風月庵だより

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南泉白牯 仏性を考える

2025-02-08 14:01:55 | Weblog

2月8日(土)晴れ【南泉白牯 仏性を考える】

今日は2月8日です。時のたつのは、あまりに早く、これでは私もあの世に帰らなくてはならない日が、あっという間に来る感じがあります。

2月15日を日本では一応お釈迦様のお涅槃の日、としていますので、禅寺では涅槃会摂心(接心)が行われるでしょう。

今、二人の弟子が僧堂修行していますので、もうすぐ接心を勤めることでしょう。自分は、それほど長時間の坐禅をしている時間も、体力もありません。本当に接心に耐えられるときに修行することは、大事です。

さて、先日、『従容録』の石井修道先生の研究会に参加させていただき、久々に『従容録』に触れました。私の研究は『宏智頌古』(わんしじゅこ)百則で、『従容録』の元となっている頌古です。ご存じと思いますが、『碧巌録』の元になる頌古は『雪竇頌古』(せっちょうじゅこ)百則です。

さて、『宏智頌古』69則に「南泉白牯」として、次のような「本則」があります。

挙。南泉示衆云、「三世諸仏不知有、狸奴白牯却知有」
(訓読)挙す。南泉衆に示して云く、「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却って有ることを知る」

このような本則です。「何」が有る、ことなのでしょうか。(『宏智頌古』として考えますので、著語は抜きました。)

一つに「仏性」と言えます。多くの老師の提唱録がありますが、それをひきだしてくるのはやめにしまして「仏性」として考えましょう。三世の諸仏は、仏性があることを知らない、狸奴白牯(りぬびゃっこ)ーところが狸や雄牛などの動物は、仏性の有ることを知っている。

これはどういうことを言っているかと考えますと、簡単に言えば、諸仏は今自分がしていることは「よいことをしている」などという自覚なく、当たり前に仏性が為すことをしているが、そうでない輩(諸仏ではない)は、「よいことをしている」と、自分の行為を自覚してやっている、と訳しておきたいと思います。

つまり自分が為していることが、善行であるなどという顔をして善行をしていない、三世の諸仏は、どっぷり仏性そのものですから、今やっていることが、「よいことだ」などと思っていません。

俗人は自分の行為を、特に世間的に、まあ、善行だろうということを為すとき、「自分は良いことをしているでしょう」「偉いでしょう」などと、ついつい認証欲を出してしまうのではないでしょうかね。

ところで、本師余語翠巖老師の『従容録』提唱録を読みますと、次のように書かれています。

三世の諸仏と言われるような人たちは、本来のもの、無限定で、説明しきれるものではない天地のいのちというふうなもの、そういうものがあるということも知らない、というのですね。

本人は当たり前の善行をしておるだけじゃ、実際の孝行というのは、しているということを意識しておらんということです。

ところが、牛や狸といわれる動物のようなものは、そういう自分がよいことをしておるということを意識しながらやっている、ということですが、一方はよいことをやっていて、よいことをやっていることも知らん、ところが他方にはよいことをやっていることを鼻にぶらさげている連中がいると、そういうふうに普通は解釈しているわけです。

禅語録を読みますと、わずか数行の中に、かなり深い意味があることを改めて思います。面白いです。私は禅宗で出家して面白いです。

*話は変わりますが、どなたでも、出家志望の方がいましたら、是非当ブログにご連絡くださいませ。出家は面白いです。

*お邪魔猫と知らないで、お邪魔しているルナちゃんです。

 

 



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