。一年365日、小茶には休みがありませんでした。お金のない学生さんでもいつでも飲めるように、と言ったことを一度聞いた覚えがあります。テアトル新宿の小茶葬のとき、そこに飾られたおばちゃんの掛け売り帖を見て、皆それぞれの感慨にふけったことでしょう。泣いた人もいたでしょう。おばちゃんにだけ分かる字で、それぞれの客のつけが書かれた厚い帳面。この帳面を勿論見ていたでしょうけれど、實は借りを払いに来た客の懐を見てくれて、「幾らよ」と請求してくれていたような気がします。
区役所通りの歌舞伎町一番街には、おばちゃんがいて、不思議な空間でした。私の青春は小茶とともにあったと言っても過言ではありません。おばちゃんの名は栗間フジさん、誕生日は四月一日でした。この小茶も都政の都合で立ち退きになってしまい、歌舞伎町の二丁目に移ってしまいました。私は新しいお店になってからは、全く伺うことなく、おばちゃんに去られてしまいました。今、新宿のネオンとは無縁のような顔をして、禅語録の参究や坐禅の日々を送っていますけれども、おばちゃんのお陰で掛け替えのない青春を送れたと思い、感謝を込めて思い出を書きました。今も面白いと思い生きていますけれど、人生などと、掌のひらに載せることなく、そのまっただ中で動いていた若い頃を思い出せば、そこにはおばちゃんがいたのです。おばちゃん、有り難う。あの厚いそして熱々の卵焼きが懐かしい。
(今夜から大阪に出かけますので、一日早い追悼文です)
明日は小茶のおばちゃんの命日です。平成8年の12月25日おばちゃんはお亡くなりになりました。82歳でした。同じ年の同じ月の21日には私の本師も亡くなりました。年が明けた2月14日には映画が跳ねた後のテアトル新宿を借りきって小茶葬があり、おばちゃんを偲んだのが昨日のような気がします。あれから10年が経ちました。
大学時代の5年間(学生運動華やかな頃で、留年したので5年です)おばちゃんの顔を見ない一週間はなかったというほどよく通っていました。大学の映画研究会の先輩たちに連れて行かれたのがはじめでしたが、お金が無くてもおばちゃんの所に行けば、いつでも飲ませてもらえました。そしていつでもおいしいおむすびと煮染めの山盛りを食べさせてもらえました。
店が開く前から行っては、おばちゃんに人生相談に乗ってもらったり、終電が無くなってしまってよく小茶の二階に泊めてもらいました。明け方までおばちゃんは働いているにも拘わらず、ちょっと寝たかと思うと、いつのまにか河岸にその日の仕入れに行っているのには驚きました。
こちらは二日酔いで頭は痛いのに、大学には行かなくてはならないし、アルバイトにも行かなくてはならないし、おばちゃんに喝を入れられて、朝の新宿の街を歩いたことも何度あるか分かりません。私はそれほどの飲んべえではありませんし、あちこち飲み歩くというタイプではなく、小茶のおばちゃんだけが頼りの気の弱い、ちょっといきがっている女子大生といったところでした。
小茶のカウンター席にはあまり座ったことがなく、階段のところか、二階の三畳で、15人ぐらいいつもぎゅうぎゅうになって座り合っていました。それでもそこで映画の話をしたり、誰かがギターを弾いて歌を歌ったり、小茶に来さえすれば、必ず誰か友人に会えるそんな場でした。
そして誰かが必ずおばちゃんに怒られていて、「ああ、やだやだ、そんな人は来ないで」と言われてシュンとしている姿がありました。おばちゃんは潔癖性の人でしたので、くだらないことを言ったり、人の道に反するようなことをすると、嫌われます。喝はむしろおばちゃんの愛情といってよいかもしれません。喝を入れられた人はかえって喜んで通って来るという感じがありました。おばちゃんはお客さんにお愛想を振りまいたことは無いと思うのですが、いつも客で溢れていたのです。二坪ぐらいしかないのに、小茶は不思議な空間でした。
私が知っている頃のおばちゃんはいつも白い割烹着をつけて、ガス台の隣に坐って客の注文をこなしている姿です。時々おいしそうに吸う煙草は「しんせい」だったでしょうか。そのおばちゃんの前にはカウンター、頭上には二階に上がる階段があって、二階のお運びは、客の誰かしらが自然につとめている。おばちゃんの周りにいて飲んでいる、それだけで皆満足していた、そんなふうでした。
焼け跡の屋台から出発して、丁度私の生まれた昭和21年から、新宿で生きてきたおばちゃん、歌舞伎町一番街の店に移るときもお客さんのカンパが力になったそうですが、おばちゃんのためには誰でも喜んで力になったことでしょう。愛想は振りまかなくても、お客さんのためにおばちゃんほど尽くしてくれた人はいないでしょう。一年365日、小茶には休みがありませんでした。お金のない学生さんでもいつでも飲めるように、と言ったことを一度聞いた覚えがあります。テアトル新宿の小茶葬のとき、そこに飾られたおばちゃんの掛け売り帖を見て、皆それぞれの感慨にふけったことでしょう。泣いた人もいたでしょう。おばちゃんにだけ分かる字で、それぞれの客のつけが書かれた厚い帳面。この帳面を勿論見ていたでしょうけれど、實は借りを払いに来た客の懐を見てくれて、「幾らよ」と請求してくれていたような気がします。
区役所通りの歌舞伎町一番街には、おばちゃんがいて、不思議な空間でした。私の青春は小茶とともにあったと言っても過言ではありません。おばちゃんの名は栗間フジさん、誕生日は四月一日でした。この小茶も都政の都合で立ち退きになってしまい、歌舞伎町の二丁目に移ってしまいました。私は新しいお店になってからは、全く伺うことなく、おばちゃんに去られてしまいました。今、新宿のネオンとは無縁のような顔をして、禅語録の参究や坐禅の日々を送っていますけれども、おばちゃんのお陰で掛け替えのない青春を送れたと思い、感謝を込めて思い出を書きました。今も面白いと思い生きていますけれど、人生などと、掌のひらに載せることなく、そのまっただ中で動いていた若い頃を思い出せば、そこにはおばちゃんがいたのです。おばちゃん、有り難う。あの厚いそして熱々の卵焼きが懐かしい。
(今夜から大阪に出かけますので、一日早い追悼文です)